第352話 名の浮上
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第352話 名の浮上

第12章 記録の裂目

三拍の波は、夜が明けても続いていた。

列車はさかいまくの手前で速度を落とし、液状の海に沿って走っている。銀色の液面はどこまでも滑らかで、風もないのに、車体を叩く三拍だけが規則正しく繰り返されていた。とん、とん、とん。ここにいる。ここにいる。

最初に動いたのは、おたまだった。

座席から窓枠へ、音もなく跳び上がる。猫の目が、液面の一点に固定された。瞳孔が細く絞られ、尻尾の動きが止まる。

「……何か、来る」

こよいが窓に額を寄せた。硝子の冷たさの向こうで、銀色の海は朝の光を受けても銀色のままだった。本物の海なら、朝は水面の色を変える。ここの液面は、空を映さない。映すべき記録を持たないものは、何も映してもらえないのだ。

その瞬間だった。

液面の下で、金色が膨らんだ。

銀色の海の底から、光の塊がゆっくりと昇ってくる。最初は拳ほどに見えた。近づくにつれて大きくなる。人の頭ほど。胸ほど。光は輪郭を持たず、それでも確かに一つの塊として、液面のすぐ下まで浮かび上がってきた。

「名前だ」

久遠くおんが窓に飛びついた。義眼ぎがん蒼光そうこうが液面を貫き、金色の塊を照らす。

「溶かされた名前が——浮上しようとしている」

金色の塊が、液面の裏側に触れた。

波紋が広がる。だが、液面は破れなかった。銀色の表面が薄い膜のように張り詰め、下から押し上げる光を、静かに、しかし確実に押し返している。金色は膜の裏で平たく潰れ、光のてのひらを液面に押し当てるような形になった。

内側から硝子ガラスを叩く手のように。

こよいの喉の奥で、息が詰まった。膜の裏に押し当てられた光は、指の形にも、掌の形にも見えなかった。形なんて、もう残っていないのだ。それでも、その光のやることは、閉じ込められた者のやることと同じだった。押して、叩いて、外を探している。  銀色の液面は、波紋の輪を綺麗に整えて、何事もなかったかのように滑らかさを取り戻していく。その滑らかさが、恐ろしかった。この海は、呑み込んだものの必死さを、表面に出さない。

「出られないの」

こよいの声がかすれた。

「液面そのものが、流刑地るけいちふただ」

久遠くおんの声は低かった。

「境の膜は、外から入るものは通す。だが中から出るものは通さない。捨てた記録が這い出してこないように、そういうことわりで張られている。……浮上できても、破れない」

やがて、二つ目の光が昇ってきた。三つ目。四つ目。

最初の光の浮上に引かれたのか、写本しゃほんの気配に気づいたのか、海の底のあちこちから金色が浮かび、液面の裏に集まってくる。大きいもの、小さいもの、明滅の弱いもの。膜の裏側に、金色の星空が裏返しに広がっていくようだった。

「……こんなに」

あさひが呻いた。数え切れなかった。この海に捨てられたのは、四柱だけではない。何十年、何百年ぶんの「不都合な記録」が、この銀色の下に沈められている。そして、その全部が——まだ、浮かぼうとしている。  巾着きんちゃくの中で、四柱の神々が一斉に脈打った。哀しみとも、怒りともつかない拍だった。凍らされるのと、溶かされるのと、どちらが惨いか。神々は両方を知っている側だった。

最初の金色の光は、それでも沈まなかった。

列車の速度に合わせて、液面の下を並走してくる。膜の裏に光を押し当てたまま、離れない。写本しゃほんの気配を追っているのだ。

こよいの胸元で、写本しゃほんが熱を持った。

七枚のうち、空の四枚。そのどれか——いや、四枚全部が、微かに震えている。液面の下の光が、あの四柱のうちの一柱なのか。それとも、この海に捨てられた数え切れない名前の、別の一柱なのか。

「分からない」

久遠くおんが首を振った。

「距離がありすぎる。文字が読めない。だが、どちらでも同じことだ。浮かぼうとしている名前が、ここにいる。それが全てだ」

あさひが窓の外を見つめたまま、低く言った。

「引き上げる方法は」

「膜は破れない。だが——受け皿を液面に直接触れさせれば、話は別だ。膜を破るんじゃない。膜越しに、名前を紙へ吸い上げる。写本しゃほんは受け皿だ。境のことわりも、紙と名前の間の糸までは切れない」

「確かなのか」

「確かじゃない。墨の井戸で見た理からの、推測だ。だが、名前が源と繋がる糸を、観測者は一度も切れたことがない。切れるなら、写本ごと燃やせば済む。奴らがわざわざ海に沈めて薄まるのを待つのは——切れないからだ」

久遠くおんの推測は、いつも冷たい言い方の中に、微かな熱を隠している。こよいはもう、それを聞き分けられるようになっていた。

久遠くおん義眼ぎがんが、進行方向のきりの奥を透かした。

「問題は足場だ。液面に近づける足場——桟橋なり、杭なり。この先で、探す」

こよいは窓にてのひらを当てた。硝子は冷たく、掌の熱を吸っていく。それでも当て続けた。経蔵の凍った通路で、氷越しに名前へ体温を送ったときと、同じやり方で。

液面の下の金色が、その動きに応えるように、一度だけ強く光った。

「待ってて」

声は硝子ガラスに遮られ、外には届かない。それでも言った。言葉は届かなくても、写本しゃほんの熱は届いている。それは、この数日で確かめてきたことだった。

金色の光が、ゆっくりと沈み始めた。

力尽きたのではない、とこよいは思った。潜ったのだ。浮上には力が要る。次に浮かぶときのために、深いところで力を溜める。溶けかけの身体で、それでも名前は、まだ諦めていない。

沈み際、光は液面の裏を三度、叩いた。

とん、とん、とん。

ここにいる。

おたまが窓枠の上で、小さく一声鳴いた。液面の奥へ、返事をするように。首輪の小鈴が、ちりんと澄んだ音を立てた。溶けない音だった。

列車はきりの中を進み続けた。三拍の波は、もう車体を叩いていない。けれど写本しゃほんの熱は冷めず、空の四枚は、膝の上でずっと微かに震え続けていた。

名前は、浮かぼうとしている。溶かされて、形を失って、それでも。

あとは、こちらが受け皿を液面まで届けるだけだ。届け方は、まだない。けれど、届け先は、もう見えた。

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