第354話 無音の浜
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第354話 無音の浜

第12章 記録の裂目

液体の色が変わった。  銀色だった流れが、淡い金色に移り始めていた。  窓の外が琥珀色(こはくいろ)に染まっている。光の質が違う。列車の窓硝子(まどがらす)を通してもなお目を細めたくなるほどの、濃密な金色だった。車内の壁や天井にまで、その金の光が滲(にじ)み込んで、油灯(ゆとう)の蒼白い火を圧(お)している。

「近いぞ。宵波浜(よいなみはま)の核心部だ」

久遠(くおん)が目録(もくろく)の海図(かいず)を見ていた。  座標(ざひょう)が不安定に揺れている。  液状の領域では、固定(こてい)された座標(ざひょう)が存在しない。海図(かいず)の上で点が泳ぐように動き、久遠(くおん)の蒼光(そうこう)がそれを追いかけるたびに、点は別の場所へ逃げた。固定(こてい)する対象が液体であるという矛盾(むじゅん)を、目録(もくろく)自身が処理しきれずにいるようだった。

気温が下がった。

星野(ほしの)の乾いた冷気とは違う。  空気が重く、湿っている。

衣服の繊維(せんい)に水分が染み込んでくるような、纏(まつ)わりつく冷たさだった。袖口(そでぐち)から手首にかけて、布地が肌に張りつく。こよいは無意識に腕を擦(さす)った。寒さというより、空気そのものに掴(つか)まれている感覚。列車の車内だというのに、海の底に沈められたような圧迫(あっぱく)が全身を包んでいる。

こよいの息が白くなった。  吐いた息が宙に留まり、なかなか散らない。息の白さが目の前で薄く広がり、琥珀色(こはくいろ)の光を受けて淡い虹(にじ)を帯びた。その光景は美しかったが、こよいの肺は重かった。息を吸うたびに、冷えた空気が胸の奥まで落ちていくのを感じる。

巾着(きんちゃく)が静かになった。  それまで穏やかに脈打っていた神々が、急に沈黙した。  温もりも消えた。

こよいが巾着(きんちゃく)を握っても、応答がない。布の中に手を差し入れるようにして触れても、神々の気配だけはあるのに、声も温もりも返ってこない。水たまりの底に沈んだ石のように、そこに在るだけで、何も発していなかった。

「……みんな?」

返事がなかった。

こよいは巾着(きんちゃく)を耳に近づけた。いつもなら微かに聞こえる、雨粒が葉を打つような小さな音。それすらも途絶(とだ)えている。耳を押し当てても、布と布が擦(す)れる音しか聞こえなかった。

「この液体は音を吸う」

久遠(くおん)が小声で言った。

車内ですら、声が遠い。  久遠(くおん)は隣の座席にいるのに、まるで廊下(ろうか)の向こうから話しているように聞こえた。声が出た瞬間から空気の中で解(ほど)けていく。言葉の輪郭(りんかく)が曖昧(あいまい)になり、語尾が溶ける。

壁に吸い込まれていくように減衰(げんすい)する。

「名前が液体に溶けるとき、最初に失われるのが声だ。この領域では、あらゆる音が液体に吸収される。巾着(きんちゃく)の中の声も例外じゃない」

こよいは巾着(きんちゃく)を両手で包んだ。  声が出せないだけで、神々はまだいる。  温もりが消えたのは、この場所の冷気に負けているからだ。

両手の指先がかじかんでいた。こよいは自分の体温を神々に送ろうとするように、巾着(きんちゃく)を握る力を強めた。布の中で、微かに——本当に微かに——脈が一つ返ってきた気がした。気のせいかもしれない。だがこよいはその一脈を信じることにした。声が出せなくても、温もりは届く。そう思わなければ、この無音の中で心が折れてしまいそうだった。

窓の外で、金色の流れが渦(うず)を巻いている。  銀色の時とは流れの質が違った。銀の流れは滑らかだったが、金の流れは粘(ねば)い。渦(うず)が巻くたびに、液面がゆっくりと盛り上がり、沈み、また盛り上がる。呼吸するように。その上下動のたびに、金色の液面が窓硝子(まどがらす)に近づき、また離れた。

渦(うず)の中心に、暗い穴が見えた。  穴というよりは窪(くぼ)みに近い。金色の液体が渦(うず)の回転に引かれて中心に集まり、そこだけが色を失って暗くなっている。底が見えない。こよいはその暗がりを見つめた。暗い穴の縁(ふち)で、金色の液体が細い筋になって巻き込まれていく。名前の残骸(ざんがい)が、あの穴に向かって沈んでいくのだ。

おたまだけが、変わらなかった。無音の車内で、猫は毛づくろいの手を止めもしない。首の小鈴が、ちり、と鳴った。音を吸う液体の領域で、その一音だけが吸われずに、車内に短く残った。理(ことわり)の網の目は、この猫の音を捕まえられないらしい。

あさひが立ち上がった。  座席から離れるとき、床板を踏む音が驚くほど小さかった。あさひの体重なら、もっと大きな音がするはずだ。音が吸われている。あさひ自身もそれに気づいたのか、一瞬だけ足元に視線を落とし、それから窓の外に目を戻した。顎(あご)を上げ、目を細め、渦(うず)の向こうに何があるのかを見極めようとする目つきだった。

「着いたな」

列車が止まった。

音がなかった。

車輪が止まる音も、蒸気(じょうき)が抜ける音もない。金属と金属がぶつかり合う制動(せいどう)の衝撃もない。  完全な無音の中で、列車は静止した。

三人の耳に残ったのは、自分自身の血の音だけだった。こよいは自分の心臓の鼓動(こどう)を聞いた。久遠(くおん)の細い呼吸が微かに聞こえた。あさひの靴底が床板を擦(す)る音。それだけが、この場所にまだ音の存在を許されている証(あかし)のようだった。

窓の外に、灰色の杭(くい)が三本、金色の液体の中に立っていた。  杭(くい)の表面は流れに削られて丸みを帯びている。だがその根元は固い地盤に刺さっているのだろう、液体の流れに揉(も)まれても微動だにしない。三本の杭(くい)が等間隔に並び、かつてそこに桟橋(さんばし)があったことを無言で証明していた。  宵波浜(よいなみはま)だった。

扉を開けると、足元は砂ではなかった。  白い。どこまでも白い。  消された記録(きろく)の余白(よはく)が、砂粒のように堆積(たいせき)して浜を作っていた。  踏むたびに、かすかな文字の残像(ざんぞう)が足の裏に触れて消えた。読み取れないほど薄い文字。誰かの名前だったもの。誰かの記憶だったもの。それが砂になって、ここに積もっている。こよいは屈んで、白い砂に素手で触れた。冷たいと思った指先に、むしろ微(かす)かな温もりが返った。消え残った記録(きろく)の最後の体温が、砂の中にまだ宿っているのだ。  何も書かれていない紙の匂いが、潮(しお)の代わりに満ちていた。

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