液体の色が変わった。 銀色だった流れが、淡い金色に移り始めていた。 窓の外が琥珀色に染まっている。光の質が違う。列車の窓硝子を通してもなお目を細めたくなるほどの、濃密な金色だった。車内の壁や天井にまで、その金の光が滲み込んで、油灯の蒼白い火を圧している。
「近いぞ。宵波浜の核心部だ」
久遠が目録の海図を見ていた。 座標が不安定に揺れている。 液状の領域では、固定された座標が存在しない。海図の上で点が泳ぐように動き、久遠の蒼光がそれを追いかけるたびに、点は別の場所へ逃げた。固定する対象が液体であるという矛盾を、目録自身が処理しきれずにいるようだった。
気温が下がった。
星野の乾いた冷気とは違う。 空気が重く、湿っている。
衣服の繊維に水分が染み込んでくるような、纏わりつく冷たさだった。袖口から手首にかけて、布地が肌に張りつく。こよいは無意識に腕を擦った。寒さというより、空気そのものに掴まれている感覚。列車の車内だというのに、海の底に沈められたような圧迫が全身を包んでいる。
こよいの息が白くなった。 吐いた息が宙に留まり、なかなか散らない。息の白さが目の前で薄く広がり、琥珀色の光を受けて淡い虹を帯びた。その光景は美しかったが、こよいの肺は重かった。息を吸うたびに、冷えた空気が胸の奥まで落ちていくのを感じる。
巾着が静かになった。 それまで穏やかに脈打っていた神々が、急に沈黙した。 温もりも消えた。
こよいが巾着を握っても、応答がない。布の中に手を差し入れるようにして触れても、神々の気配だけはあるのに、声も温もりも返ってこない。水たまりの底に沈んだ石のように、そこに在るだけで、何も発していなかった。
「……みんな?」
返事がなかった。
こよいは巾着を耳に近づけた。いつもなら微かに聞こえる、雨粒が葉を打つような小さな音。それすらも途絶えている。耳を押し当てても、布と布が擦れる音しか聞こえなかった。
「この液体は音を吸う」
久遠が小声で言った。
車内ですら、声が遠い。 久遠は隣の座席にいるのに、まるで廊下の向こうから話しているように聞こえた。声が出た瞬間から空気の中で解けていく。言葉の輪郭が曖昧になり、語尾が溶ける。
壁に吸い込まれていくように減衰する。
「名前が液体に溶けるとき、最初に失われるのが声だ。この領域では、あらゆる音が液体に吸収される。巾着の中の声も例外じゃない」
こよいは巾着を両手で包んだ。 声が出せないだけで、神々はまだいる。 温もりが消えたのは、この場所の冷気に負けているからだ。
両手の指先がかじかんでいた。こよいは自分の体温を神々に送ろうとするように、巾着を握る力を強めた。布の中で、微かに——本当に微かに——脈が一つ返ってきた気がした。気のせいかもしれない。だがこよいはその一脈を信じることにした。声が出せなくても、温もりは届く。そう思わなければ、この無音の中で心が折れてしまいそうだった。
窓の外で、金色の流れが渦を巻いている。 銀色の時とは流れの質が違った。銀の流れは滑らかだったが、金の流れは粘い。渦が巻くたびに、液面がゆっくりと盛り上がり、沈み、また盛り上がる。呼吸するように。その上下動のたびに、金色の液面が窓硝子に近づき、また離れた。
渦の中心に、暗い穴が見えた。 穴というよりは窪みに近い。金色の液体が渦の回転に引かれて中心に集まり、そこだけが色を失って暗くなっている。底が見えない。こよいはその暗がりを見つめた。暗い穴の縁で、金色の液体が細い筋になって巻き込まれていく。名前の残骸が、あの穴に向かって沈んでいくのだ。
おたまだけが、変わらなかった。無音の車内で、猫は毛づくろいの手を止めもしない。首の小鈴が、ちり、と鳴った。音を吸う液体の領域で、その一音だけが吸われずに、車内に短く残った。理の網の目は、この猫の音を捕まえられないらしい。
あさひが立ち上がった。 座席から離れるとき、床板を踏む音が驚くほど小さかった。あさひの体重なら、もっと大きな音がするはずだ。音が吸われている。あさひ自身もそれに気づいたのか、一瞬だけ足元に視線を落とし、それから窓の外に目を戻した。顎を上げ、目を細め、渦の向こうに何があるのかを見極めようとする目つきだった。
「着いたな」
列車が止まった。
音がなかった。
車輪が止まる音も、蒸気が抜ける音もない。金属と金属がぶつかり合う制動の衝撃もない。 完全な無音の中で、列車は静止した。
三人の耳に残ったのは、自分自身の血の音だけだった。こよいは自分の心臓の鼓動を聞いた。久遠の細い呼吸が微かに聞こえた。あさひの靴底が床板を擦る音。それだけが、この場所にまだ音の存在を許されている証のようだった。
窓の外に、灰色の杭が三本、金色の液体の中に立っていた。 杭の表面は流れに削られて丸みを帯びている。だがその根元は固い地盤に刺さっているのだろう、液体の流れに揉まれても微動だにしない。三本の杭が等間隔に並び、かつてそこに桟橋があったことを無言で証明していた。 宵波浜だった。
扉を開けると、足元は砂ではなかった。 白い。どこまでも白い。 消された記録の余白が、砂粒のように堆積して浜を作っていた。 踏むたびに、かすかな文字の残像が足の裏に触れて消えた。読み取れないほど薄い文字。誰かの名前だったもの。誰かの記憶だったもの。それが砂になって、ここに積もっている。こよいは屈んで、白い砂に素手で触れた。冷たいと思った指先に、むしろ微かな温もりが返った。消え残った記録の最後の体温が、砂の中にまだ宿っているのだ。 何も書かれていない紙の匂いが、潮の代わりに満ちていた。
