窓硝子の外で、色が変わった。
銀色の流れが続いていた景色に、一筋だけ異なる色が混じっている。茶色でも灰色でもない。名前のない色だった。銀色の中を細い帯のように走り、列車の進行方向と交差している。その帯の上を通過する波は、色を失って透明になった。一瞬だけ透明になり、すぐに銀色に戻る。帯が記録の色を吸い取っているのだ。
こよいは額を硝子に押しつけた。冷たさが骨に届く。硝子の表面に吐息が白く曇り、すぐに消えた。その冷たさが、さっきまでと違う。深い。額の裏側にまで染みてくるような冷たさ。硝子に触れている肌が薄く痺れた。
硝子一枚の向こうにあるものが、液状の記録からもっと別の何かに変わりつつある。銀色の流れの表面に、細かな泡が立っていた。泡は弾けるたびに小さな光の粒を散らし、すぐに消える。記録が壊れるときに出る光かもしれなかった。
「近いな」
久遠が義眼を窓に向けた。蒼光が銀色の流れを走査し、すぐに収まった。蒼光の残像が硝子の表面に一瞬留まり、それも消えた。
「境まで半刻もない。この先で記録の密度が変わる。今まで辛うじて形を保っていた名前が、境の向こうでは即座に溶かされる」
久遠は目録を膝の上に広げた。頁の端に書かれた数値を指でなぞり、眉をひそめた。数値が変わっている。さっき書いた数字が、紙の上で滲んで別の数字に変わりかけていた。境に近づくにつれて、目録自体が情報の揺らぎに巻き込まれている。
こよいの耳が鳴った。
列車の走行音ではない。もっと低い、地鳴りのような圧力が鼓膜の内側を押している。空気の質が変わったのだ。吸い込む息が重い。湿っているのとも違う——密度そのものが濃くなっている。車内の行灯の炎が一瞬、横に倒れた。風はない。空気の密度が偏っただけだ。
腕の産毛が逆立った。
巾着が反応した。さっきまで腰のあたりを温めていた布が、急に冷たくなった。温もりが引いていく。神々が身を縮めている。怯えではなく、息を潜めている。外の何かに気づかれまいとするように。四柱の神々が一斉に脈動を弱め、布の中で小さな塊になっている。こよいの体温に寄り添い、じっとしている。互いの存在を確かめ合うように、神々同士が密着していた。
こよいは巾着をそっと胸に寄せた。大丈夫、と声には出さず、掌の温度で伝えた。指先から伝わる温もりを、神々が受け取ったのか、脈動がほんの少しだけ安定した。
「あの色、何」
あさひが窓の外を顎で示した。銀色の流れの中に、名前のない色の帯が太くなり始めている。列車が近づいているのではなく、向こうから広がってきているようにも見えた。帯の幅が息をするように伸縮し、広がるたびに銀色の面積が減っていく。
「境の滲みだ。こちら側の記録と向こう側の空白が、互いに浸食し合っている場所がある。あの色はその混じり目だ。記録でも空白でもない、どちらにも属さない境界の色だ」
久遠が目録を閉じた。読めなくなり始めた頁を開いていても仕方がない。代わりに義眼の出力を上げた。蒼光が車内を満たし、三人の影が壁に濃く映った。蒼い光の中で、こよいの影だけが微かに揺れていた。巾着の中の名前たちの震えが、影にまで伝わっている。
列車が揺れた。あさひの肩が壁にぶつかり、鈍い音が車内に響いた。
いつもの軌道の揺れではない。車輪の下の地面が、わずかに柔らかくなっている。固い軌道から液状の表面へ。移行が始まっていた。座席の下から、湿った振動が伝わってくる。車体の底板が液体の表面に触れている音だった。
写本を胸から出した。紙の端が湿っている。車内の湿度ではない。写本自体が外の変化に反応して汗をかいている。文字の輪郭が、ほんの少しだけ滲んでいた。名前の文字がにじむ。それは名前が溶けかけているということだ。
こよいは写本を硝子に近づけようとした。
「近づけるな」
久遠の声が飛んだ。「境の近くでは、硝子越しでも名前が外へ引っ張られる。抱いていろ。離すな」
こよいは頷き、写本を胸へ戻した。
窓の外を流れる銀色の中に、金色の筋が一本、列車に沿って走っていた。
細い筋だった。見失いそうなほど細い。だが確かに、列車と同じ方向へ流れている。銀色の海の中で、金色だけが流されずに方向を保っている。何かに導かれるように。あるいは、何かを導くように。
こよいの指先が、写本の上で微かに熱を持った。紙の中の名前が、外の金色に気づいている。同じ質の光だった。写本に宿る名前の光と、海を流れる金色の筋が、硝子一枚を隔てて呼び合っている。
巾着の温もりが、少しだけ戻った。
神々も気づいたのだ。さっきまで身を縮めていた名前たちが、金色の筋の方角に向かって微かに脈動を送り始めた。恐怖より強いものが、名前たちを動かしている。仲間の気配だった。
金色の筋が二本に増えた。三本に。列車の速度が落ちている。車輪の軋みが、水を踏む音に変わり始めた。
そのとき、波が車体を叩いた。
とん、とん、とん——三拍。間を置いて、また三拍。液体の波が、規則正しい拍で車体の横腹を打っている。自然の波に、こんな律動はない。
「合図だ」
久遠が義眼を見開いた。
「溶かされた名前たちが、波を使って報せている。三拍——『ここにいる』。俺たちの写本の気配に、向こうが先に気づいたんだ」
おたまが窓枠に前脚をかけ、波の来る方角へ耳を向けた。猫の尻尾の先が、三拍の律動に合わせて、とん、とん、とん、と揺れる。
こよいは写本を強く抱いた。掌の中で、神々と名前が寄り添って震えている。怯えの震えではもう、なかった。
波の合図は、止まなかった。境の向こうから、迎えが来ている。
