第351話 波の合図
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第351話 波の合図

第12章 記録の裂目

窓硝子まどがらすの外で、色が変わった。

銀色の流れが続いていた景色に、一筋だけ異なる色が混じっている。茶色でも灰色でもない。名前のない色だった。銀色の中を細い帯のように走り、列車の進行方向と交差している。その帯の上を通過する波は、色を失って透明になった。一瞬だけ透明になり、すぐに銀色に戻る。帯が記録きろくの色を吸い取っているのだ。

こよいはひたい硝子ガラスに押しつけた。冷たさが骨に届く。硝子ガラスの表面に吐息が白く曇り、すぐに消えた。その冷たさが、さっきまでと違う。深い。額の裏側にまで染みてくるような冷たさ。硝子ガラスに触れている肌が薄くしびれた。

硝子ガラス一枚の向こうにあるものが、液状の記録きろくからもっと別の何かに変わりつつある。銀色の流れの表面に、細かなあわが立っていた。あわは弾けるたびに小さな光の粒を散らし、すぐに消える。記録きろくが壊れるときに出る光かもしれなかった。

「近いな」

久遠くおん義眼ぎがんを窓に向けた。蒼光そうこうが銀色の流れを走査そうさし、すぐに収まった。蒼光そうこうの残像が硝子ガラスの表面に一瞬留まり、それも消えた。

さかいまで半刻もない。この先で記録きろくの密度が変わる。今まで辛うじて形を保っていた名前が、さかいの向こうでは即座に溶かされる」

久遠くおん目録もくろくひざの上に広げた。ページの端に書かれた数値を指でなぞり、眉をひそめた。数値が変わっている。さっき書いた数字が、紙の上でにじんで別の数字に変わりかけていた。さかいに近づくにつれて、目録もくろく自体が情報の揺らぎに巻き込まれている。

こよいの耳が鳴った。

列車の走行音ではない。もっと低い、地鳴りのような圧力が鼓膜こまくの内側を押している。空気の質が変わったのだ。吸い込む息が重い。湿っているのとも違う——密度そのものが濃くなっている。車内の行灯あんどんの炎が一瞬、横に倒れた。風はない。空気の密度がかたよっただけだ。

腕の産毛うぶげ逆立さかだった。

巾着きんちゃくが反応した。さっきまで腰のあたりを温めていた布が、急に冷たくなった。温もりが引いていく。神々が身を縮めている。おびえではなく、息を潜めている。外の何かに気づかれまいとするように。四柱の神々が一斉に脈動を弱め、布の中で小さな塊になっている。こよいの体温に寄り添い、じっとしている。互いの存在を確かめ合うように、神々同士が密着していた。

こよいは巾着きんちゃくをそっと胸に寄せた。大丈夫、と声には出さず、てのひらの温度で伝えた。指先から伝わる温もりを、神々が受け取ったのか、脈動がほんの少しだけ安定した。

「あの色、何」

あさひが窓の外をあごで示した。銀色の流れの中に、名前のない色の帯が太くなり始めている。列車が近づいているのではなく、向こうから広がってきているようにも見えた。帯の幅が息をするように伸縮し、広がるたびに銀色の面積が減っていく。

さかいにじみだ。こちら側の記録きろくと向こう側の空白が、互いに浸食しんしょくし合っている場所がある。あの色はその混じり目だ。記録きろくでも空白でもない、どちらにも属さない境界きょうかいの色だ」

久遠くおん目録もくろくを閉じた。読めなくなり始めたページを開いていても仕方がない。代わりに義眼ぎがんの出力を上げた。蒼光そうこうが車内を満たし、三人のかげが壁に濃く映った。蒼い光の中で、こよいのかげだけが微かに揺れていた。巾着きんちゃくの中の名前たちの震えが、かげにまで伝わっている。

列車が揺れた。あさひの肩が壁にぶつかり、鈍い音が車内に響いた。

いつもの軌道の揺れではない。車輪の下の地面が、わずかに柔らかくなっている。固い軌道から液状の表面へ。移行が始まっていた。座席の下から、湿った振動が伝わってくる。車体の底板が液体の表面に触れている音だった。

写本しゃほんを胸から出した。紙の端が湿っている。車内の湿度ではない。写本しゃほん自体が外の変化に反応して汗をかいている。文字の輪郭りんかくが、ほんの少しだけにじんでいた。名前の文字がにじむ。それは名前が溶けかけているということだ。

こよいは写本しゃほん硝子ガラスに近づけようとした。

「近づけるな」

久遠くおんの声が飛んだ。「境の近くでは、硝子越しでも名前が外へ引っ張られる。抱いていろ。離すな」

こよいは頷き、写本しゃほんを胸へ戻した。

窓の外を流れる銀色の中に、金色の筋が一本、列車に沿って走っていた。

細い筋だった。見失いそうなほど細い。だが確かに、列車と同じ方向へ流れている。銀色の海の中で、金色だけが流されずに方向を保っている。何かに導かれるように。あるいは、何かを導くように。

こよいの指先が、写本しゃほんの上で微かに熱を持った。紙の中の名前が、外の金色に気づいている。同じ質の光だった。写本しゃほんに宿る名前の光と、海を流れる金色の筋が、硝子ガラス一枚をへだてて呼び合っている。

巾着きんちゃくの温もりが、少しだけ戻った。

神々も気づいたのだ。さっきまで身を縮めていた名前たちが、金色の筋の方角に向かって微かに脈動を送り始めた。恐怖より強いものが、名前たちを動かしている。仲間の気配だった。

金色の筋が二本に増えた。三本に。列車の速度が落ちている。車輪のきしみが、水を踏む音に変わり始めた。

そのとき、波が車体を叩いた。

とん、とん、とん——三拍。間を置いて、また三拍。液体の波が、規則正しい拍で車体の横腹を打っている。自然の波に、こんな律動はない。

「合図だ」

久遠くおん義眼ぎがんを見開いた。

「溶かされた名前たちが、波を使って報せている。三拍——『ここにいる』。俺たちの写本しゃほんの気配に、向こうが先に気づいたんだ」

おたまが窓枠に前脚をかけ、波の来る方角へ耳を向けた。猫の尻尾の先が、三拍の律動に合わせて、とん、とん、とん、と揺れる。

こよいは写本しゃほんを強く抱いた。てのひらの中で、神々と名前が寄り添って震えている。怯えの震えではもう、なかった。

波の合図は、止まなかった。境の向こうから、迎えが来ている。

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