第350話 町の境
350

第350話 町の境

第12章 記録の裂目

銅鏡を離れたあと、三人はしばらく黙って歩いた。

祠の中で見た映像が、まだ目の奥に残っていた。井戸の屋根。花。石の縁に刻まれた三つの名前。消されたはずの記録が、鏡の中にだけ残っている。鏡は記録ではなく反射だから、漂白の手が届かなかった。

久遠が目録に書き込んでいた。歩きながら、頁の上に義眼の蒼光を落とし、銅鏡が映した情報を転写している。

「汐路。渚。朝凪」

久遠が三つの名前を読み上げた。声に出すと、空気が微かに揺れた。名前はまだ、ここにいる。鏡の中だけではなく、声にすれば空気の中にも一瞬だけ宿る。

「三人とも、海に関わる名前だ」

こよいが言った。

「この辺りが海に近い土地だったんだね。名前に海の記憶が入ってる」

「名前と土地は連動する。海辺で生まれた名前には潮の成分が含まれ、山で生まれた名前には土の成分が含まれる。名前は情報であると同時に、環境の写しでもある」

久遠は目録を閉じ、懐に仕舞った。

岬を離れると、道は崖沿いの細い径になった。右は断崖で、その下に海がある。灰色の水面が遠く広がり、波が崖の根元を洗っている。左は岩壁で、苔と草が隙間に張りついていた。

風が強い。崖を吹き上げる風に、潮の匂いが混じっている。髪が顔に張りつき、衣の裾が横に流れた。巾着の紐が風に煽られ、こよいは片手で押さえた。

「あの鏡、持ち出せなかったのか」

あさひが前を歩きながら言った。

「無理だ。銅鏡は祠の構造と一体化している。外に出せば反射の条件が変わり、映像は消える。あの場所にあるからこそ、記録ではなく反射として残れている」

「場所に紐づいてるってことか」

「そうだ。鏡が映すのは過去の反射だ。反射の角度は場所で決まる。場所が変われば角度が変わり、映像は別のものになる。下手をすれば何も映らなくなる」

あさひは舌打ちした。

「不便だな」

「不便だが、だから漂白も手を出せなかった。場所に固定された反射は、記録として認識されない。漂白は記録を消すが、反射は対象外だ。その隙間に、三つの名前が残った」

こよいは崖のふちから海を見下ろした。

灰色の水面みなもの奥に、何かが光っている。微かな金色のすじが、海の中を走っていた。波に揺られて形を変えながら、一定の方向に流れている。北東だ。

「あれは」

「名前の流脈りゅうみゃくだ」

久遠くおんが足を止め、崖の縁に立った。義眼ぎがん蒼光そうこうを海面に落とす。

星野ほしのの地下から伸びた根が、海底に到達している。根の先端が海中で金色のすじを作り、名前を運んでいる。写本しゃほんの名前が地下を通って移動していると言ったが——これがその経路だ」

こよいは息を呑んだ。

星野ほしので地面に根を張った二十五柱の名前。その根が、海の底まで伸びている。そして海中で金色のすじを作り、まだ戻れていない名前を導こうとしている。

「宵波浜の井戸から見送った十七柱——汐路しおじなぎさも、このすじの中にいるの」

「可能性はある。だが確認するには海に潜るしかない。今は無理だ」

久遠くおんは視線を海からみちの先に移した。

「それより、あのすじが流れている方向に行く。北東だ。流脈りゅうみゃくが向かう先に、次の座標ざひょうがある」

こよいは崖のふちでもう一度、海の底を見た。金色のすじはまだ走っている。北東へ。名前たちが、自分の力で道を開いている。

久遠くおん目録もくろく海図かいずを開いた。星野ほしのに根づいた二十五柱の印が、ページの上で光っている。そのうちの何柱かの光が、海底の金色に引かれるように強まっていた。仲間の気配を感じているのだ。地上と海底で、名前同士が呼び合っている。

久遠くおんくん。鏡に映っていた三つの名前——汐路しおじなぎさ朝凪あさなぎ。この子たちも、海の底にいるのかな」

「可能性はある。鏡が記憶している以上、この近海にえんがある名前だ。海に流れた可能性は高い」

こよいは紙面の上に指を這わせた。汐路しおじなぎさは、水脈を渡っている十七柱のうち。だが朝凪あさなぎの名は、海図のどこにもない。五十一柱の外——経蔵きょうぞうの壁にも、写しにも残らなかった名前が、銅鏡どうきょうの反射の中にだけ生きていたのだ。

「集めなきゃ。この子も」

「まず足元を固めろ。五十一柱を取り戻してから、次の段階だ。……だが、忘れはしない」

久遠くおんの声は冷静だったが、目録もくろくには三つの名前が新しく書き加えられていた。記録は忘れない、と義眼ぎがん蒼光そうこうが告げているようだった。

みちが崖を離れ、内陸に入った。海の音が遠ざかり、代わりに草が風に揺れる乾いた音が満ちた。丘の連なりが続き、丘と丘の間の窪地くぼちに、線路が一本走っていた。

線路の表面が光を反射していた。最近車輪が通った跡だ。

列車れっしゃが来るな」

あさひが線路に手を置いた。

「振動がある。近い」

三人は線路脇の窪地くぼちで待った。風が丘を越えて吹き抜け、草のが一斉に傾く。巾着きんちゃくの中で神々が静かに脈打っている。海辺で活気づいた雨の神は、まだ余韻を残して温かかった。

遠くから汽笛きてきが聞こえた。

きりの向こうに、列車れっしゃ輪郭りんかくがにじんだ。黒い車体がきりを割り、低いうなりとともに近づいてくる。車輪が線路を叩く規則正しい音が、大地を通して腹の底に響いた。

列車れっしゃは三人の前で停まった。扉が開く。蒸気が足元を白く巻き、車内から薄いあかりが漏れた。

乗り込むと、座席の木枠きわくが体重を受けてきしんだ。車内は空いていた。行灯あんどんが揺れ、壁にかげを落としている。

窓の外を風景が流れ始めた。丘が遠ざかり、草原が広がり、やがて地面の色が赤い土から銀灰色に変わっていく。

こよいは窓にひたいを寄せた。硝子ガラスが冷たい。この地域の列車はいつもこうだ。窓の冷たさが、外の世界の厳しさを教えてくれる。

銀色の光が窓の外を流れ始めた。

地面を覆うように、銀色の液体が広がっている。水ではない。光を帯びた流体が、列車れっしゃの両脇を川のように流れている。その中に、金色のすじが数本、混じって走っていた。崖の上から見えたあの金色だ。名前の流脈りゅうみゃくが、ここにも通っている。

巾着きんちゃくの温もりが変わった。

神々の脈動が、窓の外の銀色の流れに同期どうきし始めている。雨の神が水の気配に反応し、風の神が流体の動きに共鳴きょうめいしている。月の神は銀色の光に呼応こおうするように淡く光り、硝子びいどろの神は透明な壁を薄くして外の情報を取り込もうとしていた。

さかいが近い」

久遠くおんが窓の外を見ながら言った。

「銀色の流れは、記録の残滓ざんしが液状化したものだ。固体だった記録が溶け始めている。この先で、固体と液体のさかいを越える」

こよいは写本しゃほんを取り出した。紙は乾いているが、端がわずかに波打っていた。車内の湿度ではない。写本しゃほん自体が外の変化に反応して、水分を帯び始めている。名前の文字がにじんではいないが、輪郭りんかくが以前より少しだけ柔らかくなっている気がした。

列車れっしゃが揺れた。

車輪の下の地面が変わったのだ。固い軌道から、液体の表面へ。移行が始まっている。

こよいは写本しゃほんを胸に戻し、巾着きんちゃくひもを握り直した。てのひらの中で、神々と名前が寄り添っている。おたまは、揺れる車内で足を踏ん張りもせず、床の一点に立ったまま、静かに前を見ていた。液体の上を走る列車の中で、猫だけが、地面の変化を意に介していなかった。

まださかいは越えていない。

だが近い。  窓の外を流れる銀色の光が、一瞬だけ名前のない色に変わり、すぐに戻った。あの色が、さかいの先にあるものだ。

お読みいただきありがとうございます

4つの小説投稿サイトでお読みいただけます