流路の金色の筋は、海沿いの岬の下をくぐって続いていた。列車が岬の付け根の信号所で停まった短い間に、三人と一匹は突端まで歩いてみることにした。流路がここで一度、地上に近づいている——何かが、ここにあるはずだった。
岬の突端に、祠があった。
石を三つ積んだだけの粗末な造りで、屋根もない。潮風に削られて角が丸くなり、苔すら根を張れないほど表面が滑らかになっていた。けれどその中央に、手のひらほどの銅鏡が一枚、立てかけられている。
「鏡だ」
こよいが呟いた。銅の表面は緑青に覆われ、映るものは何もない。ただの古い金属板にしか見えなかった。
久遠が近づき、義眼を細めた。蒼光が鏡の表面を舐めるように走った瞬間、銅が震えた。
微かな振動。石の台座を通じて、こよいの足裏にまで伝わった。
「反応している」
久遠が囁いた。義眼の光量を少しずつ上げていく。蒼光が鏡の中心に集まると、緑青の下から、銅本来の赤い光沢が滲み出してきた。
鏡が、目を覚ましている。
こよいは息を止めた。鏡の表面に、像が浮かび始めていた。
映っているのは、三人ではなかった。
祠だった。同じ祠。だが今とは違う。屋根がある。注連縄が張られ、石畳が祠の前に敷かれている。石畳の隙間から、小さな花が顔を出していた。白い花。名前は知らないが、潮風に揺れている。
「過去だ」
久遠の声が硬い。
「この鏡は今を映していない。観測者に記録を消される前の、この場所の姿を保存している」
あさひが鏡を覗き込んだ。
「……井戸がある」
こよいも身を乗り出した。鏡の中の祠の右手に、石組みの井戸が見えた。苔むした縁石。木の蓋。蓋の上に、小さな柄杓が置かれている。
現実の岬を見回した。井戸はない。石組みの跡すらない。地面は平らな岩盤で、かつてそこに何かがあったという痕跡は、一片も残されていなかった。
「消されたんだ」
こよいの声が震えた。
「井戸も、屋根も、花も、全部」
久遠が鏡の像をさらに注視した。義眼の蒼光が強まり、鏡の中の景色が鮮明になっていく。井戸の縁石に、文字が刻まれているのが見えた。
「名前がある。井戸の縁に、奉納者の名前が彫られている」
「読めるか」
あさひが訊いた。
久遠は目を凝らした。蒼光が文字の一画一画をなぞっていく。
「三つ。汐路、渚、朝凪。この井戸を掘った者たちの名前だ」
久遠が目録を開いた。海図に記された五十一の名前のうち、まだ帰り着いていないものと照合する。こよいの指が、頁の上で震えた。
「汐路がある。宵波浜の井戸から水脈へ見送った、あの十七柱のうちの一柱だ」
「渚もだ」
久遠が頷いた。西へ、南へ、それぞれの土地の井戸を目指して水脈を渡っているはずの名前たち。その帰り先が——この、消された井戸だったのだ。帰っても、受け皿がない。
「この井戸は名前を預かる場所だった。観測者はそれを知って、井戸ごと消した。記録から抹消し、地面からも消し去った。だが鏡だけは残った」
「なぜ鏡だけ」
久遠は少し間を置いた。
「鏡は記録ではなく、反射だからだ。記録は消せる。だが反射は、光がある限り消えない。観測者の消去は記録を対象にする。反射という形式は、消去の対象外だった」
おたまが祠の台座に前脚をかけ、鏡を覗き込んだ。緑青の戻った鏡面に、猫の姿だけが、なぜか薄く映っていた。過去を映す鏡が、今の猫を映している。誰もそれを、口には出さなかった。
こよいは鏡に手を伸ばしかけて、止めた。触れれば壊れるかもしれない。この薄い銅板一枚が、この場所に井戸があったことを覚えている最後の証拠だった。
鏡の中で、井戸の水面が微かに揺れた。光を受けて、銀色の輪が広がっている。
「水がある」
「過去の水だ。今はもうない」
久遠が鏡から目を離した。義眼の光が収まると、鏡は再び緑青に覆われた銅板に戻った。像が消える。井戸が消える。花が消える。
けれど、名前は写本に刻まれている。
あさひが岬の先端に立ち、海を見下ろした。灰色の波が岩を叩いている。
「井戸は消えた。だが名前は拾えた。それでいい」
「いいわけないだろ」
こよいが低い声で言った。自分でも驚くほど、怒りが混じっていた。
「井戸があった場所に、何も残ってない。花が咲いてた場所が、ただの岩になってる。名前を拾えたからって、それで終わりにしたくない」
あさひはこよいを見た。少しだけ目を細め、それから海に視線を戻した。
「……そうだな」
久遠が目録に鏡の位置を書き留めた。井戸の座標。奉納者の名前。鏡に残された過去の配置図。義眼が記憶した像を、一つずつ文字に変換していく。
「鏡は壊さない方がいい。他にも消された場所があるなら、同じ方法で過去が見える可能性がある」
三人は祠を後にした。
銅鏡は石の上に、潮風の中で静かに立っていた。映すものは何もない。だがその内側に、かつてこの場所が生きていた頃の光を、まだ抱えている。
こよいは一度だけ振り返った。 緑青の表面が、夕陽を受けて鈍く光っていた。
