第349話 祠の反射
349

第349話 祠の反射

第12章 記録の裂目

流路(りゅうろ)の金色の筋は、海沿いの岬(みさき)の下をくぐって続いていた。列車が岬の付け根の信号所で停まった短い間に、三人と一匹は突端まで歩いてみることにした。流路がここで一度、地上に近づいている——何かが、ここにあるはずだった。

岬(みさき)の突端(とったん)に、祠(ほこら)があった。

石を三つ積んだだけの粗末な造りで、屋根もない。潮風に削られて角が丸くなり、苔(こけ)すら根を張れないほど表面が滑らかになっていた。けれどその中央に、手のひらほどの銅鏡(どうきょう)が一枚、立てかけられている。

「鏡だ」

こよいが呟いた。銅の表面は緑青(ろくしょう)に覆(おお)われ、映るものは何もない。ただの古い金属板にしか見えなかった。

久遠(くおん)が近づき、義眼(ぎがん)を細めた。蒼光(そうこう)が鏡の表面を舐(な)めるように走った瞬間、銅が震えた。

微かな振動。石の台座を通じて、こよいの足裏にまで伝わった。

「反応している」

久遠(くおん)が囁(ささや)いた。義眼(ぎがん)の光量を少しずつ上げていく。蒼光(そうこう)が鏡の中心に集まると、緑青(ろくしょう)の下から、銅本来の赤い光沢が滲(にじ)み出してきた。

鏡が、目を覚ましている。

こよいは息を止めた。鏡の表面に、像が浮かび始めていた。

映っているのは、三人ではなかった。

祠(ほこら)だった。同じ祠(ほこら)。だが今とは違う。屋根がある。注連縄(しめなわ)が張られ、石畳(いしだたみ)が祠(ほこら)の前に敷かれている。石畳(いしだたみ)の隙間から、小さな花が顔を出していた。白い花。名前は知らないが、潮風に揺れている。

「過去だ」

久遠(くおん)の声が硬い。

「この鏡は今を映していない。観測者(かんそくしゃ)に記録(きろく)を消される前の、この場所の姿を保存している」

あさひが鏡を覗き込んだ。

「……井戸(いど)がある」

こよいも身を乗り出した。鏡の中の祠(ほこら)の右手に、石組みの井戸(いど)が見えた。苔(こけ)むした縁石(えんせき)。木の蓋(ふた)。蓋(ふた)の上に、小さな柄杓(ひしゃく)が置かれている。

現実の岬を見回した。井戸(いど)はない。石組みの跡すらない。地面は平らな岩盤(がんばん)で、かつてそこに何かがあったという痕跡(こんせき)は、一片も残されていなかった。

「消されたんだ」

こよいの声が震えた。

「井戸(いど)も、屋根も、花も、全部」

久遠(くおん)が鏡の像をさらに注視した。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が強まり、鏡の中の景色が鮮明になっていく。井戸(いど)の縁石(えんせき)に、文字が刻まれているのが見えた。

「名前がある。井戸(いど)の縁(ふち)に、奉納者(ほうのうしゃ)の名前が彫られている」

「読めるか」

あさひが訊いた。

久遠(くおん)は目を凝(こ)らした。蒼光(そうこう)が文字の一画一画をなぞっていく。

「三つ。汐路(しおじ)、渚(なぎさ)、朝凪(あさなぎ)。この井戸(いど)を掘った者たちの名前だ」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を開いた。海図(かいず)に記された五十一の名前のうち、まだ帰り着いていないものと照合する。こよいの指が、頁(ページ)の上で震えた。

「汐路(しおじ)がある。宵波浜(よいなみはま)の井戸から水脈へ見送った、あの十七柱のうちの一柱だ」

「渚(なぎさ)もだ」

久遠(くおん)が頷いた。西へ、南へ、それぞれの土地の井戸を目指して水脈を渡っているはずの名前たち。その帰り先が——この、消された井戸だったのだ。帰っても、受け皿がない。

「この井戸(いど)は名前を預かる場所だった。観測者(かんそくしゃ)はそれを知って、井戸(いど)ごと消した。記録(きろく)から抹消(まっしょう)し、地面からも消し去った。だが鏡だけは残った」

「なぜ鏡だけ」

久遠(くおん)は少し間を置いた。

「鏡は記録(きろく)ではなく、反射(はんしゃ)だからだ。記録(きろく)は消せる。だが反射(はんしゃ)は、光がある限り消えない。観測者(かんそくしゃ)の消去は記録(きろく)を対象にする。反射(はんしゃ)という形式は、消去の対象外だった」

おたまが祠(ほこら)の台座に前脚をかけ、鏡を覗き込んだ。緑青(ろくしょう)の戻った鏡面に、猫の姿だけが、なぜか薄く映っていた。過去を映す鏡が、今の猫を映している。誰もそれを、口には出さなかった。

こよいは鏡に手を伸ばしかけて、止めた。触れれば壊れるかもしれない。この薄い銅板一枚が、この場所に井戸(いど)があったことを覚えている最後の証拠だった。

鏡の中で、井戸(いど)の水面が微かに揺れた。光を受けて、銀色の輪が広がっている。

「水がある」

「過去の水だ。今はもうない」

久遠(くおん)が鏡から目を離した。義眼(ぎがん)の光が収まると、鏡は再び緑青(ろくしょう)に覆われた銅板に戻った。像が消える。井戸(いど)が消える。花が消える。

けれど、名前は写本(しゃほん)に刻まれている。

あさひが岬(みさき)の先端に立ち、海を見下ろした。灰色の波が岩を叩(たた)いている。

「井戸(いど)は消えた。だが名前は拾えた。それでいい」

「いいわけないだろ」

こよいが低い声で言った。自分でも驚くほど、怒りが混じっていた。

「井戸(いど)があった場所に、何も残ってない。花が咲いてた場所が、ただの岩になってる。名前を拾えたからって、それで終わりにしたくない」

あさひはこよいを見た。少しだけ目を細め、それから海に視線を戻した。

「……そうだな」

久遠(くおん)が目録(もくろく)に鏡の位置を書き留めた。井戸(いど)の座標(ざひょう)。奉納者(ほうのうしゃ)の名前。鏡に残された過去の配置図。義眼(ぎがん)が記憶した像を、一つずつ文字に変換していく。

「鏡は壊さない方がいい。他にも消された場所があるなら、同じ方法で過去が見える可能性がある」

三人は祠(ほこら)を後にした。

銅鏡(どうきょう)は石の上に、潮風の中で静かに立っていた。映すものは何もない。だがその内側に、かつてこの場所が生きていた頃の光を、まだ抱えている。

こよいは一度だけ振り返った。  緑青(ろくしょう)の表面が、夕陽を受けて鈍く光っていた。

お読みいただきありがとうございます

4つの小説投稿サイトでお読みいただけます