第034話 歩み出す
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第034話 歩み出す

第1章 霧の序章

ずっと、歩いた。

夜が明けても、歩いた。  足が痛くても、歩いた。  水路すいろの神を届けるために、歩いた。

巾着きんちゃくは、冷たいままだった。  水路すいろの神は、眠っている。  力を使いすぎて、眠っている。

「……もう少し」

こよいは、呟いた。

「……もう少しで、届く」

森の中に、音が響いた。

水の音。  どこかで、水が流れている。  小川のような、澄んだ音。

こよいは、足を止めた。  耳を澄ませる。

「……水の、音」

巾着きんちゃくが、急に温かくなった。

「っ」

こよいは、胸元を押さえた。  冷たかった巾着きんちゃくが、急に温度を取り戻した。

「……水路すいろ?」

「……みずの、おと」

かすかな声。  水路すいろの神の声。

「起きた?」

「……うん」

「大丈夫?」

「……だいじょうぶ」

水路すいろの神の声は、まだ弱い。でも、さっきよりは良い。

「……ここだ」

水路すいろの神が、言った。

「……ぼくのばしょ」

森が、開けた。

小川が流れていた。  澄んだ水。透き通った水。  朝日を受けて、輝いている。

こよいは、小川に沿って歩いた。  水の流れる音が、心地よい。  冷たい空気が、澄んでいる。  足の痛みが、少しずつ遠ざかっていく。水の音に合わせるように、足取りが自然と軽くなっていた。

「……この先」

水路すいろの神の声。

「……この先に、ある」

小川を辿っていく。  水が、集まっていく。  細い流れが、太い流れに合流していく。  こよいは、歩くペースを緩めた。水路すいろの神の様子を気にして、胸元の巾着きんちゃくに掌を添える。そこには微かな、鼓動のような温もりがあった。

やがて、泉が見えた。

小さな泉だった。

直径は十メートルほど。  周りには、こけむした岩。  柳の木が、枝を垂らしている。  岩の隙間から、羊歯しだが青々と葉を広げていた。水辺の空気は、ひんやりと澄んでいて、深呼吸すると胸の奥まで清められるようだった。

水面は、穏やかだった。  澄み切っている。底まで見える。  中央から、水がいている。

朝日が、水面を照らした。  金色の光が、水の上で踊っている。

「……ここ」

水路すいろの神の声が、震えた。

「……ぼくのばしょ」

巾着きんちゃくが、温かい。  水路すいろの神の喜びが、伝わってくる。

「……着いたね」

こよいは、言った。

「……うん」

水路すいろの神の声。

「……つれてきて、くれた」

泉のほとりに、しゃがんだ。

巾着きんちゃくを、胸から外した。  手のひらに乗せる。

軽い。  水路すいろの神だけの重さ。でも、確かにそこにいる。  指先で紐をなぞると、昨夜の包囲ほういを突破した時の衝撃が、走馬灯のように胸をよぎった。

「……水路すいろ

こよいは、巾着きんちゃくに話しかけた。

「……うん」

「……寂しい」

「……ぼくも」

沈黙。  水の音だけが、響いている。

「……でも」

水路すいろの神の声。

「……うれしい」

「嬉しい?」

「……ここに、これた」

「……ながれられる、ばしょに」

そうだ。  水路すいろの神は、流れたかったのだ。  自由に、流れたかったのだ。

「……届けるね」

こよいは、言った。

「……うん」

巾着きんちゃくの紐に、手をかけた。  ゆっくりと、開く。

青い光が、溢れ出した。

眩しい。でも、温かい光。  水路すいろの神の光。

光が、巾着きんちゃくから出ていく。  水面に向かって、ゆっくりと。  青い光の球が、浮かんでいる。

「……水路すいろ

こよいは、光を見つめた。

光が、動いた。  泉に向かって、降りていく。  水面に、触れた。

水面が、輝いた。

青い光が、水に溶けていく。  水路すいろの神が、泉と一つになっていく。

泉全体が、青く光った。  柔らかい光。優しい光。  水路すいろの神の光。

「……ありがとう、こよい」

声が聞こえた。  水面から、声が聞こえた。

「……つれてきて、くれて」

「……ながれさせて、くれて」

水路すいろの神の声。でも、さっきより遠い。  泉の中から、響いてくる。

「……こっちこそ」

こよいは、泉に向かって言った。

「……水路すいろが、道を作ってくれた」

「……うん」

「……あのとき、たすけたかった」

「……こよいを」

水路すいろの神が、力を使った理由。  包囲ほういを破った理由。  こよいを、助けるため。

「……ありがとう」

こよいの目から、涙が溢れた。

「……本当に、ありがとう」

泉の光が、少しずつ薄れていく。でも、消えてはいない。  水路すいろの神は、ここにいる。

「……水路すいろ

こよいは、涙を拭いた。

「……また、会える?」

沈黙。  水の音だけが、響く。

「……あえる」

水路すいろの神の声が、返ってきた。  遠い声。でも、確かな声。

「……また、あえるよ」

「いつ?」

「……かみあつめのときに」

かみあつめ。  その言葉を、こよいは知っている。  全ての神が集まる時。

「神かみあつめって、いつ?」

「……わからない」

「……でも、くる」

「……かならず、くる」

水路すいろの神の声が、さらに遠くなる。  溶けていく。泉に溶けていく。

「……まってる」

最後の言葉。

「……かみあつめのときに、また」

そして、声は聞こえなくなった。

泉は、静かだった。  朝日を受けて、輝いている。  さっきより、少しだけ青い。

水路すいろの神が、ここにいる。  この泉の中に、いる。  流れている。

こよいは、空の巾着きんちゃくを握りしめた。  軽い。誰もいない。  布の感触だけが、手のひらに残っている。ずっと重かった巾着きんちゃくが、こんなにも軽いものだったのかと、今さらのように驚いた。  しおりも、ほこらの神も、水路すいろの神も。

全員、届けた。  それぞれの場所に、届けた。でも、終わっていない。  水路すいろの神が言った。

「神かみあつめの時に、また会える」

かみあつめ。  いつか、全ての神が集まる時。  その時まで、待つ。

こよいは、立ち上がった。  泉を、見つめた。  膝に残る湿った苔の感触を払いながら、一歩下がって泉全体を俯く。水面の青さが、朝日に溶けて穏やかに明滅している。

「……また会おう」

こよいは、言った。

「……神かみあつめの時に」

水面が、一瞬だけ揺れた。  返事のように。

空になったはずの巾着きんちゃくが、その再会さいかいの約束の重さで、ほんの少しだけ温かくなった気がした。

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