第348話 噂の流路
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第348話 噂の流路

第12章 記録の裂目

砂浜(すなはま)を後にした三人と一匹は、再び霧列車(きりれっしゃ)に乗り込んだ。宵波浜(よいなみはま)の核心部へ——四柱の投じられた終点へ向かうために。  走り出して間もなく、久遠(くおん)の視線は、目録(もくろく)の頁(ページ)に釘付けになった。  義眼(ぎがん)が蒼く脈動する。

「……見ろ。座標(ざひょう)が俺たちの目の前で『書き換え』られてやがる。……観測者(かんそくしゃ)共が経蔵(きょうぞう)の最深部にある『目録(もくろく)の本体』を使って、この盗み出された情報を強制的に無効化(むこうか)しようとしてるんだな」

久遠(くおん)が吐き捨てるように言った。

「……書き換え? だったら、ぼくたちが今向かっている場所は本当にあるの? それとも、ただの『嘘(うそ)』なの?」

こよいが静かに問いかけた。

あさひは静かに周囲の気配を探っていた。

「……向こうが暴れているうちは、こっちは黙って見ていろ。書き換えの手が止まった瞬間に、奴らの本当の狙いが見える」

あさひの声には迷いがなかった。

「……噂の流路(りゅうろ)って、さ」

こよいが小さく言う。

「流路(りゅうろ)のこと、ぼくはまだ上手く言葉にできない」

噂の流路(りゅうろ)という言葉だけが先に走り、景色がそれに追いつこうとする。

久遠(くおん)は掌(てのひら)で空気を切り、触れた境目の硬さを確かめた。指先に残る感触は、紙の繊維(せんい)でも石の粒子(りゅうし)でもなく、圧縮(あっしゅく)された声の残滓(ざんし)のようだった。

「……この空気、覚えがある。星降町(ほしふりまち)の地下回廊(かいろう)で嗅(か)いだのと同じ匂いだ。伝聞が凝縮(ぎょうしゅく)して、物理的な密度を持ち始めてやがる」

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)の光量を絞りながら言った。

目録(もくろく)の頁(ページ)に、細い線が一本、勝手に走った。誰も触れていない。噂が自ら道を描いているかのようだった。

こよいは膝(ひざ)の上の写本(しゃほん)を見た。紙の端がわずかに震えている。文字が滲(にじ)んでいるのではなく、文字そのものが移動しようとしていた。他の写本(しゃほん)に書かれた名前に向かって。

「ぼくたちのこと、知ってる人がいるみたいだ」

「知ってるんじゃねえ。噂が先に走ってるんだ」

あさひが鼻を鳴らした。

「俺たちが星降町(ほしふりまち)で七柱(ななはしら)を引き上げたって話が、地下の水路を伝って広がってる。名前を取り戻す三人組——そういう噂になってるらしいな」

久遠(くおん)が目録(もくろく)の頁(ページ)を一枚めくった。線が増えている。一本が二本になり、二本が五本になり、五本が束になって流れの形を成していた。

「……噂は名前を運ぶ。正確に言えば、名前の『影(かげ)』を運ぶ。本体とは別に、噂の中だけに存在する名前の写しが流通し始めている」

久遠(くおん)の声が低くなった。

「それが『流路(りゅうろ)』だ。地下水脈(ちかすいみゃく)のように見えないところを流れ、枝分かれし、合流し、やがて海に出る。だが問題は、観測者(かんそくしゃ)共がその流路(りゅうろ)を監視(かんし)していることだ」

こよいは巾着(きんちゃく)を握った。神々が小さく脈打つ。

「噂が先に届いていたら、ぼくたちが行く場所は——」

「待ち伏せされる可能性がある。だが逆もある」

久遠(くおん)が指で目録(もくろく)の線を辿(たど)った。

「噂が先行することで、名前の方が俺たちを見つけやすくなっている。流路(りゅうろ)は敵にも味方にも作用する。問題は、どちらが先に流路(りゅうろ)を掴(つか)むかだ」

あさひが布越しに剣の柄(つか)へ手を置いたまま、列車の床を踏んだ。振動が足裏を通じて伝わってくる。線路の継ぎ目ではない。もっと深いところ、地面の下を流れる何かの脈動だった。

「……流路(りゅうろ)が近い。足の下にある」

「分かってる」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じた。

「写本(しゃほん)を出せ、こよい。流路(りゅうろ)と共振(きょうしん)させる」

こよいは七枚の写本(しゃほん)を膝(ひざ)から持ち上げ、床の上に並べた。おたまが紙の間を音もなく歩き、一枚も踏まずに、流路(りゅうろ)の真上にあたる床板の一点に座った。ここだよ、と示すように。紙が微かに揺れた。文字が光るのではなく、文字の周囲の空白が暗くなった。名前だけが浮き上がる。

写本(しゃほん)の下で、床板を透かすようにして、金色の筋が一本、列車の進行方向に向かって流れているのが見えた。

「あの金——名前か」

「溶けかけの名前だ。流路(りゅうろ)を伝って逃げている。どこかに辿(たど)り着こうとしているが、受け皿がない」

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を細めた。

蒼光(そうこう)が床を貫通し、金色の筋を照らす。筋が一瞬、太くなった。写本(しゃほん)の文字に反応したのだ。

こよいは一枚の写本(しゃほん)を手に取り、床に近づけた。金色の筋が写本(しゃほん)に向かって曲がった。紙に触れる寸前で、筋は散った。細かい粒子(りゅうし)になって床板の隙間に消えていく。

「届かなかった」

「いや」

久遠(くおん)が首を振った。

「届いた。写本(しゃほん)に痕跡(こんせき)が残っている。名前の欠片(かけら)だ。本体は別にあるが、欠片(かけら)がここに在るということは——流路(りゅうろ)の先に、本体がまだ生きているということだ」

あさひが窓の外に目を向けた。霧(きり)の中を、銀色の光が地面の下を走っていく。列車と並走するように、いくつもの筋が流れていた。

「噂と名前が同じ道を使ってる。だったら、噂を辿(たど)れば名前に辿(たど)り着く」

「そうだ。だが、観測者(かんそくしゃ)も同じことを考えている」

久遠(くおん)は目録(もくろく)を胸に抱え直した。

「流路(りゅうろ)に乗るか、流路(りゅうろ)を避けるか。それを決めるのは——ここじゃない。宵波浜(よいなみはま)に着いてからだ」

列車が速度を落とし始めた。車輪の音が変わる。線路の質が変わったのだ。地下を流れる噂の流路(りゅうろ)が、ここでは地表に近い。

こよいは写本(しゃほん)を集め、胸に抱いた。紙が温かかった。さっきまで冷たかった写本(しゃほん)が、金色の欠片(かけら)を受け取ってから、ほんのわずかに体温を帯びている。

窓の外で、噂の流路(りゅうろ)が枝分かれした。一本が列車に沿い、もう一本が浜の方角へ逸(そ)れていく。

その分岐点に、灯りはなかった。ただ、空気の密度だけが変わっていた。

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