砂浜を後にした三人と一匹は、再び霧列車に乗り込んだ。宵波浜の核心部へ——四柱の投じられた終点へ向かうために。 走り出して間もなく、久遠の視線は、目録の頁に釘付けになった。 義眼が蒼く脈動する。
「……見ろ。座標が俺たちの目の前で『書き換え』られてやがる。……観測者共が経蔵の最深部にある『目録の本体』を使って、この盗み出された情報を強制的に無効化しようとしてるんだな」
久遠が吐き捨てるように言った。
「……書き換え? だったら、ぼくたちが今向かっている場所は本当にあるの? それとも、ただの『嘘』なの?」
こよいが静かに問いかけた。
あさひは静かに周囲の気配を探っていた。
「……向こうが暴れているうちは、こっちは黙って見ていろ。書き換えの手が止まった瞬間に、奴らの本当の狙いが見える」
あさひの声には迷いがなかった。
「……噂の流路って、さ」
こよいが小さく言う。
「流路のこと、ぼくはまだ上手く言葉にできない」
噂の流路という言葉だけが先に走り、景色がそれに追いつこうとする。
久遠は掌で空気を切り、触れた境目の硬さを確かめた。指先に残る感触は、紙の繊維でも石の粒子でもなく、圧縮された声の残滓のようだった。
「……この空気、覚えがある。星降町の地下回廊で嗅いだのと同じ匂いだ。伝聞が凝縮して、物理的な密度を持ち始めてやがる」
久遠が義眼の光量を絞りながら言った。
目録の頁に、細い線が一本、勝手に走った。誰も触れていない。噂が自ら道を描いているかのようだった。
こよいは膝の上の写本を見た。紙の端がわずかに震えている。文字が滲んでいるのではなく、文字そのものが移動しようとしていた。他の写本に書かれた名前に向かって。
「ぼくたちのこと、知ってる人がいるみたいだ」
「知ってるんじゃねえ。噂が先に走ってるんだ」
あさひが鼻を鳴らした。
「俺たちが星降町で七柱を引き上げたって話が、地下の水路を伝って広がってる。名前を取り戻す三人組——そういう噂になってるらしいな」
久遠が目録の頁を一枚めくった。線が増えている。一本が二本になり、二本が五本になり、五本が束になって流れの形を成していた。
「……噂は名前を運ぶ。正確に言えば、名前の『影』を運ぶ。本体とは別に、噂の中だけに存在する名前の写しが流通し始めている」
久遠の声が低くなった。
「それが『流路』だ。地下水脈のように見えないところを流れ、枝分かれし、合流し、やがて海に出る。だが問題は、観測者共がその流路を監視していることだ」
こよいは巾着を握った。神々が小さく脈打つ。
「噂が先に届いていたら、ぼくたちが行く場所は——」
「待ち伏せされる可能性がある。だが逆もある」
久遠が指で目録の線を辿った。
「噂が先行することで、名前の方が俺たちを見つけやすくなっている。流路は敵にも味方にも作用する。問題は、どちらが先に流路を掴むかだ」
あさひが布越しに剣の柄へ手を置いたまま、列車の床を踏んだ。振動が足裏を通じて伝わってくる。線路の継ぎ目ではない。もっと深いところ、地面の下を流れる何かの脈動だった。
「……流路が近い。足の下にある」
「分かってる」
久遠が目録を閉じた。
「写本を出せ、こよい。流路と共振させる」
こよいは七枚の写本を膝から持ち上げ、床の上に並べた。おたまが紙の間を音もなく歩き、一枚も踏まずに、流路の真上にあたる床板の一点に座った。ここだよ、と示すように。紙が微かに揺れた。文字が光るのではなく、文字の周囲の空白が暗くなった。名前だけが浮き上がる。
写本の下で、床板を透かすようにして、金色の筋が一本、列車の進行方向に向かって流れているのが見えた。
「あの金——名前か」
「溶けかけの名前だ。流路を伝って逃げている。どこかに辿り着こうとしているが、受け皿がない」
久遠が義眼を細めた。
蒼光が床を貫通し、金色の筋を照らす。筋が一瞬、太くなった。写本の文字に反応したのだ。
こよいは一枚の写本を手に取り、床に近づけた。金色の筋が写本に向かって曲がった。紙に触れる寸前で、筋は散った。細かい粒子になって床板の隙間に消えていく。
「届かなかった」
「いや」
久遠が首を振った。
「届いた。写本に痕跡が残っている。名前の欠片だ。本体は別にあるが、欠片がここに在るということは——流路の先に、本体がまだ生きているということだ」
あさひが窓の外に目を向けた。霧の中を、銀色の光が地面の下を走っていく。列車と並走するように、いくつもの筋が流れていた。
「噂と名前が同じ道を使ってる。だったら、噂を辿れば名前に辿り着く」
「そうだ。だが、観測者も同じことを考えている」
久遠は目録を胸に抱え直した。
「流路に乗るか、流路を避けるか。それを決めるのは——ここじゃない。宵波浜に着いてからだ」
列車が速度を落とし始めた。車輪の音が変わる。線路の質が変わったのだ。地下を流れる噂の流路が、ここでは地表に近い。
こよいは写本を集め、胸に抱いた。紙が温かかった。さっきまで冷たかった写本が、金色の欠片を受け取ってから、ほんのわずかに体温を帯びている。
窓の外で、噂の流路が枝分かれした。一本が列車に沿い、もう一本が浜の方角へ逸れていく。
その分岐点に、灯りはなかった。ただ、空気の密度だけが変わっていた。
