第347話 置く潮
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第347話 置く潮

第12章 記録の裂目

列車は、流刑地(るけいち)の縁を回り込む途中の、乾いた地盤の小さな停車場で三人と一匹を降ろした。銀色の流れが浜に変わる境目——溶けきれなかった名前が打ち上がる場所だと、久遠(くおん)が海図(かいず)の滲みから読み取ったのだ。

浜に出て間もなく、潮(しお)が引いた。

けれど砂浜(すなはま)には、引いた分だけ何かが残されていた。白い砂の上に、薄い金色の筋が幾本も走っている。波紋(はもん)のようだが、波紋ではない。筋には形がある。文字のような、声のような、かつて誰かの名前だったものの残骸(ざんがい)が、潮(しお)に運ばれてここまで辿(たど)り着いていた。

こよいは膝をつき、砂に顔を近づけた。  塩と、それ以外の何かの匂い。甘いような、懐かしいような、鼻の奥がじんと痺(しび)れる匂いだった。砂粒の隙間から立ち昇るその匂いは、列車の中で写本(しゃほん)が汗をかいていたときの温もりに似ていた。

「名前だ」

久遠(くおん)が背後で言った。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が砂の上を這(は)い、金色の筋を一本ずつ照らしていく。光が触れた箇所で砂粒が微かに震え、金色の筋がわずかに明るさを増した。蒼い光と金の光が交わるたびに、こよいの胸の前で巾着(きんちゃく)が小さく脈打つ。

「海が運んできた。流刑地(るけいち)に投棄(とうき)された名前のうち、完全に溶けきれなかったものが、潮(しお)に乗って打ち上げられている」

こよいは指先で砂に触れた。金色の筋がぬるい。体温に近い温度が、指の腹から伝わってきた。

「生きてる」

久遠(くおん)が頷いた。

「まだ形を保っている。だが長くはもたない。次の満潮で、また沖に持っていかれる」

あさひが布包みの大剣の石突(いしづき)で砂を軽く突いた。突いた場所から、金色の筋が震えるように広がった。包みの先が砂を離れた後も、突かれた筋は細かく波打ち続けている。痛みに似た反応だった。

「拾えるのか」

「写本(しゃほん)がある」

こよいは胸に抱えていた七枚の写本(しゃほん)を一枚だけ取り出し、砂の上に置いた。紙の端はまだ湿りを帯びていて、砂粒が数粒、縁(ふち)に張りついた。金色の筋が紙に触れた瞬間、写本(しゃほん)が微かに光った。墨(すみ)で書かれた名前の一つが、濃さを増していく。

文字が、合致した。

砂の上の名前と、写本(しゃほん)に記された名前が、同じものだった。溶かされて海を漂流していた名前の欠片(かけら)が、元の記録(きろく)に吸い寄せられるように紙へ戻っていく。

「……戻る」

こよいの声が掠(かす)れた。写本(しゃほん)の文字が、じんわりと熱を帯びている。

だが、全てが戻るわけではなかった。

久遠(くおん)が二本目の金色の筋に義眼(ぎがん)を当てた。蒼光(そうこう)が文字の輪郭(りんかく)をなぞるが、途中で途切れている。

「これは半分だ。名前の後半だけが残って、前半が溶けている」

「半分じゃ駄目なのか」

久遠(くおん)は首を振った。

「名前は全部揃って初めて名前になる。音節(おんせつ)が欠ければ、別の名前として定着する恐れがある。間違った器(うつわ)に入れれば、中身ごと壊れる」

こよいは砂の上の欠片(かけら)を見つめた。  半分の名前。後ろ半分だけの音。それだけでは、誰のものか分からない。けれど確かに、かつて誰かを呼ぶための言葉だった。金色の筋は砂の中でじっと横たわり、微かに震えている。呼ばれるのを待っているように見えた。

「写本(しゃほん)と照合する」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を開いた。海図(かいず)の頁(ページ)に記された五十一の名前。そのうち、まだ回収(かいしゅう)できていないものを指で追う。

「後半が『なぎ』で終わる名前。二つある。凪乃(なぎの)と、夕凪(ゆうなぎ)」

こよいは砂の上の欠片(かけら)に、もう一度指を置いた。ぬるい温度が脈を打っている。

「どっちか分かる方法は」

「本人に聞くしかない。だが本人はもう、自分の名前を覚えていない」

凪乃(なぎの)か、夕凪(ゆうなぎ)か。どちらかの器に入れれば、どちらかが壊れる。だから、どちらにも入れられない。  「……なら、預かる。決められる日まで」  こよいは断片を写本(しゃほん)の余白——名前の行から離れた場所に、そっと吸着させた。器ではなく、待合室に。

沈黙が落ちた。波が遠くで崩れる音だけが、低く繰り返されている。風が砂浜(すなはま)を渡り、金色の筋の上を撫でていった。筋は風にも反応して揺れたが、飛ばされはしなかった。砂に沁みついているのだ。

あさひが砂を踏み、海の方を向いた。潮(しお)はまだ引いている。砂浜(すなはま)には他にも金色の筋が散らばっていた。五本。六本。数えるほどに、胸が痛んだ。  おたまが、離れた場所の砂を前脚で軽く掻いていた。近づくと、砂の下からもう一本、埋もれかけの金色の筋が現れた。波が隠したものまで、猫の目は見落とさない。

「全部拾え」

あさひが振り返らずに言った。

「半分でもいい。欠けてても、ないよりましだ。後から繋(つな)げばいい」

こよいは頷き、写本(しゃほん)を広げた。久遠(くおん)が義眼(ぎがん)で一本ずつ照合していく。三人の影(かげ)が砂の上に長く伸び、金色の筋と重なった。

潮(しお)が戻り始めるまでに、こよいは十一の欠片(かけら)を写本(しゃほん)に吸着(きゅうちゃく)させた。そのうち完全な名前は四つ。残り七つは音節(おんせつ)の断片で、みな余白の待合室に並んだ。

写本(しゃほん)を胸に戻すとき、紙がほんの少しだけ重くなっていた。名前の重さだった。薄い紙一枚が、十一の命を抱えて確かに重くなっている。その重さが掌(てのひら)に染み込むようだった。

波音が近づいてくる。

満潮が来る前に、三人は砂浜(すなはま)を離れた。背後で波が砂を洗い、残された金色の筋を一本ずつ呑(の)んでいく。こよいは振り返らなかった。振り返れば、拾えなかったものばかりが目に入る。

写本(しゃほん)の温もりだけを、胸の前で確かめた。  拾えたものは、確かにここにある。砂浜(すなはま)に残した分も、いつか必ず迎えに来ると、こよいは胸の中で誓った。

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