列車は、流刑地の縁を回り込む途中の、乾いた地盤の小さな停車場で三人と一匹を降ろした。銀色の流れが浜に変わる境目——溶けきれなかった名前が打ち上がる場所だと、久遠が海図の滲みから読み取ったのだ。
浜に出て間もなく、潮が引いた。
けれど砂浜には、引いた分だけ何かが残されていた。白い砂の上に、薄い金色の筋が幾本も走っている。波紋のようだが、波紋ではない。筋には形がある。文字のような、声のような、かつて誰かの名前だったものの残骸が、潮に運ばれてここまで辿り着いていた。
こよいは膝をつき、砂に顔を近づけた。 塩と、それ以外の何かの匂い。甘いような、懐かしいような、鼻の奥がじんと痺れる匂いだった。砂粒の隙間から立ち昇るその匂いは、列車の中で写本が汗をかいていたときの温もりに似ていた。
「名前だ」
久遠が背後で言った。義眼の蒼光が砂の上を這い、金色の筋を一本ずつ照らしていく。光が触れた箇所で砂粒が微かに震え、金色の筋がわずかに明るさを増した。蒼い光と金の光が交わるたびに、こよいの胸の前で巾着が小さく脈打つ。
「海が運んできた。流刑地に投棄された名前のうち、完全に溶けきれなかったものが、潮に乗って打ち上げられている」
こよいは指先で砂に触れた。金色の筋がぬるい。体温に近い温度が、指の腹から伝わってきた。
「生きてる」
久遠が頷いた。
「まだ形を保っている。だが長くはもたない。次の満潮で、また沖に持っていかれる」
あさひが布包みの大剣の石突で砂を軽く突いた。突いた場所から、金色の筋が震えるように広がった。包みの先が砂を離れた後も、突かれた筋は細かく波打ち続けている。痛みに似た反応だった。
「拾えるのか」
「写本がある」
こよいは胸に抱えていた七枚の写本を一枚だけ取り出し、砂の上に置いた。紙の端はまだ湿りを帯びていて、砂粒が数粒、縁に張りついた。金色の筋が紙に触れた瞬間、写本が微かに光った。墨で書かれた名前の一つが、濃さを増していく。
文字が、合致した。
砂の上の名前と、写本に記された名前が、同じものだった。溶かされて海を漂流していた名前の欠片が、元の記録に吸い寄せられるように紙へ戻っていく。
「……戻る」
こよいの声が掠れた。写本の文字が、じんわりと熱を帯びている。
だが、全てが戻るわけではなかった。
久遠が二本目の金色の筋に義眼を当てた。蒼光が文字の輪郭をなぞるが、途中で途切れている。
「これは半分だ。名前の後半だけが残って、前半が溶けている」
「半分じゃ駄目なのか」
久遠は首を振った。
「名前は全部揃って初めて名前になる。音節が欠ければ、別の名前として定着する恐れがある。間違った器に入れれば、中身ごと壊れる」
こよいは砂の上の欠片を見つめた。 半分の名前。後ろ半分だけの音。それだけでは、誰のものか分からない。けれど確かに、かつて誰かを呼ぶための言葉だった。金色の筋は砂の中でじっと横たわり、微かに震えている。呼ばれるのを待っているように見えた。
「写本と照合する」
久遠が目録を開いた。海図の頁に記された五十一の名前。そのうち、まだ回収できていないものを指で追う。
「後半が『なぎ』で終わる名前。二つある。凪乃と、夕凪」
こよいは砂の上の欠片に、もう一度指を置いた。ぬるい温度が脈を打っている。
「どっちか分かる方法は」
「本人に聞くしかない。だが本人はもう、自分の名前を覚えていない」
凪乃か、夕凪か。どちらかの器に入れれば、どちらかが壊れる。だから、どちらにも入れられない。 「……なら、預かる。決められる日まで」 こよいは断片を写本の余白——名前の行から離れた場所に、そっと吸着させた。器ではなく、待合室に。
沈黙が落ちた。波が遠くで崩れる音だけが、低く繰り返されている。風が砂浜を渡り、金色の筋の上を撫でていった。筋は風にも反応して揺れたが、飛ばされはしなかった。砂に沁みついているのだ。
あさひが砂を踏み、海の方を向いた。潮はまだ引いている。砂浜には他にも金色の筋が散らばっていた。五本。六本。数えるほどに、胸が痛んだ。 おたまが、離れた場所の砂を前脚で軽く掻いていた。近づくと、砂の下からもう一本、埋もれかけの金色の筋が現れた。波が隠したものまで、猫の目は見落とさない。
「全部拾え」
あさひが振り返らずに言った。
「半分でもいい。欠けてても、ないよりましだ。後から繋げばいい」
こよいは頷き、写本を広げた。久遠が義眼で一本ずつ照合していく。三人の影が砂の上に長く伸び、金色の筋と重なった。
潮が戻り始めるまでに、こよいは十一の欠片を写本に吸着させた。そのうち完全な名前は四つ。残り七つは音節の断片で、みな余白の待合室に並んだ。
写本を胸に戻すとき、紙がほんの少しだけ重くなっていた。名前の重さだった。薄い紙一枚が、十一の命を抱えて確かに重くなっている。その重さが掌に染み込むようだった。
波音が近づいてくる。
満潮が来る前に、三人は砂浜を離れた。背後で波が砂を洗い、残された金色の筋を一本ずつ呑んでいく。こよいは振り返らなかった。振り返れば、拾えなかったものばかりが目に入る。
写本の温もりだけを、胸の前で確かめた。 拾えたものは、確かにここにある。砂浜に残した分も、いつか必ず迎えに来ると、こよいは胸の中で誓った。
