写本が湿っていた。 雨ではない。 車内は乾いている。
けれど、こよいの膝の上に置いた七枚の写本の端が、じんわりと水気を帯びていた。 墨が滲む。
文字が泣いているように見えた。
こよいは指先で紙の縁に触れた。湿り方は、七枚で二通りに分かれていた。 名前の残る四枚——捕獲された四柱の頁は、書かれた行だけが濃く水を含み、文字そのものが汗を掻いているようだった。流刑地に沈む本人と、頁の文字が、直に共鳴しているのだ。 白紙に戻った三枚は、縁だけがじんわりと湿っている。名前はもう地面の根に移ったのに、紙は根との繋がりを微かに覚えていて、遠くから震えを拾っていた。 四枚の湿りは激しく、紙の縁が波打って、座席の木肌に薄い水の輪を作っていた。
「汗だ」
久遠が写本に義眼を向けた。 蒼光が紙面を舐めるように走る。光が文字の上を通過するたびに、湿った箇所が一瞬だけ金色に反射した。蒼と金。二つの光が紙面の上で交差し、名前の一画一画が浮き彫りになる。
「名前が汗をかいている。この周囲の空間に、大量の溶解した名前が漂っているんだ。写本に書かれた名前が、それに反応している」
こよいは写本を持ち上げた。 紙の裏側にまで水気が浸透している。 指で触れると、ぬるい。
生温かい、体温に近い温度だった。 こよいの指先に残るその温みは、まるで誰かの掌に触れたときの感覚に似ていた。写本の文字が生きているのだと、理屈ではなく肌が告げている。持ち上げた拍子に、一滴の雫が紙の端から膝に落ちた。落ちた瞬間、膝を覆う布地にじわりと金色の染みが広がり、すぐに消えた。
窓の外を見た。 液状化した記録の海が、列車の下を流れている。 銀色に光る流れの中に、時折、金色の筋が混じっていた。筋は細いものもあれば、腕ほどの太さで蛇行するものもある。どれも等しく、自らの光を放ちながら銀色の流れに呑まれまいとしていた。
「あの金色は」
「名前だ。溶かされた名前の残骸だ」
久遠が目録を開いた。
海図の頁。
線が動いている。蒼光が頁を照らすと、海図の上に描かれた航路が微かに脈打つのが見えた。線と線が交差する場所で、光が溜まっている。久遠の細い指が頁の端を押さえたが、紙がすでに湿りを帯びていて、指の腹が滑った。この場所に近づくだけで、記録の基盤そのものが溶解の影響を受け始めているのだ。
星降町で待っていた七柱のうち、三柱は受け皿に辿り着き、広場の根に定着した。 だが残りの四柱の線は、途中で折れ曲がり、この液状の領域に向かって流れ込んでいた。
「四柱は——ここに流されたのか」
久遠が線の終点を指で押さえた。 座標が記されている。
宵波浜。
「観測者が地下を移動中の名前を捕獲し、この流刑地に投棄した。溶かして処分するためだ」
久遠の声は低く、淡々としていた。だがその淡々とした語調の奥に、こよいは刃物の冷たさに似たものを聞き取った。怒りではない。怒りよりもっと深い場所にある、静かな拒絶だった。義眼の光が一瞬だけ強くなり、海図の座標を焼きつけるように照らした。
あさひが窓の外を睨んだ。 銀色の流れの中に浮かぶ金色の筋が、列車の動きに合わせて後方へ流れていく。一本、また一本と、目の前を過ぎ去っていく。あさひの目がそのひとつひとつを追い、奥歯を噛む音が微かに聞こえた。
「溶かして。消すってことか」
「完全には消えない。流刑地の名前は液体になるが、しばらくの間は形を保つ。だが時間が経てば、薄まって消える」
あさひの顎の筋肉が強張った。布越しに剣の柄へ置いた手が、一度だけ強く握られて、また緩んだ。窓硝子に映り込んだあさひの横顔が、銀色の流れの反射を受けて硬く光っている。
おたまが座席から降り、こよいの膝の下——写本の真下の床に、ぴたりと寄り添って丸くなった。濡れた紙の下に、乾いた温もりが一枚挟まった形だった。猫なりの、支え方らしい。
こよいは写本を胸に抱いた。 湿った紙が頬に触れた。
冷たくない。
温かかった。
名前が、仲間を探して泣いているのだ。 写本の湿りは涙のようでもあり、汗のようでもあった。紙を通して、溶かされた名前たちの気配がこよいの胸に押し寄せてくる。何百、何千という名前が、この銀色の流れの中でばらばらになりながら、それでもなお自分が何者であったかを覚えようとしている。その必死さが、写本の温もりとなってこよいの頬を温めていた。
列車の窓の外で、金色の筋が一瞬、写本の方に向かって揺れた。 届かなかった。 流れに呑まれて、また沈んでいった。
こよいは巾着の紐に指を絡ませた。神々が微かに脈打っている。怯えているのではなかった。窓の外の名前たちに呼応しているのだ。巾着の布越しに伝わる神々の温もりと、写本の湿った温もりが、こよいの胸の前で重なった。二つの熱が混じり合い、心臓の鼓動に合わせて微かに揺れる。
こよいは写本を抱いたまま、窓硝子に額を押し当てた。 硝子越しに、銀色の流れが絶え間なく続いている。 硝子は冷たかった。額に触れる温度が、外の世界の冷たさをそのまま伝えてくる。写本の温もりとの落差が、胸を締めつけた。
その奥で、潮の音が聞こえた気がした。波の音ではない。名前を呼ぶ声が重なって、潮のうねりに似た響きになっているのだ。低く、遠く、途切れがちに。一つ一つは微かな声なのに、幾千と重なることで、海鳴りのような力を持っていた。
呼んでいる。
沈んだ名前たちが、まだ呼んでいる。巾着の中で神々が震え、写本の湿りが一段深くなった。呼ぶ潮の底に、四つの金色がまだ光っていた。
