第343話 風の薄さ
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第343話 風の薄さ

第11章 海図の響き

列車が速度を落とした。

窓の外に、灯(ひ)が見えた。霧(きり)越しの灯(ひ)ではない。はっきりと、等間隔に並んだ蒼白い光が、停車場(ていしゃじょう)の柱(はしら)に据えられている。光の輪郭(りんかく)が滲(にじ)まずに見える。ここまでの旅で、それがどれほど珍しいことか、こよいには分かっていた。

車輪が最後の軋みを上げて止まった。蒸気が短く吐き出され、車体が沈むように静まる。金属が冷えていく音が、停車場(ていしゃじょう)の天井に反響して消えた。

こよいは窓に額(ひたい)を寄せた。停車場(ていしゃじょう)の石畳(いしだたみ)に、金色の筋が走っている。  見覚えのある光だった。星野(ほしの)の広場で、石畳の下に広がっていた、あの名前の根。けれど、ここは星降町(ほしふりまち)だ。駅名標が別の名に化けていた、あの北の町。前に来たとき、この石畳に光はなかった。そして——こよいたちは、この町に名前を植えた覚えがない。

「……根が、来てる」  声が震えた。

植えた覚えのない町に、根が届いていた。

扉を開けると、冷たい空気が車内に流れ込んだ。霜(しも)の匂いがある。だが霜里(しもざと)の刺すような冷たさではなく、冬の朝の空気に似ていた。吐く息が白く広がり、停車場(ていしゃじょう)の蒼白い灯(ひ)に照らされて一瞬だけ光った。  そして、風が薄かった。  頬に当たるのに、音がしない。灯の絶えた一帯で知った、あの薄さだ。名前を剥がされた土地の、中身のない風。こよいは思わず喉元を押さえた。  だが——一歩進んで、気づいた。金色の筋の真上だけ、風が鳴っている。髪が揺れる音がする。息の擦過音(さっかおん)が戻る。根の通っている場所の上でだけ、薄い風が厚みを取り戻していた。名前が戻れば、風はまた風になれる。この町の空気は、いま、その途中にあるのだ。

あさひが先に降りた。ステップに足をかけたとき、金属の段が鳴った。その音が停車場(ていしゃじょう)に響き、石畳(いしだたみ)の金色の筋がわずかに揺れた。音に反応している。名前の根が、振動を拾っている。

あさひは石畳(いしだたみ)に立ち、足元を見下ろした。

「前に来たときとは、別の町みてえだな」

靴底の下で、根が脈打っているのが足裏にはっきりと伝わった。あさひの体重を感じ取ったように、金色の光が靴の周りで一度だけ強まり、戻った。

久遠(くおん)が続いて降り、目録(もくろく)を開いた。頁(ページ)の金色の筋が、地面の根と呼応して震えている。

「……星野(ほしの)の根だ。俺たちが星野で着地させた二十五柱の根が、地下の水脈網を通って、ここまで伸びてきている。井戸と井戸を繋ぐ、あの旧い水路だ。根の伸長速度は予測を遥かに上回っている。この密度(みつど)なら——」

久遠(くおん)は言葉を切り、義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)を停車場(ていしゃじょう)の外へ向けた。通りの奥まで光が走り、戻ってくる。

「町全体に根が行き渡っている。氷が緩み始めている場所がある」

こよいは最後にステップを降りた。靴底が石畳(いしだたみ)に触れた瞬間、巾着(きんちゃく)が温かくなった。根が巾着(きんちゃく)を認識している。布の中の名前たちに向かって、地面の根が信号を送っている。「帰ってきた」と。

こよいは膝をついて、石畳(いしだたみ)に手を置いた。金色の筋が指の間を通り、掌(てのひら)の下で微かに震えた。温かい。根が通っている場所だけが、石の冷たさを忘れている。こよいは目を閉じた。掌(てのひら)を通して伝わる振動に、聞き覚えのある脈があった。星野で着地させた名前たちの声だ。根を通って、町ひとつ分の距離を越えて届いている。ぼくを覚えている、とこよいは思った。  そして、その脈の間に——知らない脈が、七つ、混じっていた。  「久遠(くおん)くん。根の中に、まだ着いてない子たちがいる」  地下を移動していた七柱。反応のなかった名前たちが、この根の網のどこかを、いまも移動している。

「名前が、根を通って話してる」

こよいは掌(てのひら)を通して伝わってくる振動に耳を澄(す)ませた。音ではない。脈だ。名前と名前が、地面の下で脈を交わしている。前に着地させた名前たちが互いの存在を確かめ合い、根を介して会話している。

あさひが停車場(ていしゃじょう)の柱(はしら)に背を預けた。剣を膝(ひざ)の横に立て、目を薄く閉じた。

「……少し休んでいいか。すまねえ」

影(かげ)と戦い続けた身体が、安全な場所に着いた途端に重くなったのだ。声は低く、掠(かす)れていた。

こよいは立ち上がり、あさひの隣に腰を下ろした。肩が触れた。あさひの体温は高い。戦いの熱がまだ引いていない。

「いいよ。ここは安全だから」  こよいはあさひの肩に手を置いた。戦いの間中、一度も弛(ゆる)まなかった筋肉が、こよいの掌(てのひら)の下で少しだけ柔らかくなった。

根が張り巡らされた場所は、影(かげ)が入り込めない。金色の光が結界のように町を覆(おお)い、名前を持たないものを弾いている。

久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じ、柱(はしら)の反対側に座った。目録(もくろく)を胸に抱える姿は、こよいが写本(しゃほん)を抱えるのと似ていた。三人の間に、停車場(ていしゃじょう)の冷たい空気が流れた。

おたまが、金色の筋の一本を辿(たど)って、通りの奥へ数歩進み、振り返った。ついておいで、と言うように。猫の選んだ筋は、他のどれよりも太く、真っ直ぐに町の中心へ向かっていた。

星降町(ほしふりまち)は、待っていた。名前が届くのを。根が花開くのを。通りの向こうで、金色の筋が一つ、ゆっくりと脈打った。町がゆっくりと目を覚ましたように。

こよいは巾着(きんちゃく)を膝(ひざ)の上に置き、布越しに地面の根の温かな鼓動が伝わってくる。石畳(いしだたみ)の金色の筋を見つめた。筋は三人の足元から通りの奥へ伸び、角を曲がり、見えないところまで続いている。一つの町を、名前の根が支えている。

足元の根が、三人の体温に合わせてゆっくりと穏やかに明滅した。呼吸のように。心臓のように。生きている町の脈が、石の下で静かに鳴っていた。三人の体温を包み込むように、金色の光が足元から広がっていった。

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