第342話 影を斬る剣
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第342話 影を斬る剣

第11章 海図の響き

声の停車場は、路地を抜けた先の、地の底のような窪地にあった。観測者の作った偽の停車場と違い、ここのホームには屋根も柵もなく、ただ古い石の縁だけがある。呼ぶ者の声を待つ場所——だから、声の停車場。霧列車は、三人と一匹が縁に立つと、霧の奥から音もなく現れた。  北へ。忘却井の手前の合流点へ——目録の上で、その座標は星降町の直下を指していた。半日の行程の、その半ばだった。

列車が急に揺れた。揺れではない。  止まろうとしている。

車輪が軌道の上で悲鳴を上げ、火花が窓の外に散った。オレンジ色の火花が霧の中で一瞬だけ星のように瞬き、すぐに消えた。金属と金属が擦れ合う甲高い音が車内を貫き、こよいは思わず耳を塞いだ。座席の下から突き上げるような振動が背骨を揺らし、巾着の中の神々が跳ねた。

「何だ」

あさひが立ち上がった。座席の背を掴み、揺れの中で身体を支える。反射的に背の剣に手が伸びていた。

窓の外に、影が映っていた。  霧の向こうに、列車と並走する何かがいる。  人の形をしているが、人ではない。

輪郭が揺れている。体の縁(ふち)が煙のように滲(にじ)み、一歩ごとに形が微かに変わる。腕の長さ、頭の大きさ、足の位置。すべてが不確定で、ただ「人である」という情報だけが、霧(きり)の中に投影されていた。

情報でできた身体。

「観測者(かんそくしゃ)の回収部隊(かいしゅうぶたい)だ」

久遠(くおん)が目録(もくろく)を抱えた。両腕で革表紙を胸に押し付け、頁(ページ)が開かないようにしている。

義眼(ぎがん)が激しく明滅している。蒼光(そうこう)が不規則に点滅し、窓の外の影(かげ)を追うように左右に揺れた。

「経蔵(きょうぞう)の崩壊(ほうかい)を検知した。解放された名前を回収しに来ている。この列車を停めようとしている」

久遠(くおん)の声が硬い。分析の速度が追いつかないときの声だ。義眼(ぎがん)に流れ込む情報量が多すぎて、言葉にする前に次の情報が押し寄せている。

列車が再び揺れた。

速度が落ちる。車輪の回転が鈍くなり、線路の継ぎ目を越える音の間隔が広がっていく。

窓の外の影(かげ)が増えている。

三つ。

五つ。

七つ。こよいは巾着(きんちゃく)を握った。  温かいが、震えている。温もりの中に細かい振動が混じり、まるで神々の心臓そのものが揺れているようだった。

神々が怯(おび)えている。

巾着(きんちゃく)の布が冷たくなり始めた。神々の温もりが内側に引き、布の表面だけが外気に晒(さら)されている。守ろうとしている。自分の熱を内に閉じ込めて、奪われまいとしている。

「降りない」

あさひが言った。声は短く、太く、車内の空気を割るように響いた。

剣の布包みを解いた。革紐(かわひも)が床に落ち、布が肩から滑る。露(あら)わになった刃が、行灯(あんどん)の光を鈍く受けた。

「この列車は止まらない。止めさせない」

あさひが通路を歩き、連結部(れんけつぶ)の扉を開けた。  冷たい風が車内に吹き込んだ。風は湿っていて、霧(きり)の粒子を含んでいた。こよいの頬(ほお)に冷たい水滴が当たり、まつ毛に霧(きり)が絡(から)んで視界が滲(にじ)む。風の中に金属の匂いが混じっていた。影(かげ)たちが帯びている匂いだ。情報が物質化するとき、鉄に似た匂いを放つ。  外に出ようとしている。

「あさひ」

こよいが呼んだ。声が風に押し戻された。列車の走行音と風の唸(うな)りに呑(の)まれて、名前が遠くへ飛ばされそうになる。

あさひは振り返らなかった。連結部(れんけつぶ)の手すりを掴(つか)み、風の中に片足を踏み出している。髪が暴れ、衣の裾が激しく靡(なび)いた。

「写本(しゃほん)を守れ。名前を守れ。俺は——この列車を守る」

扉の向こうに出た。

風が扉を叩き閉めた。鉄の扉が車体にぶつかる重い音が響き、そのあとに、鋼(はがね)の打ち合う音が続いた。甲高い金属音。あさひの剣が、何かを斬(き)っている。一撃、二撃。間を置かずに三撃目。  列車の屋根の上で、金属と情報がぶつかる音。剣が影(かげ)を裂くたびに、空気が弾ける音がする。情報でできた身体が斬(き)られると、風船が割れるような乾いた破裂音を立てる。その音が連続して屋根の上から降ってきた。

速度が戻り始めた。

車輪の回転が上がる。線路の継ぎ目を越える音が密になり、列車全体が前へ押し出されるように加速していく。あさひが影(かげ)を斬(き)るたびに、列車を掴(つか)んでいた力が剥(は)がれ、解放された車体が速度を取り戻していく。

列車が加速する。

影(かげ)が一つ、二つと消えていく。窓の外に、切り裂かれた影(かげ)の残骸(ざんがい)が霧(きり)の中に散っていくのが見えた。黒い靄(もや)のような欠片(かけら)が霧(きり)に混じり、すぐに溶けて消える。久遠(くおん)が窓に手を当てた。掌(てのひら)で硝子(ガラス)の振動を感じ取りながら、義眼(ぎがん)で外の状況を追っている。

「あいつの剣は、情報を斬(き)れる。普通の刃物では触れられない観測者(かんそくしゃ)の兵を、物理的に破壊している。どうやっているのか分からないが——」

「分からなくていい」

こよいが言った。写本(しゃほん)を胸に抱いている。紙の束を両腕で包み込み、名前たちを自分の体温で守るようにして、座席の上で身体を丸めていた。

「あさひは、ああいう人だから」

おたまは、座席の上で丸くなったまま、耳だけを屋根に向けていた。慌てもせず、隠れもしない。影たちは猫を掴めない——桟橋(さんばし)の夜に、三人はそれを見ている。この車内でいちばん安全なのは、たぶん、この猫だった。

屋根の上で、また剣が鳴った。今度は長い斬撃(ざんげき)。鋼(はがね)が風を切る音が列車の全長を滑るように流れ、後方で影(かげ)が散る音が続いた。

扉が開いた。

冷たい風とともに、あさひが戻ってきた。  肩で息をしている。呼吸のたびに胸が大きく上下し、吐く息が白く長く伸びた。額の汗が冷たい風に晒(さら)されて冷え、こめかみから顎(あご)にかけて筋になって流れている。

剣の刃(やいば)に、黒い染みが付いていた。  影(かげ)の血(ち)だ。通常の血ではない。黒い液体が刃(やいば)の表面で微かに蠢(うごめ)き、鋼(はがね)に染み込もうとしている。あさひは剣を一振りして、黒い液を床に飛ばした。液体は床板に落ちた瞬間に蒸発し、鉄の匂いだけを残して消えた。

「全部斬(き)った。だが、また来るぞ。星降町(ほしふりまち)に近づくほど、奴らの数が増える」

あさひは座席に倒れ込んだ。背もたれに体重を預け、首が後ろに折れる。天井を仰いだまま、しばらく動かなかった。  額の汗が、冷たい空気に触れて白く蒸発した。湯気(ゆげ)のように立ち昇る汗の蒸気が、車内の灯(ひ)に照らされて金色に見えた。こよいが水筒を差し出した。  あさひは受け取り、一口だけ飲んだ。水が喉を通る音が聞こえるほど、車内は静かになっていた。列車が安定した。

車輪の音が規則正しくなる。継ぎ目を越えるたびに同じ間隔で音が鳴り、その律動(りつどう)が三人の呼吸を整えていく。窓の外で、星降町(ほしふりまち)の灯(ひ)がぼんやりと見え始めた。霧(きり)の向こうに、小さな光の集まりが浮かんでいる。  遠い。

まだ遠い。けれど確実に、近づいていた。光の数は数えられないが、霧(きり)の濃さの向こうに確かに温度がある。人が住んでいる温度。名前がある場所の温度。

あさひは水筒を返し、座席の背に頭を預けた。目を閉じかけて、閉じなかった。薄く開けたまま、窓の外の霧(きり)を見ている。  剣は布を掛け直して膝(ひざ)の上に横たえたまま、手を離さない。柄(つか)を握る指が白い。力を入れているのではなく、抜けないのだ。戦いの緊張が指に残り、握った形のまま固まっている。

車輪の律動(りつどう)が、三人の沈黙を包んでいた。こよいは写本(しゃほん)の束を膝の上に置き、紙の温度を掌(てのひら)で確かめた。名前たちはまだ温かい。経蔵(きょうぞう)から連れ出した名前が、紙の中で静かに息をしている。

窓の外を、斬(き)り残した霧(きり)だけが流れていく。

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