第341話 影浦の路地
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第341話 影浦の路地

第11章 海図の響き

北の道を半日歩いた先に、路地ろじの入口が見えた。石壁に囲まれた細い道が、きりの奥に続いている。

久遠くおん目録もくろくを確かめていた。ページの文字を蒼光そうこうで追いながら、奥歯をむように呟いた。

「記録が書き換えられている。さっき写し取った座標ざひょうの三つが、もう別の数字になっている」

こよいは巾着きんちゃくを握った。神々の温もりが不安定に揺れている。

「消されるんじゃなくて、変えられるの」

漂白ひょうはく再定義さいていぎの両方だ。漂白ひょうはくで消し、再定義さいていぎ上書うわがきする。二重にやられると、元の記録があったことすら分からなくなる」

あさひが壁に背を預け、腕を組んでいた。足の位置だけは微妙にずらしてある。いつでも動ける構え。

音が変わった。

足音の反響が、急に丸くなった。壁と壁の間隔が狭まったせいだ。路地ろじの天井が低くなり、三人の呼吸こきゅうが頭上でつぶれて戻ってくる。鉄錆てつさびの匂いが退しりぞき、代わりに湿った砂利じゃり干潮かんちょうのあとの泥の匂いが足元から立ち昇った。宵波浜よいなみはまとは違う。あのときは鼻腔びくうに塩とこけが絡んだが、ここの空気はもっと重く、古い。石そのものが水を飲んでふくれているような、にぶい湿気だった。

こよいは巾着きんちゃくの結び目に指を引っかけた。  影浦かげうら——気配だけがあって、形の見えないもの。その気配が布をかして伝わってくる。神々の脈が一斉いっせいにテンポを落とした。宵波浜よいなみはまの路地で、まだ名も知らぬままこの気配に初めてすくんだときは、温もりが引いて怖かった。今は分かる。名前たちが呼吸こきゅうを深くし、根を下ろす準備をしているのだ。構えではなく、集中だった。

足元の石畳いしだたみが黒ずんでいた。水ではない。石そのものの色が暗い。踏むと靴底に細かな砂粒すなつぶみ、乾いた擦過音さっかおんが鳴った。こよいは歩幅を狭め、あさひは無言で半歩先に出た。宵波浜よいなみはまで覚えた歩き方が、もう身体に染みついている。

影浦かげうら路地ろじの方から来てる。気づいてるふりはするな」

あさひの声は息にまぎれていた。口を開かず、歯の隙間すきまから言葉を押し出している。声を殺すわざが、宵波浜よいなみはまのときよりも滑らかになっていた。

言い切らないまま進む。路地ろじの壁は灰色の漆喰しっくいで塗り固められ、ところどころがれた下からびた鉄骨てっこつのぞいている。漆喰しっくいの粉が空気中に漂い、吸い込むと舌の奥に石灰せっかいの味がした。壁には触れない。三人とも、もう言われなくても分かっていた。

再定義さいていぎが薄い。足元だけは固く踏め」

久遠くおん目録もくろくの革表紙に指を滑らせ、この場のことわりの深さを測っている。あさひは剣を布包みのまま前に出た。義眼ぎがん蒼光そうこうを最小に絞った久遠くおんが、路地ろじの奥を透かした。

「……影浦かげうらだ」

久遠くおんの声に確信が乗った。義眼ぎがんが捉えた情報を声に変換している。影浦かげうら輪郭りんかくが、路地ろじの奥に揺れている。形はまだない。だが、ないこと自体が影浦かげうらの特徴だった。

影浦かげうら路地ろじに近づくほど、思考より先に身体が反応する。肩が強張こわばり、呼吸が浅くなり、足の指が靴の中で石畳いしだたみつかもうとする。身体が知っている。理屈より先に、皮膚が危険を読んでいる。

こよいは一行だけ目録もくろく鉛筆えんぴつを走らせた。  『影浦かげうら路地ろじ』と書かず、形だけを写すための線。路地ろじの幅、壁の高さ、曲がり角の角度。言葉にせず、図だけで記録する。名前を書けば、名前が反応する。この場所では、文字より線のほうが安全だった。

久遠くおんが声を低くして言った。

「口にすると決まる。だから、目で見たものは胸にしまっておけ」

三人は視線を合わせず、足音の符丁ふちょうだけで進んだ。

こよいが小さく声を落とした。

「怖い。けど、海図かいずひびきみたいに黙って消えるのはもっと嫌だ」

声が路地ろじの壁に吸われた。反響しなかった。壁の煉瓦れんがが声を飲み込み、振動だけを奥へ運んでいく。

こよいは鉛筆えんぴつを握ったまま、路地ろじの奥を見た。  きり路地ろじの角にまっていた。宵波浜よいなみはまきりすそを引いて動いたが、ここのきりは動かない。角に詰まったまま固まり、白い壁のように立ちはだかっている。  影浦かげうらの気配は近い。けれど形はまだない。  形がないまま、三人の呼吸こきゅうだけが路地ろじに残った。吐く息の白さが、きりに混じって区別がつかなくなる。三人の息と路地ろじきりが一つになり、影浦かげうらの気配の中に溶けていく。

こよいは鉛筆えんぴつしんを紙に押し当てたまま、動かなかった。書くべき線の続きが、まだ見えない。見えるまで待つしかない。路地ろじの奥で、形のない気配が、三人を測っていた。

おたまが、きりの壁の前に進み出た。猫は白い塊を見上げ、それから、興味を失ったように毛づくろいを始めた。測られていることに、猫だけが付き合わなかった。

どれほど経ったか。角に詰まっていたきりが、ふ、と緩んだ。気配が奥へ退いていく。測り終えたのだ。敵ではないと判じたのか、報告に戻ったのか、それは分からない。ただ、路地ろじの空気が、呼吸できる重さに戻った。

「……行ったな」

あさひが息を吐いた。

「先を急ぐ。この路地ろじを抜けた先に、水中の道標みちしるべが言っていた『声の停車場ていしゃじょう』があるはずだ。忘却井ぼうきゃくいの手前の合流点ごうりゅうてんまで、徒歩なら三日。列車なら半日だ」

久遠くおん目録もくろくを閉じた。三人と一匹は、固まったきりの残り香の中を、足音を散らしながら進んだ。

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