第340話 潮の道標
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第340話 潮の道標

第11章 海図の響き

濡れた壁の港町を出て内陸へ向かうと、道は十字路に行き当たった。  十字路の中央に、石の道標みちしるべが立っていた。

人の背丈せたけほどの高さで、四面に行き先が刻まれている。北は「星降町ほしふりまち」。東は「波里港なみざとこう」。南は「きり停車場ていしゃじょう」。西は「経蔵きょうぞう」。

文字は読めた。だが、何かが違った。

最初に気づいたのは、おたまだった。猫が急に道標みちしるべの台座の上へ跳び乗った。濡れない場所へ。

しおが上がるぞ」

あさひが足元を見た。石畳いしだたみの隙間から、水がにじみ出している。海水ではない。透明で、冷たく、匂いがない。記録の水だった。

水位が上がり始めた。足首を超え、すねに届く。冷たさが骨に沁みる。だが、濡れた布は重くなるのに、この水は衣を重くしなかった。記録の水は、物を濡らすのではなく、記憶だけを濡らすのだ。

道標みちしるべの台座が水に沈んだ。

「……変わった」

こよいが声を上げた。

道標みちしるべの文字が変わっていた。水面の下に沈んだ部分に、別の文字が浮かんでいる。北は「忘却井ぼうきゃくい」。東は「名の河口かこう」。南は「声の停車場ていしゃじょう」。西は「写本庫しゃほんこ」。

水上と水中で、道標みちしるべは全く異なる行き先を示していた。台座の上のおたまは、濡れた毛一本もないまま、水中の文字のほうだけを見下ろしている。猫の目は、ここでも本当の地図の側を選んでいた。

久遠くおんが膝をついて水に顔を近づけた。義眼ぎがん蒼光そうこうが水面を貫き、水中の文字を照らす。

「水中の方が古い。こちらが元の道標みちしるべだ。水上の文字は、観測者かんそくしゃが後から彫り直したものだな」

「つまり、上はうそってこと?」

こよいが訊いた。

うそというより、上書うわがきだ。名前の通り道を隠すために、地名を差し替えた。だが石は水に沈めば元の彫りを見せる。水が記憶を洗い出す」

久遠くおん目録もくろくを開き、水中の文字を書き写し始めた。義眼ぎがんで水底を見ながら、もう片方の手で素早く筆を走らせる。

「北の『忘却井ぼうきゃくい』。これは名前が最後に落ちる井戸いどだ。落ちたら二度と浮かばない。東の『名の河口かこう』は、名前が海に出る場所。海に出た名前は散逸さんいつする」

「南の『声の停車場ていしゃじょう』は?」

こよいが覗き込んだ。

霧列車きりれっしゃの本来の停車場ていしゃじょうだ。今の停車場ていしゃじょう観測者かんそくしゃが作った偽物で、本当の乗降口はもっと深い場所にある」

水位がさらに上がった。膝を超え、ももに届く。道標みちしるべの四面が完全に水没し、水中の文字だけが見えている。

あさひが久遠くおんえりを掴んだ。

「急げ。水が引いたら消える」

「分かっている」

久遠くおんの筆が走る。西の「写本庫しゃほんこ」の座標ざひょうを写し取る。経蔵きょうぞうの奥にある、観測者かんそくしゃが隠した写本しゃほんの保管庫。名前を消すために使われた道具が眠る場所。

水中の道標みちしるべは、それだけではなかった。

四面の行き先の下に、さらに小さな文字が刻まれていた、こよいが目をらす。

「……道順が書いてある。北へ三日、東へ半日、南はしおが満ちた夜だけ、西は声を落とした者だけが通れる」

「条件付きの道だ。誰でも通れるわけじゃない。……昔の旅人は、潮を待って道を確かめてから発ったんだろう。急ぐ者ほど、偽の道標に従うことになる」

久遠くおんが写し終えた。目録もくろくページに、水中の道標みちしるべの全てが記録されている。

水位が止まった。

それから、ゆっくりと引き始めた。

水面が下がるにつれて、水中の文字が薄れていく。石の表面からすみが流れ出すように、行き先の名が溶けて消えていった。

水が完全に引いたとき、道標みちしるべには再び水上の文字だけが残っていた。北は「星降町ほしふりまち」。東は「波里港なみざとこう」。偽りの地名が、何事もなかったかのように並んでいる。

こよいは道標みちしるべに手を当てた。石は乾いていた。さっきまで水にかっていたとは思えないほど、表面はかわいている。

「次のしおはいつ来るの」

「分からない。だが来る。名前の通り道は消せても、しお周期しゅうきは消せない。水は必ず戻る。……観測者かんそくしゃが上書きしても、洗い出す側のことわりまでは止められないということだ」

久遠くおん目録もくろくを胸に抱えた。

あさひが十字路の先を見た。四つの道がきりの中に伸びている。水上の道標みちしるべうそを言い、水中の道標みちしるべは真を言う。だが今は水がない。

「どっちに行く」

あさひが訊いた。

久遠くおん目録もくろくを見た。写し取ったばかりの水中の座標ざひょうを指でなぞる。

「北だ。忘却井ぼうきゃくいは危険だが、その手前に名前の合流点ごうりゅうてんがある。地下を通っている七柱ななはしらが向かっている先も、おそらくそこだ。捕まっているなら、なおさら急ぐ」

こよいは道標みちしるべを振り返った。

乾いた石の表面に、指の跡が一つだけ残っていた。自分がさっき触れた場所。その指の跡が、水のように薄く光っている。

触れた者の記憶が、石に移ったのだ。この道標は、道を教えるだけではなく、通った者を覚えていく。

次のしおが来れば、この指の跡も水中の文字になるのかもしれなかった。

三人は北の道を選んだ。目録もくろくに写し取った水中の座標ざひょうだけが、今の手がかりだった。

背後で、道標みちしるべきりに沈んでいく。乾いた石の上で、指の跡だけが、まだほんのりと光っていた。きりの中に溶けていく道標みちしるべを、こよいはもう見えなくなるまで見送った。四つの道を、水だけが覚えている。

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