第339話 濡れた文字
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第339話 濡れた文字

第11章 海図の響き

石浜(いしはま)の名前たちを波紋池(はもんいけ)へ送り届ける作業は、日暮れまで続いた。夜は浜の小屋で過ごし、翌朝、水と食料を求めて岬(みさき)の向こうの小さな港町へ入った。

雨は降っていなかった。

それなのに、石壁(いしべき)が濡れていた。

海風が運ぶ飛沫(ひまつ)でもない。波打ち際からは離れた場所だった。港町の路地裏、積み上げられた石の擁壁(ようへき)。その表面に、じわりと水気が浮いている。

こよいは足を止めた。

壁の表面に、何かが浮かんでいる。水の膜(まく)の下に、文字があった。

「……久遠(くおん)くん、見て」

久遠(くおん)が振り向いた。足元の石畳(いしだたみ)に薄く水が張り、その水面に蒼い光が映っている。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が壁面を舐(な)めるように走る。

「名前だ」

濡れた石の上に、薄い墨(すみ)の文字が滲(にじ)み出ていた。一文字、二文字。筆の運びが残っている。誰かが、この壁に名前を書いたのだ。

だが乾いた石の表面には何も見えない。水気を帯びたときだけ、文字が浮かぶ。

「表面を消されたんだ。観測者(かんそくしゃ)が墨(すみ)を削り取った。でも石が深いから、墨(すみ)が奥に沈んでいた。水が染みると、奥の墨(すみ)が浮いてくる」

久遠(くおん)が壁に手を当てた。指先が蒼く光り、石の断面を透かすように見ている。

「……三層目まで沈んでる。相当古い。消されてから、かなりの時間が経っている」

こよいは指先を壁に当てた。冷たかった。水の冷たさではなく、忘れられた時間の冷たさだった。

指の腹で文字をなぞる。石の肌理(きめ)が細かく、水の膜(まく)の下で文字の溝がわずかに指先を引っかける。

一画目。横の線。二画目。縦に下りて、右へ跳ねる。

名前の一部だった。崩れかけた字形の中に、確かに誰かの名が息をしている。

「……読める」

こよいは顔を上げた。約束は、覚えている。まず、相談。

「あさひ。壁の中の名前だよ。すごく弱ってる。……『戻れ』で、飛べると思う?」

あさひが壁に近づき、濡れた文字を見た。それから、低い声で試した。「戻れ」。文字は、震えもしなかった。命令の声は、立ち上がる力のある者にしか届かない。

「駄目だな。……お前の番だ。読め」

頷いて、こよいは声に出した。

「みなと」

声が石壁(いしべき)に触れた瞬間、水気が震えた。文字が一段くっきりと浮き上がり、それから静かに沈んでいく。呼ばれたことで、名前が一瞬だけ目を覚ましたのだ。

あさひが路地(ろじ)の入口で背を向けたまま言った。

「他にもあるぞ」

擁壁(ようへき)の続きを見た。十歩、二十歩。石壁(いしべき)が続く限り、濡れた箇所が点々と並んでいた。それぞれの濡れた場所に、異なる文字が浮かんでいる。

こよいは歩きながら、一つずつ指でなぞった。

「しずえ」

「かなた」

「あおば」

声に出すたびに、文字が震える。そして少しずつ薄くなっていく。  浜の石の名前は、水に運ばれて自然に堆積(たいせき)したものだった。まだ力があり、「ここにいるよ」と示すだけで自分から動けた。だがこの壁の名前は違う。削られて、三層目まで沈められた——消される側だった名前だ。弱り切っていて、示すだけでは浮かべない。「おいで」と、迎えの声で引き上げるしかない。  そして迎えの声は、呼ぶ者を削る。

喉(のど)の奥がひりついた。三つの名前を呼んだとき、声が掠(かす)れた。

「……こよい、止まれ」

久遠(くおん)が肩を掴(つか)んだ。

「声が薄くなってる。一度に呼びすぎるな」

こよいは自分の手を見た。指先が白い。血の気が引いているのではなく、色そのものが薄くなっている。爪の根元から指の腹にかけて、肌の色が水彩(すいさい)を薄めたように淡い。名前を呼ぶたびに、自分の輪郭(りんかく)がほんの少しずつ曖昧(あいまい)になっていた。

「……大丈夫。まだ読める」

「大丈夫じゃないから止めろと言っている」

久遠(くおん)の声は冷たかったが、掴んだ手には力がこもっていた。

あさひが壁の前に立った。

「俺が読む。お前は休め」

こよいが首を振りかけたとき、あさひはもう壁に指を当てていた。武骨な指先が、意外なほど丁寧に文字をなぞる。

「……こいつは、なんて読む」

「『つむぎ』」

「つむぎ」

あさひの声は太く、低い。壁を叩くように響いた。声の振動が石の表面を伝い、周囲の濡れた箇所にまで波紋(はもん)のように広がった。文字が大きく震え、石壁(いしべき)から水滴が一粒落ちた。落ちた水滴の中に、光の糸が一本混じっていた。

名前が、地上に降りたのだ。

久遠(くおん)が目録(もくろく)を開き、降りた名前を記録した。義眼(ぎがん)が忙しく動いている。

「呼び方で降り方が変わる。こよいの声だと、名前は静かに目を覚ます。あさひの声だと、叩き起こされる。どちらがいいかは名前による」

こよいは壁にもたれた。指先の色が、少しずつ戻ってくる。巾着(きんちゃく)の中で神々が温かく脈打ち、失った色を補うように熱を送ってくれていた。

おたまが、壁の高い場所の乾いた石を、前脚でしきりに叩いていた。何もない場所に見えた。だが久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を向けると、そこにも沈んだ文字があった。水気の届かない高さで、浮かぶことさえできずにいた名前。久遠(くおん)が水筒の水を布に含ませ、石を湿らせると、文字がゆっくりと浮かんだ。

路地(ろじ)の奥に、まだ濡れた壁が続いている。

数えきれないほどの名前が、石の奥で水気を待っている。消されたのに消えきれず、雨が来るたびに、海風が吹くたびに、ほんの一瞬だけ顔を見せる。

こよいは立ち上がった。膝の裏が冷えていたが、巾着(きんちゃく)が胸元で温かく、その熱が背筋を通って足先まで届いた。

「全部は無理でも、見えたものだけは呼ぶ」

「だったら交代で行く。一人で全部背負うな」

あさひが隣に立った。久遠(くおん)は目録(もくろく)を構え、記録の準備を整えた。

三人は壁に沿って歩き始めた。

濡れた文字を一つ読み、声が掠(かす)れたら交代する。呼ばれた名前は石から滴(したた)り落ち、地面に染みて、地下へと沈んでいく。井戸(いど)を探して。

壁の端まで来たとき、こよいの指先は冷え切っていた。だが巾着(きんちゃく)の鼓動(こどう)は温かく、その温もりが、次の壁へ向かう足を支えていた。

路地(ろじ)を出ると、空が白んでいた。東の稜線(りょうせん)から朝の光が滲(にじ)み出し、石壁(いしべき)の水気が淡く輝いている。

濡れた石壁(いしべき)の向こうで、海鳴りが低く響いていた。

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