第323話 海図の影
323

第323話 海図の影

第11章 海図の響き

久遠(くおん)が床に目録(もくろく)を置いた。

見開きの頁(ページ)を下にして、紙面を床板(ゆかいた)に密着させる。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)を強め、頁(ページ)の裏側から光を通した。

目録(もくろく)が、行灯(あんどん)のように光った。

頁(ページ)に写し取られた海図(かいず)の線が、床の上に投影(とうえい)される。三本の線。北と、西と、下。曲がった線が、床板(ゆかいた)の木目の上に蒼く浮かび上がった。

「何してるんだ」

あさひが覗き込んだ。

「投影(とうえい)だ。目録(もくろく)に写した海図(かいず)を拡大して見る。義眼(ぎがん)の光を使えば、紙に描かれた情報を表面に引き出せる」

蒼い線が床の上を這(は)っている。曲がりの角度が、紙の上で見るよりもずっとはっきり分かった。観測者(かんそくしゃ)の灰色の誘導線(ゆうどうせん)も見える。本来の道に絡みつくように、細い灰の糸が三本の線を締めつけている。

「分かりやすい」

こよいが床に膝をついた。蒼い線の上に掌(てのひら)を置くと、光が指の間を通り抜けた。温度はない。ただの光だ。

最初に気づいたのは、おたまだった。投影された蒼い線には見向きもせず、猫はその少し横の床を、じっと見つめている。視線の先を追って、こよいは別のものを見た。

「影(かげ)がある」

こよいが声を上げた。

床に投影(とうえい)された海図(かいず)の線が、もうひとつの影(かげ)を落としていた。蒼い光で描かれた線の真下に、暗い影(かげ)の線がある。光の線とは微妙に形が違う。

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を細めた。

「影(かげ)?」

「床の、もっと下。線の影(かげ)が、線とずれてる」

久遠(くおん)は目録(もくろく)を少し持ち上げた。光の角度が変わると、影(かげ)の線がくっきりと浮かび上がる。

蒼い光の海図(かいず)と、その影(かげ)の海図(かいず)。二つが重なって、床の上に映し出されていた。

影(かげ)の海図(かいず)は、曲がっていなかった。

三本の線が、まっすぐに伸びている。北へ、西へ、下へ。観測者(かんそくしゃ)の灰色の誘導線(ゆうどうせん)もない。純粋に、名前が飛んでいくべき本来の道筋だけが、影(かげ)の中に残されていた。

「これは——」

久遠(くおん)の声が掠(かす)れた。

「元の海図(かいず)だ。観測者(かんそくしゃ)が書き換える前の、本物の地図が影(かげ)として残っている」

あさひが床に顔を近づけた。影(かげ)の線を目で追う。

「こっちの線はまっすぐだ。曲がってない。じゃあ、名前が本当に帰るべき場所は——」

「影(かげ)のほうが正しい」

久遠(くおん)が断言した。

「海図(かいず)の線は名前の意志で引かれる。観測者(かんそくしゃ)はその意志を歪(ゆが)めて線を曲げた。だが、線が最初に引かれたときの痕跡(こんせき)は消せなかった。光は書き換えられても、影(かげ)は元の形を覚えている」

こよいは影(かげ)の線に指を沿わせた。床板(ゆかいた)の上を、指先が北に向かって滑っていく。まっすぐな線。曲がりのない道。

「この線の先に、井戸(いど)があるの」

「受け皿だ。名前が着地する場所。影(かげ)の線を辿(たど)れば、本来の受け皿の位置が分かる」

久遠(くおん)は懐から鉛筆を取り出し、目録(もくろく)の余白に影(かげ)の線を写し始めた。蒼光(そうこう)の海図(かいず)と影(かげ)の海図(かいず)を見比べながら、元の道筋を記録していく。

「北の線は星野(ほしの)に向かっている。やはり星野(ほしの)だ。観測者(かんそくしゃ)が東に曲げようとしていたが、本来の行き先は星野(ほしの)で間違いない」

「西は」

「西の線は……波里(なみざと)だ。海沿いの古い港町。ここにも受け皿がある」

「下は」

久遠(くおん)の鉛筆が止まった。

影(かげ)の線の三本目を見ている。下に潜(もぐ)っていく線は、影(かげ)の中でもやはり下に向かっていた。だが、その先に記された地名が義眼(ぎがん)の光では読み取れなかった。

「……深すぎる。影(かげ)の情報量にも限界がある。三本目の行き先は、もっと近づかないと分からない」

あさひが立ち上がった。

「二つ分かれば上出来だろう。星野(ほしの)と波里(なみざと)。まず星野(ほしの)に行く。そこで名前を呼ぶ。それから波里(なみざと)に回る」

「順番は星野(ほしの)が先だ」

久遠(くおん)が頷いた。

「写本(しゃほん)の中で、星野(ほしの)方面の名前が最も多い。三十七柱(さんじゅうななはしら)のうち、二十以上が北の線の上にいる。雨の神の兄もそこだ」

こよいは巾着(きんちゃく)を見た。布の中で、神々が静かに脈打っている。五十一の命が、曲がった道の上を今も飛んでいる。そして束の間に挟んだ濡れた切符——あの半分の名前の主も、どこかで、まっすぐな道を失っているのかもしれなかった。

「影(かげ)の地図があれば、本当の道を教えられる」

こよいは呟いた。

「呼ぶときに、この地図を使えばいい。曲がった道じゃなくて、まっすぐな道のほうに向かって呼べば、名前は正しい方角から帰ってこられる」

久遠(くおん)が鉛筆を止め、こよいを見た。

義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が、柔らかくなっていた。

「そうだ。声は方角を持つ。呼ぶ者が正しい方角を向いていれば、名前は迷わずに降りてこられる。影(かげ)の地図は、そのための羅針盤(らしんばん)になる」

猫の目に灰色の誘導線(ゆうどうせん)が映らなかった理由も、これで分かった気がした。おたまは最初から、影(かげ)の側——本当の地図の側だけを、見ていたのだ。

目録(もくろく)を床から持ち上げると、影(かげ)の海図(かいず)は消えた。

だが久遠(くおん)の鉛筆が写し取った線は、頁(ページ)の余白に確かに残っている。三本のまっすぐな線。観測者(かんそくしゃ)に歪(ゆが)められる前の、名前たちの本当の帰り道。

列車が長い汽笛(きてき)を鳴らした。

霧(きり)の向こうから、停車場(ていしゃじょう)の灯(ひ)が近づいてくる。

こよいは写本(しゃほん)の束と巾着(きんちゃく)を抱え、静かに立ち上がった。影(かげ)の地図を胸に、次の停車場(ていしゃじょう)へ向かう準備をする。

窓の外で、金色の光が一筋、北の空を横切っていった。

まっすぐに。

曲がらずに。

お読みいただきありがとうございます

4つの小説投稿サイトでお読みいただけます