第324話 声を待つ名
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第324話 声を待つ名

第11章 海図の響き

列車の中で、こよいは写本しゃほんを広げていた。  経蔵きょうぞうから持ち出した三十七柱さんじゅうななはしら分の名前の束。  それに、市場いちばで拾った十四柱じゅうよんはしら分の断片だんぺん。  合わせて五十一。

こよいのひざの上に、五十一の名前が並んでいる。巾着きんちゃくが脈打った。  写本しゃほんの七枚目——雨の神の兄の名前が記されたページに反応している。  あのページだけ、紙が温かい。触れると、指先に微かな振動が伝わる。紙の繊維せんいの中で名前が震えている。兄の名前が、妹の気配を感じ取っているのだ。

「もうすぐ星野ほしのだ」

久遠くおんが窓の外を見た。

きりが薄くなっている。灰色の層に隙間が生まれ、その向こうに暗い空の色がのぞいている。星は見えない。だが、きりが退き始めているということは、記録の密度が変わっているということだ。星野ほしのの領域が近い証拠だった。

写本しゃほんを持って星野ほしのに入る。前に写本しゃほんを地面に置いたとき、光ったな。あの場所にもう一度置く」

「置くだけで名前は戻るの」

こよいが訊いた。

久遠くおん目録もくろくを開いた。  海図かいずの港で写し取った線が、ページの上で脈打っている。線のはしが微かに揺れ、星野ほしのの方角を指し示すように曲がっていた。

「戻らない。写本しゃほんだけでは足りない。写本しゃほんは名前の記録であって、名前そのものじゃない。名前そのものは——」

久遠くおんが窓を指した。

きりの中を、金色の光の糸が横切っていく。一本、二本。細い糸がきりの裂け目を縫うように走り、列車の進行方向と同じ方角へ流れていた。

「あれだ。すみ井戸いどで満たし直された名前の実体が、写本しゃほんページいかりにして、今、元いた場所に向かって世界を渡っている。写本しゃほんは受け皿だ。名前が戻ってきたとき、着地ちゃくちする場所を作ってやるんだ」

あさひが足を組み替えた。座席の木がきしむ。

「つまり、写本しゃほんを置いて、名前が飛んでくるのを待てばいいのか」

「待つだけでは足りない」

久遠くおん目録もくろくページを指した。

文字が浮かんでいる。

最初の神の筆跡ひっせきだった。崩れかけた書体で、紙の繊維せんいに深くすみが染みている。何度も書き直した跡がある。言葉を選び、書いては消し、また書いた。最初の神もまた、この問いの答えを探していたのだ。

「『名前は、呼ぶ者がいなければ着地ちゃくちできない。氷の中で座標ざひょうを忘れた名前は、声を頼りに帰ってくる。声なき場所には、降りられない』」

こよいは巾着きんちゃくを見た。

雨の神が脈打っている。兄の名前が近づいていることを感じ取って、いつもより速い拍動を打っている。布越しに、温もりが手のひらにあふれてくる。

「呼ぶ」

こよいが短く言う。

「ぼくが呼ぶ。写本しゃほんに書いてある名前を、一柱ひとはしらずつ」

久遠くおんがこよいを見た。

義眼ぎがん蒼光そうこうが揺れた。蒼い光の中に、警告と、それを押し殺そうとする理解が混じっている。

「危険だ。名前を呼ぶということは、自分の存在をその名前に差し出すということだ。灯の絶えた一帯で三つ呼んだだけで、お前の声は潰れかけた。五十一柱分の名前を呼べば、お前の存在が——」

「薄くなる。分かってる」

こよいの声は震えていなかった。怖くないわけではない。怖い。けれど、怖さよりも先に、写本しゃほんの紙の温もりが指先にあった。名前たちがここにいる。声を待っている。

「でも、呼ばなきゃ降りてこれないんでしょ。この子たちは」

巾着きんちゃくが温かくなった。

雨の神の兄のページが、一際強く光った。紙のはしが金色に縁取られ、文字の輪郭りんかくが浮き上がっている。名前が紙の中から手を伸ばしているように見えた。

おたまが、広げられた五十一枚の写本しゃほんの真ん中へ、音もなく上がり込んだ。紙を一枚も踏まずに、隙間だけを選んで座る。それから、雨の神の兄のページに向かって、長い一声で鳴いた。もうすぐだよ、と言ったように聞こえた。

あさひが黙っていた。  窓の外を見ていた。金色の糸が増えている。三本、四本。列車を追いかけるように、きりの中を並走している。

しばらくして、口を開いた。

「おい。俺も呼ぶぜ。字は読めねえが、声は出る」

久遠くおんが眉を上げた。あさひは窓の外から目を離さずに続けた。

「一人で五十一背負うのと、三人で割るのとじゃ、話が違うだろ。存在が薄くなるってんなら、薄くなる奴を増やせばいい。単純な話だ」

列車が減速した。

きりが割れ、星野ほしの停車場ていしゃじょうが見えた。弱い光だったが、きりの中で確かに揺れている。列車が近づくにつれて、の色が金色を帯びた。停車場ていしゃじょうの周囲に、金色の光の糸が集まり始めている。名前たちが、ここに集まってきているのだ。

三人は写本しゃほんを抱えて立ち上がった。座席の木がきしみ、三人分の重みから解放された車両が微かに揺れた。

窓の外で、金色の糸がきりを縫うように揺れている。糸の数は、列車が減速するにつれてさらに増えていた。  名前たちが、声を待っていた。

こよいは巾着きんちゃくを胸に押し当てた。  温かさが、鼓動こどうと同じ速さで脈打っている。四柱の神々も、これから始まることを知っているのだ。呼ばれて、帰ってくる。自分たちがこよいのもとへ来たときと、同じ道筋を、五十一の名前が辿ろうとしている。

窓硝子まどがらすが冷気で曇り始めた。曇りのまくに蒼白い光が滲んでいる。停車場ていしゃじょうが近づくにつれ、車内の空気が冷えていく。  けれど三人の足元だけは、写本しゃほんが放つ淡い光に照らされていた。降りる準備は、もう、紙の側から始まっている。

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