灯台の光が消えた後、港は静かだった。 影の軍勢が散り、石畳の蒼い光も薄れている。 あさひの剣に付いた影の残滓が最後の一筋まで蒸発し、夜気に溶けた。あさひは千切れた革紐の代わりに、予備の紐で剣を包み直した。結び目を締める手つきに、戦いの後の呼吸の整え方が滲んでいた。 港の最奥に、井戸があった。石の井戸だったが、経蔵のインク《いんく》の井戸とは形が違う。 縁が高く、大人の腰ほどある。
縁の内側に、螺旋状の溝が刻まれていた。 溝の中を、何かが流れた跡がある。 水ではない。もっと粘り気のある、墨のような——。
「海図の原版だ」
久遠が井戸の縁に手をかけ、中を覗き込んだ。石の縁は手のひらに吸いつくほど滑らかで、無数の手がここに触れた歴史を物語っていた。 義眼の蒼光が井戸の底に届く。底に水はなかった。 代わりに、石の板が何枚も重なっている。
板の表面に、線が刻まれていた。 線は複雑に交差し、分岐し、合流している。
「この線は——道だ。名前が運ばれた道。経蔵から各地の凍結場所へ、名前がどう移動したかの記録」
こよいは井戸の縁に背伸びをして、中を見た。石の冷気が顎の下を撫でる。 暗い。
久遠の蒼光だけが底を照らしている。 石板の線が、光を受けて微かに動いた。 動いているのではない。
線の上を、小さな光の粒が移動している。 蟻のように。
「まだ動いてる」
こよいが息と一緒に言った。
「ああ。この海図は今も更新され続けている。名前が移動するたびに、道が書き換わる。経蔵が崩れても、この記録は生きている」
久遠が目録を井戸の縁に載せた。 目録の金色の筋が、井戸の石板の線に反応した。 筋が線をなぞり、目録の白紙の頁に海図を写し取っていく。
「全部は無理だ。線が多すぎる」
久遠が舌打ちした。
目録が写し取れるのは、光の粒が今まさに動いている線だけだった。
「今動いている線だけでいい」
こよいが言った。
「動いてるってことは、その先にまだ名前がいるってことでしょ」
久遠がこよいを見た。
一瞬、表情が緩んだ。
すぐに戻したが、こよいは見逃さなかった。
「……そうだ。その通りだ」
目録が線を写し取る間、あさひは井戸の周囲を歩いていた。
「おい。ここ、足跡がある」
井戸の裏側の石畳に、大きな足跡が残っていた。 砂が薄く積もった石の上に、くっきりと。
「最初の神か」
素足の跡だった。影の中心の残像で見た、あの運び手の裸足。北へ向かう歩幅は大きく、乱れがない。急いでいる。けれど、迷ってはいない。
久遠が義眼で足跡を見た。
「古い。だが、消えていない。この港にも来ていたということだ。海図を使って、名前の行き先を確認していた」
足跡は井戸の縁で止まり、港の外に向かって続いていた。 北。
星野の方角だった。 巾着が温かくなった。 足跡の方を向いて、静かに脈打っている。 この道を辿れば、最初の神が名前を隠した場所が分かる。 目録の頁に、海図の線が浮かび上がった。
三本の線が太く光っている。 今まさに、名前が移動している道。 一本は北。
一本は西。
一本は——下。
「下?」
こよいが首を傾げた。
「地下だ。名前の一部は、この世界の表面ではなく、地下を通って移動している」
港の向こうで、理の階段の灯が明滅した。 空気が変わり始めている。
長居はできない。
久遠は目録を閉じ、海図の線を記憶に刻んだ。 三人は井戸を離れ、港の奥へ歩いた。足跡は、潮風に削られながらも、まだ石の上に残っていた。
港の裏手の引き込み線に、霧列車が待っていた。影の軍勢の去った港に、長居する理由はない。北へ——足跡の主を追って。三人と一匹は乗り込んだ。 紙とインク《いんく》の匂いが、列車の車内に入った途端に濃くなった。
座席の背もたれに、白い布が掛けてあった。 布の表面に、薄い線が浮かんでいる。井戸の底で見た海図の線と同じ形だった。
久遠が布を持ち上げた。白い繊維の隙間から、かすかに甘い墨の匂いが立ち昇った。布は軽いのに、線のある部分だけがわずかに重い。
「名前が通った跡だ。この布は、名前の移動経路を写し取る仕掛けになっている」
こよいが指先で線をなぞった。温かい。名前が通った熱が、まだ布に残っている。 線は途中で途切れ、また別の場所から始まっている。地下に潜り、また浮かび上がった証拠だった。
あさひが窓の外を見た。列車は動いていないが、窓の向こうの景色がゆっくりと流れている。
「……景色の方が動いてやがる」
窓枠の向こうで、港の石畳が後方へ滑り、灯台の影が横に流れていく。列車は一寸も揺れていない。
久遠が白布を目録の上に重ねた。二つの線が重なり、欠けていた部分が補完される。 海図が、少しだけ完成に近づいた。欠けた線を埋めるたび、この世界の名前たちの旅路が、形を持って見えてくる。
おたまが、白布の掛かった座席の隣で丸くなった。布の線が浮かぶたび、猫の髭がぴくりと動く。名前たちの移動を、布と猫が、別々のやり方で聴いていた。
車内の空気が冷たく澄んでいく。白布の線が最後にひとつ、微かに光った。 それは北へ向かう線だった。三人の行く先を、布が静かに指し示していた。動いている線の先には、まだ名前がいる。動いているうちは、間に合う。
