第312話 指定席の謎
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第312話 指定席の謎

第10章 波の端

墨の井戸を後にした三人を、北行きの霧列車が待っていた。乗り込んで、しばらくして——こよいは、気づいた。

座席には名前があった。

こよいが最初に気づいたのは、肘掛けの内側だった。座って、腕を置いて、ふと視線を落としたときに見えた。木の肘掛けの側面に、小さな文字が彫り込まれていた。

古い文字だった。経蔵の石柱に刻まれていたのと同じ書体。風化はしていなかった。木目の中に溶け込むように、丁寧に彫られている。彫った者の指先が見えるようだった。一画ずつ、木の繊維を裂(さ)かないように、ゆっくりと。

「……名前?」

こよいは指でなぞった。三文字。読めなかった。古すぎる。だが文字であることは間違いなかった。指先の下で、彫りの溝が微かな引っ掛かりを返してくる。何百年も前に誰かが残した窪(くぼ)みが、まだ指先に形を伝えている。

巾着(きんちゃく)が温かくなった。指先が文字に触れたままの手と、腰に結んだ巾着(きんちゃく)の間を、細い熱の筋が繋いでいた。神々が応えている。この名前を知っている。

「あさひさんも」

こよいは隣を見た。あさひは通路側の席に座っていた。肘掛(ひじか)けを確認している。

彫りがあった。あさひの席にも。別の名前。四文字。こちらも古い書体で、読むことはできなかった。

「知らねえ名前だ」

あさひは指で彫りをなぞった。爪が溝に引っかかる深さ。刃物ではなく、硬い何かの先端で彫ったような跡だった。

久遠(くおん)は向かい合わせの席に座っていた。

目録(もくろく)を膝(ひざ)に置いたまま、自分の肘掛(ひじか)けを見下ろしていた。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が肘掛(ひじか)けの木目を照らす。光が木の表面を舐(な)めるように動き、やがて止まった。

久遠(くおん)の表情が変わった。

「ない」

「何が」

「名前がない。俺の席だけ、空白だ」

こよいは身を乗り出して久遠(くおん)の肘掛(ひじか)けを見た。確かに何も彫られていなかった。木目だけが走っている。滑らかで、傷もない。他の二席には名前が刻まれているのに、久遠(くおん)の席だけが無銘(むめい)だった。まるで木が生まれたままの姿で、誰の手にも触れられていないように。  そしてその無銘の席の背もたれの上で、おたまが丸くなっていた。名前を彫られたことのない席と、ほんとうの名前を誰も知らない猫。似合いの取り合わせのようにも、見えた。

久遠(くおん)は義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)を強め、肘掛(ひじか)けの木を透かすように照らした。表面だけでなく、木の内側まで光が届いている。だが何も浮かばなかった。

「彫った痕跡(こんせき)もない。削り直した形跡もない。最初から、何も刻まれていない」

こよいは立ち上がった。

通路を挟んだ向かいの席を覗(のぞ)いた。肘掛(ひじか)けの内側に、名前があった。二文字。こよいは次の席も見た。また名前があった。五文字。その次も。その次も。

こよいは通路を歩き始めた。

一列ずつ確かめていく。窓側の席、通路側の席。全ての肘掛(ひじか)けに名前が彫られていた。ひとつとして同じ名前はなかった。書体は古く、すべて読めなかったが、一文字のものから七文字のものまで、長さも形も様々だった。中には、彫りの溝に木の樹脂(じゅし)が染み出して琥珀色(こはくいろ)に固まっているものもあった。名前を刻まれた木が、傷口を癒(いや)すように、長い年月をかけて自分の樹液で溝を埋めていたのだ。

車両の端まで歩いた。二十四席。全てに名前があった。

次の車両への扉を開けた。連結部(れんけつぶ)の金属板を踏んで渡る。二両目の席にも、名前があった。こよいは三席だけ確認して、戻った。

「全部の席にある」

息が少し乱れていた。

「この列車の全部の席に、名前が彫ってある」

久遠(くおん)は自分の空白の肘掛(ひじか)けに掌(てのひら)を置いたまま、動かなかった。

「これは——かつてこの席に座った者の名前だ」

義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が揺らいでいた。分析ではなく、感情の揺らぎだった。

「凍結(とうけつ)の前、神々がまだ自由にこの世界を行き来していた頃。この列車に乗って、どこかへ向かった神たちの名前だ。座席が、乗客を覚えている」

あさひは肘掛(ひじか)けの彫りを親指でなぞりながら、窓の外を見ていた。霧(きり)が流れている。列車は走り続けていた。車輪がレールを叩く律動(りつどう)が、床板から靴底を通じて身体に伝わってくる。

「墓標(ぼひょう)か」

あさひの声は硬くなかった。ただ確認しただけだった。

「墓標(ぼひょう)ではない。記録だ」

久遠(くおん)が答えた。

「墓標(ぼひょう)は死者のためにある。これは——ここにいたことの証(あかし)だ。この席に座って、窓の外を眺めて、どこかへ行こうとした。その事実だけが、木の中に残っている」

こよいは自分の席に戻った。肘掛(ひじか)けの名前に、もう一度指を触れた。巾着(きんちゃく)が応えるように温かくなった。神々がこの名前を知っている。この席に座った神を、覚えている。

「この人は……」

こよいの声は小さかった。

「ここに座って、どこに行きたかったんだろう」

列車が揺れた。窓の外の霧(きり)が一瞬だけ薄くなった。その隙間(すきま)から、何かが見えた。

石段(いしだん)だった。

霧(きり)の中に、石の階段が上へ向かって伸びていた。幅は広く、段の一つひとつが苔(こけ)に覆われている。どこまで続いているのか分からなかった。十段ほど見えたところで、また霧(きり)に呑(の)まれて消えた。

「見えたか」

あさひが窓に寄った。

こよいも窓に額(ひたい)を寄せた。もう見えなかった。霧(きり)が戻っている。けれど確かに見えた。石段(いしだん)。上へ向かう道。窓硝子(まどがらす)に額を押し当てると、硝子(ガラス)の冷たさの中に、外の湿った空気の重さが伝わってきた。

久遠(くおん)は窓を見なかった。代わりに、空白の肘掛(ひじか)けに手を置いたまま、目を閉じていた。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)だけが、薄い瞼(まぶた)の下で静かに脈打っている。

「俺の席に名前がないのは、まだ誰も座っていないからだ」

目を閉じたまま、久遠(くおん)が言った。

「この席は、これから座る者のために空けてある」

汽笛(きてき)が鳴った。

長く、低く。列車の速度が落ち始めていた。窓の外の霧(きり)の流れが遅くなっていく。

こよいは肘掛(ひじか)けの名前に掌(てのひら)を重ねた。木の温もりと、彫りの凹凸(おうとつ)と、神々の熱が混ざり合って、こよいの手の中でひとつになった。

「着くよ」

こよいは立ち上がった。巾着(きんちゃく)を握った。四枚目の切符(きっぷ)——帰りの分が、紐(ひも)に挟んだ場所で微かに揺れた。

あさひが剣を肩に担ぎ直した。窓の外を一瞥(いちべつ)し、霧(きり)の向こうに消えた石段(いしだん)の方角を身体で覚えた。

久遠(くおん)は空白の肘掛(ひじか)けから手を離し、目録(もくろく)を懐にしまった。立ち上がる直前、肘掛(ひじか)けの表面を指先でひと撫(な)でした。いつか誰かの名前が刻まれるその場所を、確かめるように。

列車が止まった。

扉が開く音がした。霧(きり)が車内に流れ込んできた。冷たくはなかった。湿っていた。石と苔(こけ)の匂いがした。

三人は立ち上がり、扉に向かった。

こよいは最後に一度だけ振り返った。自分が座っていた席の肘掛(ひじか)けに彫られた、読めない名前。その神がかつて座り、窓の外を眺め、どこかへ向かおうとした席。

今はこよいが座った席。

名前のない切符(きっぷ)を持って、名前のある席に座って、名前を探しに行く旅。

列車が完全に止まり、扉が開いた。湿った風と、石と苔(こけ)の匂い。三人と一匹は、終点のホームに降り立った。  汽笛が一声、別れのように鳴った。振り返ると、霧列車(きりれっしゃ)はもう、霧に溶けかけていた。

「列車はまた来る」

久遠(くおん)が静かに言った。

「名前を運ぶ限り、線路は消えない」

霧(きり)の向こうに、石段(いしだん)が待っていた。

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