第311話 墨の井戸
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第311話 墨の井戸

第10章 波の端

崩れた経蔵きょうぞうは、外から見ると巨大な墓標のようだった。

象牙色の外壁は方々で裂け、上部は内側へ折れ込んでいる。それでも、壁は立っていた。半分崩れてなお、囲うことをやめていない。  列車は経蔵きょうぞうきわで三人を降ろし、来た方角へ静かに退がっていった。

「入口は」

「あの裂け目が、まだ生きているはずだ」

東側の裂け目は、崩落を免れていた。最初の神が何十年もかけて押し広げた隙間は、経蔵きょうぞう自身の崩壊よりも頑固だった。三人は身体を横にして、粉の積もった通路を降りていく。手形の列は、ほこりを被ってなお、そこにあった。

二重壁の通路を抜け、崩れた大空間の縁を回り込む。天井が落ち、壁の名前の多くが瓦礫がれきに埋もれていた。それでも、床の脈動は続いている。弱く、遅く、だが確かに。建物は死んでいない。  瓦礫の間を縫う道は、おたまが選んだ。崩れやすい石と、まだ保つ石。猫は迷わず踏み分け、三人はその跡を辿った。壊れた書庫の底で、通れる道は一本しかなく、その一本を、猫だけが知っていた。  途中、こよいは一度だけ足を止めた。瓦礫の下から、消し残された名前の断片が覗いていた。持ち上げられる石ではなかった。こよいは石の上に手のひらを置き、胸の中で一度だけ、ごめんね、と言った。全部は救えない。あの日のあさひの言葉が、瓦礫の冷たさと一緒に、掌から染みてきた。

かつて牙をいた防御は、もう起きなかった。異物を排除する力さえ、崩れた書庫には残っていないのだ。

中心部は、無事だった。

原本げんぽんの間——紙を固めた床の巨大な空間は、周囲の崩壊から切り離されたように静まり、中央にあの白い光が浮かんでいる。  近づいて、こよいは初めて、光の正体を見た。

井戸だった。

紙の床の中央に、丸い縁が開いている。石でも木でもない。何万枚ものページを巻き重ねて固めた、紙の縁。その底に、黒々とした液体がたたえられていた。  墨だ。  深く、静かで、光を吸い込むほど黒い。なのにその黒の奥から、白い光がにじみ出している。書かれる前のすべての文字が、墨の中で光っているのだった。

「墨の井戸——」

久遠くおんの声がかすれた。

「原本は、書物じゃなかった。書かれた記録の集積でもない。……これから書かれるものの、源だ。この世界の名前は全部、元はこの井戸の墨で書かれた。ここが、名前の源泉げんせんだ」

井戸の縁に、筆が一本、置かれていた。  太く、古く、穂先が墨に濡れている。  ——乾いていない。

「最近だ」

あさひが筆を見下ろした。

「ここで、誰かが書いてた。俺たちが来る、少し前まで」

最初の神。崩れゆく経蔵きょうぞうの中心で、まだ書いていた。何を書いていたのかは、分からない。だが濡れた穂先が、八百年の作業がまだ終わっていないことを告げていた。

「こよい。写本しゃほんを」

こよいはうなずき、三十七枚の写本しゃほんを胸から出した。  石碑の丘では、光は灯っても、名前はよみがえらなかった。完全な復元には、原本との直接の接続が要る——それを確かめるために、ここまで戻ってきた。

一枚目を、井戸の縁にそっと置く。

墨の面が、揺れた。  黒い液面から細い糸が立ち昇り、写本しゃほんの文字を、下から静かになぞっていく。最初の神の筆跡の上を、源の墨が二度書きしていく。文字が満ちる。薄かった墨色が、書かれたばかりの黒に戻る。

紙の上で、名前が起き上がりかけた。

光の形をした二文字が、ページから半身を浮かせ、一度だけ三人を——正確には、こよいの腰の巾着きんちゃくを——振り返った。だが、井戸へ潜りはしなかった。名前は、満ちた墨色のまま、静かにページへ戻った。眠りに就くのではない。目を覚ましたまま、横になった。そんな戻り方だった。

「……帰らないの?」

「ここは源だ。家じゃない」

久遠くおんが静かに言った。

「墨は名前を書き直せる。だが、名前が生きる場所は、世界の側だ。井戸は写しを満たし直してくれた——消えかけていた文字が、書かれたばかりの濃さに戻っている。あとは、呼ぶ者と、降りる場所だ。この束は今、ただの写しじゃない。源と繋がった、生きた受け皿だ」

二枚目。三枚目。一枚ずつ、こよいは写本しゃほんを縁に置いた。そのたびに墨の糸が昇り、名前が満ち、ページが温かくなる。雨の神の兄の頁のときは、巾着きんちゃくが痛いほど脈打った。半身を起こした名前は、長いこと巾着きんちゃくの上に留まった。  「おまえはここにいろ。俺が先に行って、道を作っておくから」——最後の言葉と同じ形の、無言の一拍。それから、ページへ。

おたまは井戸の縁に前脚を掛け、満ちていく名前を、一柱ずつ見届けていた。猫の瞳の中で、白い光が三十七回、灯った。

最後の一枚が墨に触れたとき、井戸全体がひときわ明るく脈打った。  三十七柱。全部、満ちた。

こよいは、そこで手を止めなかった。  懐から、自分の帳面を出した。壁が消されていくあの通路で、久遠くおんの声を追いながら書き写した名前たち。あの人。みなめ。かざり。つきみ。震える手で写した、崩れた文字の列。

「これも……いいのかな」

「試せ」

久遠くおんが短く言った。

帳面を開いて、縁に置く。  墨の糸は、少しだけためらった。こよいのつたない文字の上で、糸の先が迷うように揺れる。それから——なぞり始めた。子どもの字の、震えた画の上を、源の墨が丁寧に辿っていく。整えるのではなく、震えたまま、なぞる。  名前たちが、満ちていった。十二、いや、それ以上。壁から消されたはずの名前たちが、こよいの帳面の上で生まれ直し、震えた文字のまま、濃く、確かになっていく。帳面もまた、生きた受け皿になった。

「……写した字が、下手でも」

「関係ない」

久遠くおんの声が、珍しく柔らかかった。

「誰かが書き留めた。それだけが要件だ。書き手の腕じゃない」

こよいの目から、涙がひとつ落ちた。井戸の縁の紙に染みて、墨の黒に、小さな輪を作った。

「完全な復元じゃない」

久遠くおんが静かに言った。

「元の土地に、元の姿で戻ったわけじゃない。だが、消滅の側から、源に繋がった側へ引き上げた。この紙の上でなら、名前は消えない。あとは、還す場所を見つけて、呼ぶだけだ。……八重やえの定理の、その先だ。溶ければ、また歩き出す。源に触れれば、また書かれ得る」

井戸の光が、ゆっくりと落ち着いていく。  こよいは、縁の筆をもう一度見た。乾いていない穂先。書きかけの仕事。この筆の主は、どこへ行ったのか。

「追いかけよう。北へ」

筆はそのままにした。持ち主が、戻ってくるかもしれないから。  三人と一匹は、崩れた経蔵きょうぞうを後にした。背中の奥で、墨の井戸の脈動が、旅の始まりの日のように、静かに続いていた。

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