第310話 霧の汽笛
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第310話 霧の汽笛

第10章 波の端

経蔵きょうぞうへの戻り道は、辺境のきわを掠める迂回線しかない——切符売りの老婆は、そう言って三人を送り出した。

汽笛きてきが鳴った。  細い音だった。これまでの霧列車きりれっしゃ汽笛きてきは腹の底まで響く低音だったが、今の音は高く、薄く、遠い場所から糸を引くように届いた。

こよいは座席に座ったまま、窓の外を見た。

きりが薄かった。

忘却ぼうきゃくの海のきりでも、経蔵きょうぞう周辺の灰色のきりでもない。水彩を一度だけ水に溶かしたような、淡い白が窓硝子まどがらすの外に広がっている。  そして、その白の向こうに影が見えた。

山だった。

こよいは窓にひたいを押し当てた。硝子ガラスの冷たさが肌にみたが、気にならなかった。山の稜線りょうせんきりの中に浮かんでいる。ぼんやりとした輪郭りんかくだが、確かに山だった。起伏があり、斜面があり、いただきがある。

久遠くおんくん、あれ——」

「見えている」

久遠くおん目録もくろくから顔を上げ、窓の外を見た。義眼ぎがん蒼光そうこうが細まった。

きりが薄くなっている」

久遠くおん義眼ぎがんの焦点を遠くに合わせた。蒼光そうこう窓硝子まどがらすを透過し、きりの向こうを捉えようとしている。

「山だけじゃない。谷がある。斜面に何かが生えている」

「生えている?」

こよいが久遠くおんの隣に移動し、同じ窓から外を見た。

木だった。

枯れていない、生きた木だった。葉がついている。遠すぎて色までは判別できないが、枝が風に揺れている。風がある。空気が動いている。  経蔵きょうぞうの周囲では、空気は常に静止していた。風というものが存在しなかった。それが今、木の枝を揺らしている。

あさひが通路の向こうから歩いてきた。

「外、見たか」

「見た。木が生えている」

こよいが振り向いた。

あさひは窓際に立ち、腕を組んで外を眺めた。

「……色がある」

あさひが低く言った。

こよいはもう一度窓の外を見た。あさひの言う通りだった。山の斜面に、色がある。灰でも白でもない色。緑に近い何か。距離のせいで正確には分からないが、経蔵きょうぞうの周辺にはなかった色だ。

ことわりの支配が及んでいない領域だ」

久遠くおん目録もくろくページをめくった。

凍結とうけつの力には限界がある。世界のすべてを凍結とうけつできたわけではない。辺境へんきょうには、凍結とうけつが届かなかった場所が残っている。ここはその境界きょうかい付近だ」

凍結とうけつが届いてないなら、漂白ひょうはくもされてないのか」

あさひが訊いた。

「おそらくは。観測者かんそくしゃの検知網も、凍結とうけつの範囲内でしか機能しない。この先に進めば、監視の外に出られる可能性がある」

汽笛きてきがもう一度鳴った。  さっきよりもさらに細い。列車が速度を落としている。

窓の外のきりがまた薄くなった。  山の輪郭りんかくがはっきりしてきた。稜線りょうせんが鋭く、岩肌が露出している。だがその岩肌の隙間すきまから草が生え、草の間に花が咲いていた。小さな、白い花だ。

こよいは目を細めた。

花だ。

いつ以来だろう。旅の途中で花を見たのは。神々の領域では、花はことわりの装飾としてしか存在しなかった。咲くべき場所に咲くべき形で配置された、意志のない花。だが今、窓の外に見える白い花は、風に揺れ、好き勝手な方向を向いて咲いている。

誰にも管理されていない花だった。

巾着きんちゃくが震えた。  神々が反応している。こよいは巾着きんちゃくに手を当てた。脈が速くなっている。恐怖の速さではなかった。何かを感じ取っている。外の世界の、凍結とうけつされていない空気を。

「神々が、何か感じてる」

こよいが巾着きんちゃくを見た。

久遠くおん義眼ぎがん巾着きんちゃくに向けた。蒼光そうこうが布を透過し、中の神々を照らした。

活性化かっせいかしている。凍結とうけつの影響下では抑制よくせいされていた反応が、ここでは解放されている。神々本来の力が戻りつつある」

「本来の力って?」

「分からない。だが、神々は、凍結とうけつが始まる前の世界を知っている。神々にはその記憶が刻まれているはずだ。凍結とうけつの外に出れば、その記憶がよみがえる可能性がある」

列車が大きく揺れた。

線路の状態が変わっている。経蔵きょうぞう付近の線路は滑らかだったが、ここでは枕木まくらぎの継ぎ目が車輪に響く。整備されていない線路だ。だが列車は止まらない。揺れながら、がたがたと音を立てながら、前へ進んでいる。

窓の外の景色が変わり続けていた。

きりが薄くなるたびに、新しいものが見える。谷の底を流れる水。がけに張り付くつた。空を横切る鳥の影。  鳥がいた。

「鳥だ」

こよいが声を上げた。

小さな、黒い鳥が列車の横を飛んでいた。窓硝子まどがらすに沿うように飛び、やがてきりの向こうへ消えた。

あさひが鼻を鳴らした。

「生き物がいるってことは、ここは死んでない」

「死んでいない、ではなく、凍結とうけつされていないと言え」

久遠くおんが訂正した。

「だが、意味するところは同じだ。ここにはことわりの管理外で生きているものがある。凍結とうけつ以前の世界が、ここにはまだ残っている」

汽笛きてきが三度目に鳴った。  今度の音は、最初の二回とは違っていた。細いのは同じだが、どこか明るい。列車自体が、この場所の空気に反応しているかのように。

こよいは窓から手を離し、座席に深く座り直した。  巾着きんちゃくひざの上に置いた。神々の脈が、列車の振動と重なって、手のひらに不思議な律動りつどうを伝えている。

怖くなかった。

経蔵きょうぞうで見た消えていく文字、漂白ひょうはくされる記録、観測者かんそくしゃの気配。あの恐怖はまだ胸の底にある。だが今、窓の外に広がっている景色は、恐怖とは別のものだった。  世界はまだ、全部が凍りついたわけではない。

こよいは目を閉じた。

列車の振動が身体を揺らしている。車輪が線路を叩く音が、規則的に響いている。その音の隙間に、風の音が混じっていた。窓硝子まどがらすの外をでていく、本物の風の音。

おたまは、窓のいちばん風の入る隙間に陣取って、鼻先を外へ向けていた。凍結の届かない土地の匂いを、猫は胸いっぱいに吸い込んでいる。

もう少し先に行けば、きりは晴れるのだろうか。  こよいにはそれが、確信ではなく、願いとして胸の中にあった。次の停車は、崩れた経蔵きょうぞうきわ。墨の井戸が、白い光の底で待っている。

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