第031話 軽くなった巾着
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第031話 軽くなった巾着

第1章 霧の序章

巾着きんちゃくが、軽くなっていた。ほこらの神がいなくなったから。でも、まだ温かい。水路すいろの神が、そこにいる。

こよいは、神のかみのざを後にした。  振り返ると、透明なほこらが朝日に輝いている。もう、声は聞こえない。

「……行こう」

こよいは、前を向いた。

「……水路すいろを、届けに」

「……うん」

水路すいろの神の声が、小さく響いた。  一柱ひとはしらだけになった声。

道を歩いた。  第二境界だいにきょうかいの向こう側。  ここからは、深部しんぶへの道。

木々がまばらになっている。  空が見える。青い空。でも、空気は冷たい。

「……水路すいろ

こよいは、歩きながら話しかけた。

「……どのくらいで、着くの?」

「……わからない」

水路すいろの神の声。

「……でも、このさき」

「……ぼくのばしょが、ある」

第三境界。  水路すいろの神を届ける場所。  そこを目指して、歩く。

しばらく歩くと、道が分かれた。

三叉路さんさろ。  古い道標みちしるべが立っている。  文字は消えかけて、読めない。

右の道は、明るい。  木々が開けていて、先が見える。

左の道は、暗い。  木々が密集みっしゅうしていて、狭い。

「……どっち?」

こよいは聞いた。

「……ひだり」

水路すいろの神の声。  迷いのない声。

「……暗いね」

「……でも、こっち」

「……ぼくのばしょは、こっち」

こよいは、左の道を見た。  暗くて、狭くて、怖い。でも、水路すいろの神がそう言うなら。  足先が暗闇の中で少し震えた。右の道へ戻れば、第三境界に着けない。

「……行こう」

こよいは、左の道に足を踏み入れた。

暗い森だった。

木々が高く、空を覆っている。  木漏れ日だけが、ところどころに差し込む。でも、薄暗い。

樹皮じゅひが黒ずんでいる。こけではなく、木そのものの色が暗い。幹に触れると、ひんやりとした湿気が手のひらに伝わった。この森は、深部しんぶに近い場所の空気を吸って育った木々で出来ているのだ。

足元に、霧が漂っている。  地面が見えにくい。  一歩ずつ、慎重に歩いた。  袖口を濡らす霧の冷たさが、季節を忘れさせていた。

こよいの耳に届くのは、自分の呼吸の音だけだった。吸い込んだ空気が喉の奥で冷たく沈んだ。この森の静けさは、里の夜とは違う。音そのものが吸い込まれてしまうような、底なしの空白だ。

鳥の声が、聞こえない。  虫の音も、聞こえない。  ただ、自分の足音だけが響いている。

里のおさの言葉が、頭をよぎった。

さかいを越えてくる奴らがいる」

「測る者たちだ。何かが変わった」

「油断するな」

こよいは、巾着きんちゃくを握った。  一人じゃない。水路すいろがいる。  その温もりだけが、震える足を支えていた。  巾着きんちゃくの中で、水路すいろの神がかすかに身じろぎしたのが分かった。怖がっている。でも、一緒にいてくれている。それだけで、足を前に出す力が湧いた。

歩き続けた。

道は、どんどん狭くなっていく。  木々の間を、すり抜けるように進む。  枝が、服を引っかける。  外そうと腕を引っ張ると、背後から湿った風が首筋を撫でた。誰の気配でもない。ただの風だ。分かっているのに、背筋を伝う冷たさに、鼓動が跳ねた。

巾着きんちゃくが、少し冷たくなった。

「……水路すいろ?」

こよいは、胸元を押さえた。

「……きをつけて」

水路すいろの神の声が、震えていた。

「……なにか、いる」

何かがいる。  こよいは、足を止めた。  周りを見回す。

暗い。  霧が濃くなっている。  何も見えない。

「……どこ?」

「……わからない」

「……でも、いる」

こよいは、息を潜めた。  耳を澄ませる。

静寂。  何も聞こえない。でも、確かに何かがいる。  水路すいろの神がそう言っている。  神が言うなら、間違いない。

ゆっくりと、歩き始めた。

音を立てないように。  息を殺して。  一歩ずつ、慎重に。

枝が折れるような音を、待っていた。

「……にげて」

水路すいろの神の声が、また震えた。

「……まえに、いる」

前に、いる。  こよいは、足を止めた。  前方を、見つめた。

暗い。  霧が、濃い。でも、何かが見える。

光。

遠くで、何かが光っている。  白い光。  点滅している。

「……あれ、何?」

こよいは、目を細めた。

光が、一つじゃない。  二つ、三つ、四つ。  どんどん増えていく。

「……」

水路すいろの神が、黙り込んだ。

「……水路すいろ?」

「……」

巾着きんちゃくが、凍りついたように冷たくなった。

「……かんそくしゃ」

水路すいろの神の声が、かすれた。

「……たくさん、いる」

観測者かんそくしゃ

こよいは、その光を見つめた。  遠くで、点滅している。  十以上。いや、もっとある。

無数の光。  全部、観測者かんそくしゃ

「……本隊」

こよいは、呟いた。  おさが警告していた、さかいを越えてくる者たち。しかも、これほどの数。

ここにいた。  進む道の、先に。

「……にげる?」

水路すいろの神の声。

「……もどる?」

こよいは、考えた。  戻れば、安全かもしれない。でも、水路すいろの神を届けられない。  下を向けば、足元の霧が自分の影を飲み込んでいる。でも、胸元の温もりだけは確かだ。  引き返せば、右の道で見た明るさに戻れる。だが、この先でしか届けられないのだと、足裏が覚えていた。

しおりの犠牲ぎせいが、頭をよぎった。  ほこらとの約束が、胸に響いた。

「……行く」

こよいは、言った。

「……逃げない」

「……でも」

「……水路すいろを、届ける」

こよいは、巾着きんちゃくを握りしめた。

「……約束したから」

沈黙。  それから、水路すいろの神の声が聞こえた。

「……いっしょに、いく」

「……さいごまで」

「……うん」

こよいは、頷いた。

「……一緒に、行こう」

光が、遠くで点滅している。  無数の光。観測者かんそくしゃの光。

こよいは、その光を見つめた。  怖い。でも、進む。  足の裏で地面の冷たさを確かめながら、一歩ずつ距離を縮める。

水路すいろの神を届ける。  それが、今の約束だ。  それで、終わりじゃない。

まだ、旅は続く。

こよいは、一歩を踏み出した。  暗い森の中を。  光に向かって。

遠くに、無数の光。

観測者かんそくしゃの本隊が、そこにいる。

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