歩いた。 ただ、歩いた。 止まったら、しおりの犠牲が無駄になる。
朝日が、背中を押していた。 東から差す光。温かい光。 こよいは、その光を背負って、前に進んだ。
足が痛い。体中が痛い。 昨日から、ずっと走って、歩いて、泣いて。でも、止まれない。
巾着が、胸元で揺れている。 祠の神と空き地の神が、そこにいる。 二柱の神を、届けなければいけない。
◇
道が、開けてきた。 森を抜け、視界が広がった。 遠くに、何かが見える。
「……」
こよいは、目を細めた。
岩。 二つの大きな岩が、寄り添うように立っている。 まるで、門のように。
胸元の巾着が、僅かに脈打った。二柱の神が、反応している。
「……ここだ」
祠の神の声が聞こえた。
「……だいにきょうかい」
第二境界。 祠を届ける場所。
こよいの足が、速くなった。
◇
近づくと、岩の大きさが分かった。 高さは五メートルほど。 古い岩で、苔が生えている。
二つの岩の間に、道がある。 狭い道。一人がやっと通れるくらい。
「……とおって」
空き地の神の声。
「……むこうに、あるよ」
こよいは、岩の間を通った。 ひんやりとした空気。 光が、向こうから差し込んでいる。
門を抜けた。
そこに、広場があった。
◇
円形の広場だった。 直径は二十メートルほど。 周りを、古い木々が囲んでいる。
そして、中央に、石があった。
平らな石。高さは腰ほど。 表面に、文様が刻まれている。 渦巻き。水の流れのような渦巻き。
「……ここ」
祠の神の声が震えていた。
「……ここが、ぼくのばしょ」
神の座。 祠の神が帰る場所。
こよいは、石の前に立った。
◇
「……祠」
こよいは、巾着に話しかけた。
「……着いたよ」
「……うん」
祠の神の声。小さくて、震えている。
「……こわい?」
「……すこしだけ」
こよいは、巾着を胸に押し当てた。
「……大丈夫。ここが、祠の場所だから」
沈黙。 それから、祠の神の声が聞こえた。
「……ありがとう、こよい」
「……みつけて、くれて」
「……つれてきて、くれて」
涙が、こよいの頬を伝った。 悲しいのではない。 嬉しいのでもない。 何か、もっと深い感情。
「……ぼくも、ありがとう」
こよいは、かすれた声で言った。
「……一緒に、ここまで来れて」
◇
巾着を、胸の前で開いた。
光が、溢れ出した。 温かい光。柔らかい光。 祠の神が、そこから出てきた。
「……」
こよいは、息を呑んだ。
光の球が、浮かんでいる。 小さくて、でも、確かにそこにある。 祠の神。今まで声だけだった存在が、初めて目に見えた。
光が、ゆっくりと動いた。 こよいの手を離れ、石の上へ。 文様の中心に、降りていく。
「……すいろ」
祠の神の声が聞こえた。
「……え?」
空き地の神が、驚いたように聞き返した。
「……きみの、なまえ」
「……すいろ」
「……こよいを、おねがい」
「……うん」
空き地の神の声が答えた。震えている。 名前を呼ばれた喜びと、別れの悲しみが混ざっている。
「……さいごまで、いっしょにいる」
「……こよい」
祠の神の声が、最後に響いた。
「……さいごまで、いってね」
「……うん」
こよいは、涙を拭いた。
「……約束する」
光が、形を変え始めた。 球から、別の形へ。 小さな祠の形。透明で、でも確かに見える。
祠の神が、帰ってきた。 本来の場所に、本来の姿で。
◇
しばらく、動けなかった。 石の上の祠を、見つめていた。
透明な祠。 小さくて、でも、美しい。 ここが、この神の居場所。 文様の渦が、祠の輪郭と重なって、微かに明滅している。
「……届けた」
こよいは、呟いた。
祠の神の声は、もう聞こえない。でも、そこにいる。 石の上で、静かに佇んでいる。
「……ありがとう」
こよいは、もう一度言った。
「……しおりさんも、ありがとう」
しおりの犠牲があったから、ここまで来れた。 しおりが逃がしてくれたから、祠を届けられた。 その犠牲を、無駄にしなかった。
涙が、また流れた。でも、今度は笑っていた。
◇
巾着を、握りしめた。 軽くなっている。祠がいなくなったから。でも、まだ温かい。水路の神が、そこにいるから。
「……空き地の神」
こよいは、言い直した。
「……ううん。水路」
水路。 それが、彼の本当の名前。 かつて、あの町に水路があったのだろうか。 清らかな水が流れ、人々がそこで洗い物をし、子供たちが遊んだ場所。 彼はそこを守り、人々と共に生きていたのかもしれない。 今はもう、埋め立てられて、空き地になってしまったけれど。 名前だけが、記憶の底に残っていたのだ。 同じ巾着の中で寄り添ううちに、祠の神には、その記憶の底の名が聴こえていたのかもしれない。
「……うん」
水路の神の声。一柱だけになった声。
「……次は、水路の番だね」
「……うん」
沈黙。 それから、水路の神の声が聞こえた。
「……いこう」
「……だいさんきょうかいへ」
第三境界。 空き地の神を届ける場所。 まだ、旅は終わっていない。
◇
こよいは、石の前を離れた。 一歩、二歩。 広場の出口へ向かう。
振り返った。 石の上の祠が、朝日を浴びている。 透明な体が、光を通して輝いている。
「……さよなら」
こよいは、小さく手を振った。
返事はない。でも、分かる気がした。 祠も、さよならと言っている。
前を向いた。 岩の門を、逆方向から見る。 あの向こうに、次の道がある。
「……行こう」
こよいは、巾着を握りしめた。
「……水路を、届けに」
「……うん」
水路の神の声が、小さく響いた。
一歩を、踏み出した。
届けた。 一柱目の神を、届けた。でも、まだ終わっていない。
水路の神がいる。 水路の神を届けなければいけない。
旅は、続く。
こよいは、朝の光の中を歩き出した。 水路の神と一緒に。
まだ、一柱残っている。 その手応えを確かめるように、こよいは次の境界へと歩いていった。
