第030話 水路の神
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第030話 水路の神

第1章 霧の序章

歩いた。  ただ、歩いた。  止まったら、しおりの犠牲ぎせいが無駄になる。

朝日が、背中を押していた。  東から差す光。温かい光。  こよいは、その光を背負って、前に進んだ。

足が痛い。体中が痛い。  昨日から、ずっと走って、歩いて、泣いて。でも、止まれない。

巾着きんちゃくが、胸元で揺れている。  ほこらの神と空き地の神が、そこにいる。  二柱ふたはしらの神を、届けなければいけない。

道が、開けてきた。  森を抜け、視界が広がった。  遠くに、何かが見える。

「……」

こよいは、目を細めた。

岩。  二つの大きな岩が、寄り添うように立っている。  まるで、門のように。

胸元の巾着きんちゃくが、僅かに脈打った。二柱ふたはしらの神が、反応している。

「……ここだ」

ほこらの神の声が聞こえた。

「……だいにきょうかい」

第二境界だいにきょうかい。  ほこらを届ける場所。

こよいの足が、速くなった。

近づくと、岩の大きさが分かった。  高さは五メートルほど。  古い岩で、こけが生えている。

二つの岩の間に、道がある。  狭い道。一人がやっと通れるくらい。

「……とおって」

空き地の神の声。

「……むこうに、あるよ」

こよいは、岩の間を通った。  ひんやりとした空気。  光が、向こうから差し込んでいる。

門を抜けた。

そこに、広場があった。

円形の広場だった。  直径は二十メートルほど。  周りを、古い木々が囲んでいる。

そして、中央に、石があった。

平らな石。高さは腰ほど。  表面に、文様が刻まれている。  渦巻き。水の流れのような渦巻き。

「……ここ」

ほこらの神の声が震えていた。

「……ここが、ぼくのばしょ」

神のかみのざ。  ほこらの神が帰る場所。

こよいは、石の前に立った。

「……ほこら

こよいは、巾着きんちゃくに話しかけた。

「……着いたよ」

「……うん」

ほこらの神の声。小さくて、震えている。

「……こわい?」

「……すこしだけ」

こよいは、巾着きんちゃくを胸に押し当てた。

「……大丈夫。ここが、ほこらの場所だから」

沈黙。  それから、ほこらの神の声が聞こえた。

「……ありがとう、こよい」

「……みつけて、くれて」

「……つれてきて、くれて」

涙が、こよいの頬を伝った。  悲しいのではない。  嬉しいのでもない。  何か、もっと深い感情。

「……ぼくも、ありがとう」

こよいは、かすれた声で言った。

「……一緒に、ここまで来れて」

巾着きんちゃくを、胸の前で開いた。

光が、溢れ出した。  温かい光。柔らかい光。  ほこらの神が、そこから出てきた。

「……」

こよいは、息を呑んだ。

光の球が、浮かんでいる。  小さくて、でも、確かにそこにある。  ほこらの神。今まで声だけだった存在が、初めて目に見えた。

光が、ゆっくりと動いた。  こよいの手を離れ、石の上へ。  文様の中心に、降りていく。

「……すいろ」

ほこらの神の声が聞こえた。

「……え?」

空き地の神が、驚いたように聞き返した。

「……きみの、なまえ」

「……すいろ」

「……こよいを、おねがい」

「……うん」

空き地の神の声が答えた。震えている。  名前を呼ばれた喜びと、別れの悲しみが混ざっている。

「……さいごまで、いっしょにいる」

「……こよい」

ほこらの神の声が、最後に響いた。

「……さいごまで、いってね」

「……うん」

こよいは、涙を拭いた。

「……約束する」

光が、形を変え始めた。  球から、別の形へ。  小さなほこらの形。透明で、でも確かに見える。

ほこらの神が、帰ってきた。  本来の場所に、本来の姿で。

しばらく、動けなかった。  石の上のほこらを、見つめていた。

透明なほこら。  小さくて、でも、美しい。  ここが、この神の居場所。  文様の渦が、ほこらの輪郭と重なって、微かに明滅している。

「……届けた」

こよいは、呟いた。

ほこらの神の声は、もう聞こえない。でも、そこにいる。  石の上で、静かにたたずんでいる。

「……ありがとう」

こよいは、もう一度言った。

「……しおりさんも、ありがとう」

しおりの犠牲ぎせいがあったから、ここまで来れた。  しおりが逃がしてくれたから、ほこらを届けられた。  その犠牲ぎせいを、無駄にしなかった。

涙が、また流れた。でも、今度は笑っていた。

巾着きんちゃくを、握りしめた。  軽くなっている。ほこらがいなくなったから。でも、まだ温かい。水路すいろの神が、そこにいるから。

「……空き地の神」

こよいは、言い直した。

「……ううん。水路すいろ

水路すいろ。  それが、彼の本当の名前。  かつて、あの町に水路すいろがあったのだろうか。  清らかな水が流れ、人々がそこで洗い物をし、子供たちが遊んだ場所。  彼はそこを守り、人々と共に生きていたのかもしれない。  今はもう、埋め立てられて、空き地になってしまったけれど。  名前だけが、記憶の底に残っていたのだ。  同じ巾着きんちゃくの中で寄り添ううちに、ほこらの神には、その記憶の底の名が聴こえていたのかもしれない。

「……うん」

水路すいろの神の声。一柱ひとはしらだけになった声。

「……次は、水路すいろの番だね」

「……うん」

沈黙。  それから、水路すいろの神の声が聞こえた。

「……いこう」

「……だいさんきょうかいへ」

第三境界。  空き地の神を届ける場所。  まだ、旅は終わっていない。

こよいは、石の前を離れた。  一歩、二歩。  広場の出口へ向かう。

振り返った。  石の上のほこらが、朝日を浴びている。  透明な体が、光を通して輝いている。

「……さよなら」

こよいは、小さく手を振った。

返事はない。でも、分かる気がした。  ほこらも、さよならと言っている。

前を向いた。  岩の門を、逆方向から見る。  あの向こうに、次の道がある。

「……行こう」

こよいは、巾着きんちゃくを握りしめた。

「……水路すいろを、届けに」

「……うん」

水路すいろの神の声が、小さく響いた。

一歩を、踏み出した。

届けた。  一柱ひとはしら目の神を、届けた。でも、まだ終わっていない。

水路すいろの神がいる。  水路すいろの神を届けなければいけない。

旅は、続く。

こよいは、朝の光の中を歩き出した。  水路すいろの神と一緒に。

まだ、一柱ひとはしら残っている。  その手応てごたえを確かめるように、こよいは次の境界へと歩いていった。

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