第305話 経蔵の落盤
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第305話 経蔵の落盤

第10章 波の端

原本(げんぽん)に、触れた。  誰が最初だったのかは、あとになっても分からない。こよいの掌(てのひら)と、久遠(くおん)の指先と、あさひの手の甲が、ほとんど同時に白い光に届いた。  熱くはなかった。冷たくもなかった。ただ、触れた瞬間——世界の底が、一度だけ、大きく脈打った。  白い光の中の名前たちが、一斉にこちらを向いた。見られている、のではない。数えられている。三人ぶんの名前と、三十七の写本と、四柱の神々と、名のない猫が一匹。原本(げんぽん)は、来たものすべてを、一瞬で数え終えた。  そして——受け取った。何を渡したのか、こよいには言葉にできない。ただ、腕の中の写本(しゃほん)の束が、ふ、と軽く、そして温かくなった。写しと原本(げんぽん)が、一度だけ、呼吸を合わせたのだ。  その一瞬、白い光の奥に、墨を湛(たた)えた深い円が視(み)えた気がした。あれは崩れない——理由もなく、こよいはそう思った。  直後、経蔵(きょうぞう)の防御が、牙を剥いた。

久遠(くおん)が最初に気づいた。

「床が傾いてる」

足元の紙の床が、微かに——しかし確実に、奥へ向かって沈んでいた。原本(げんぽん)に触れた瞬間から始まった振動が、まだ収まっていない。紙を固めた床の下で、石の骨格が軋(きし)む音がしている。低く、断続的に。古い建物の梁(はり)が限界を訴えるときの音に似ていた。

天井から粉が落ちてきた。

細かい石の粉ではなかった。紙の粉だった。圧縮(あっしゅく)された記録の層が、天井側から剥離(はくり)し始めている。何百年ぶんの名前が、粉塵(ふんじん)になって降ってくる。こよいの肩や髪に白い粉が積もり、息を吸うと紙の繊維(せんい)が喉(のど)の奥に絡みついた。

こよいは写本(しゃほん)の束を胸に抱き直した。腕の中の紙がまだ温かい。原本(げんぽん)から写し取った名前が、紙の繊維(せんい)の中で脈打っている。写本(しゃほん)の温もりとこよいの体温が混ざり、腕の中に小さな熱の塊ができていた。

壁が裂けた。

左の壁に亀裂(きれつ)が走り、赤い光が漏れた。経蔵(きょうぞう)の防御がまだ生きている。原本(げんぽん)に触れたことで、建物全体が異物排除を再開したのだ。赤い光が亀裂(きれつ)の中で脈打ち、壁の文字が怒りのように明滅(めいめつ)する。名前たちが叫んでいるのか、名前たちが苦しんでいるのか、こよいには分からなかった。

「出口は」

こよいの声が掠(かす)れた。紙の粉を吸い込んだせいで、喉(のど)が乾いていた。

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を灯(とも)した。蒼光(そうこう)が崩れかけた空間を走査(そうさ)する。光が天井の亀裂(きれつ)を辿(たど)り、壁を伝い、床の傾斜を照らし出した。蒼い光と赤い光が交差する場所で、壁の文字が紫色に浮かび上がった。

「上だ。通路が崩れて塞がっている。天井の裂け目から地上の空気が入ってきてる」

あさひが剣を抜いた。

天井を見上げた。亀裂(きれつ)の向こうに、薄い灰色が覗(のぞ)いている。霧(きり)の色だった。外の空気だ。亀裂(きれつ)の隙間から湿った風が細く入り込み、こよいの頬(ほお)を撫(な)でた。

あさひが剣を構えた。

振り下ろしたのではなかった。柄(つか)の結晶(けっしょう)が震え始め、刃(やいば)全体が低い音を発した。共鳴(きょうめい)だった。経蔵(きょうぞう)の石と同じ振動数で鋼(はがね)が震え、天井の亀裂(きれつ)に触れた。

石が割れた。

斬ったのではない。共鳴(きょうめい)で脆(もろ)くなった石が、剣の振動に耐えきれずに崩れた。破片が降ってくる。こよいは写本(しゃほん)を庇(かば)うように身を屈(かが)め、頭に石の欠片(かけら)が当たった。鈍い痛みが頭蓋(ずがい)を走ったが、紙は無事だった。石の粉が写本(しゃほん)の表紙に降りかかり、金色の文字を白く覆った。

あさひがもう一度、刃(やいば)を天井に当てた。同じ振動。石が砕ける。穴が広がる。灰色の光が差し込んできた。穴の縁(ふち)から崩れた石と紙の粉が滝のように落ち、あさひの肩と腕に降りかかった。あさひは目を細めたが、腕を下ろさなかった。

「行け」

あさひが言った。

久遠(くおん)がこよいの腰を押した。こよいは写本(しゃほん)を片腕に抱え、もう片方の手で崩れた石の端を掴み、身体を引き上げた。腕が震えた。写本(しゃほん)の重さが肩を引く。指の皮が石の角で裂けた。痛みが指先から手首まで走り、血が石の表面に一筋(ひとすじ)残った。

巾着(きんちゃく)が脈打った。

温かかった。雨の神の温もりが腰から胸へ、胸から腕へ、押し上げるように流れている。力が戻った。腕が動いた。身体が穴の縁(ふち)を越えた。先に抜けていたおたまが、縁のすぐ外で待っていた。

地面に転がり出た。

石の上だった。冷たい石の上に仰向けに倒れ、目を開けると、灰色の空が広がっていた。霧(きり)だった。外の霧(きり)だ。経蔵(きょうぞう)の中の、紙と石と赤い光の世界ではない。空気が湿っていて、肺の奥まで柔らかく入ってきた。経蔵(きょうぞう)の内部の乾いた空気に慣れた喉(のど)が、その湿り気を貪(むさぼ)るように吸い込んだ。

久遠(くおん)が穴から這(は)い上がってきた。目録(もくろく)を懐(ふところ)に押し込み、両手で縁(ふち)を掴んでいる。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が切れていた。使い果たしたのだ。顔が蒼白(そうはく)で、額に汗と紙の粉が混ざって張り付いている。

こよいは手を伸ばした。久遠(くおん)の手を掴み、引いた。裂けた指が久遠(くおん)の手に血を残したが、どちらも気にしなかった。

最後にあさひが上がってきた。片手で剣を持ったまま、もう片方の手だけで身体を持ち上げた。穴の縁(ふち)に膝(ひざ)をつき、そのまま石の上に座り込んだ。肩で大きく息をしている。

背後で、穴が塞がった。石が元の位置に戻るように閉じ、地面が平らになった。数秒前まで穴があった場所が、何事もなかったかのように石の表面に戻っている。

経蔵(きょうぞう)が閉じたのだ。

三人は石の地面の上に座っていた。誰も立ち上がれなかった。あさひの剣の結晶(けっしょう)がまだ微かに震えていたが、音はもう出ていなかった。緑の脈がゆっくりと明滅し、やがて静まっていく。

こよいは写本(しゃほん)を膝(ひざ)の上に置いた。紙は無事だった。端が少し折れている。石の粉が表紙に積もっている。だが文字は読める。名前は、ここにある。指先の血が一滴、写本(しゃほん)の角に付いていた。こよいはそれを拭(ぬぐ)わなかった。

巾着(きんちゃく)の温もりが、ゆっくりと平常に戻っていく。神々の脈動が穏やかになり、布越しの熱が体温と同じ温度に落ち着いた。

遠くで、列車の汽笛(きてき)が聞こえた。

汽笛の方向へ目を向けると、霧(きり)の向こうに微かな光の筋が走っていた。駅はここから離れていない。経蔵(きょうぞう)の入り口まで来たときの記憶を頼りに、久遠(くおん)が先に立ち上がった。こよいは写本(しゃほん)を抱えたまま石の上から這い出し、あさひが最後についてきた。

汽笛は二度鳴った。発車の合図だ。

三人は足に任せて走った。転がる石の上、濡れた苔の上、霧(きり)に埋もれた石段を降りる。肺が焼けるように痛い。だが汽笛が三度目を鳴らしたとき、ホームの縁が見えた。停車していた車両の扉が、今にも閉まりそうだった。

あさひが先に飛び乗り、扉を押さえた。こよいがその手を掴んで引き上げられ、久遠(くおん)が最後に滑り込んだ。扉が閉まる音が、骨まで響いた。

窓の隙間から入り込んだ夕風が、髪に積もった石の粉を払っていった。

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