第304話 余白の増殖
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第304話 余白の増殖

第10章 波の端

経蔵(きょうぞう)が、怒った。  壁龕(へきがん)に積まれていた写本(しゃほん)の束を、こよいが抱え上げた瞬間——壁の文字が赤く光った。  天井から細かい石の粉が降ってきた。  空気が変わった。

それまで経蔵(きょうぞう)の奥に満ちていた紙と墨(すみ)の匂い——何百年もの記録が積み重なることでしか生まれない、あの重く甘い匂いが、一息で消えた。代わりに金属の匂いが鼻を突いた。鉄を強く擦り合わせたときのような、舌の奥が痺(しび)れる匂い。

壁の赤い光は、文字そのものが発光していた。刻まれた名前の一つ一つが怒りのように燃え、石の表面から剥(は)がれそうなほど強く明滅(めいめつ)している。

「検知された」

久遠(くおん)が叫んだ。

義眼(ぎがん)が激しく明滅している。蒼光(そうこう)が赤い壁の光と混じり、紫がかった影が通路の天井に揺れた。

「観測者(かんそくしゃ)の防御が起動した。この通路にいる異物を排除しようとしている」

壁が動いた。  左右の壁が、ゆっくりと間隔を狭めている。  天井も下がっている。

石と石の隙間から砂が零(こぼ)れ、こよいの髪に降りかかった。頬(ほお)に当たる粒が熱い。経蔵(きょうぞう)の壁は冷たいはずだったのに、今は触れれば火傷(やけど)しそうなほどの温度を放っていた。

通路そのものが収縮(しゅうしゅく)している。  防御の起動と同時に、奥からあさひが駆け戻ってきた。機構を押さえるどころではない——経蔵(きょうぞう)全体が動き始めたのだ。合流したあさひが大剣の腹を壁に当て、押し返した。  石が軋(きし)んだ。肩の筋肉が盛り上がり、足裏が床を噛む。石壁に押し当てた剣身が微かに撓(たわ)み、金属の悲鳴のような音が通路に反響した。

壁の動きが一瞬止まったが、すぐにまた閉じ始めた。あさひの全身の力をもってしても、経蔵(きょうぞう)の意思は揺るがない。

「力で止められるもんじゃない。経蔵(きょうぞう)全体が動いてる」

あさひが剣を引いた。刃に壁の赤い光が映り込み、鋼(はがね)の表面が血のように染まっている。

押し返しても意味がない。

建物そのものが意思を持って閉じようとしている。壁だけではなく、床も、天井も、空気さえも、三人を押し潰(つぶ)そうと収縮(しゅうしゅく)していた。

「中心部に行け」

久遠(くおん)が前方を指した。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が暗い通路の先を照らし、下り坂の輪郭(りんかく)を浮かび上がらせる。

通路は下に続いている。

「中心部に原本(げんぽん)がある。原本(げんぽん)に直接触れれば、防御を止められる可能性がある」

「可能性かよ」

あさひが先頭に立った。大剣を肩に担ぎ、狭まっていく壁の隙間に身体をねじ込むようにして前へ出る。

「今あるのはそれだけだ」

三人が走った。

通路は狭くなっていく。壁が両側から迫り、肩が石に擦れた。衣の布が裂ける感触。こよいの腕に石の角が当たり、鋭い痛みが走ったが、立ち止まる余裕はなかった。

天井が頭の上すれすれまで下がっている。  こよいは写本(しゃほん)の束を腹に抱え、身を屈(かが)めて走った。紙の束が腹を押し、走るたびに息が詰まる。それでも手を離すわけにはいかなかった。この写本(しゃほん)の中に、名前がある。まだ返していない名前が、紙の中で震えている。  巾着(きんちゃく)が激しく脈打っている。

恐怖ではない。

下へと引かれている。神々が何かに応えるように、腰の布袋(ぬのぶくろ)の中で跳ねていた。経蔵(きょうぞう)の中心部にあるものが、神々を呼んでいるのだ。  壁の赤い光が通路全体を染めている。石の表面に刻まれた文字が、一つ一つ怒りの声を上げるように明滅(めいめつ)し、赤い光が三人の影を幾重にも分裂させた。  足元の紙の床が震えている。振動が靴底を通じて膝まで伝わり、歯の根が鳴った。

天井から落ちてくる石の粉が、目に入る。視界が滲(にじ)んだ。涙で洗い流す暇もなく、こよいは片手で目元を拭(ぬぐ)い、もう片手で写本(しゃほん)を抱え続けた。  あさひが前方の障害物を剣で叩き割った。通路を塞ごうとした石の突起(とっき)が、砕けて散る。破片がこよいの頬(ほお)を掠(かす)めた。

温かい。

石が熱を持っている。経蔵(きょうぞう)の壁は防御のために燃えていた。石の欠片(かけら)が肌に触れた箇所がじんと痺(しび)れ、汗が蒸発する匂いがした。

「あとどれくらい」

あさひが振り返らずに訊いた。息が荒い。大剣を振るたびに通路の石くずが飛び散り、前方にわずかな空間を作る。だが作った端から壁が詰めてくる。

「分からない。だが——」

久遠(くおん)の目録(もくろく)が光った。革表紙の中から金色の筋が滲(にじ)み出し、暗い通路の壁に模様を描くように走る。

金色の筋が、下方に向かって伸びている。

近い。  通路が突然広がった。  壁の収縮(しゅうしゅく)が止まった。  天井が高くなった。

圧迫されていた空気が一気に解放され、三人の耳に風の音が戻った。それまで押し潰(つぶ)されていた音という音が、広い空間の中で弾(はじ)けるように響く。

走り続けていた三人が、急に開けた空間に飛び出した。  巨大な空間だった。  天井は見えない。闇の中に消えている。  壁も遠い。赤い光はここには届いていなかった。

床は石ではなく、何か別のもの——紙を固めたような、柔(やわ)らかい地面だった。踏むと微かに沈む。靴底が紙の層を押すたびに、乾いた繊維(せんい)の匂いが足元から立ち上る。何千枚、何万枚という紙が、長い年月をかけて圧縮(あっしゅく)されて床になったのだ。

空間の中央に、光が見えた。  久遠(くおん)が立ち止まった。  義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が、その光に向かって伸びた。蒼い光と中央の光が接触した瞬間、空間全体が一度だけ脈打つように震えた。

「原本(げんぽん)だ」

背後で、通路が完全に閉じる音がした。石と石が噛み合い、隙間が消える。重い衝撃(しょうげき)が床を伝い、三人の足裏を震わせた。  戻る道は、もうなかった。

三人は前だけを見た。  紙を固めた床が、一歩ごとに微かに軋(きし)む。圧縮(あっしゅく)された紙の層の中から、かすかな声のようなものが漏れてくる。声ではない。名前の残響(ざんきょう)だ。床に踏み固められた無数の記録が、三人の重みで目を覚ましかけている。

原本(げんぽん)の光が、近づくにつれて色を変えていった。  金色から、朱(あか)へ。朱(あか)から、白へ。

白い光の中に、文字の影が揺れている。何百年分の名前が、そこに眠っていた。光が文字を照らすのではなく、文字そのものが光を放っている。名前の一つ一つが、消えまいとして燃えているのだった。

こよいは写本(しゃほん)の束を胸に抱き直した。腕の中の紙が、原本(げんぽん)の光に応えるように温度を上げている。巾着(きんちゃく)の中で神々も脈打っていた。二つの熱が、こよいの身体の中で合流し、胸の奥で一つの鼓動(こどう)になる。

おたまが、原本(げんぽん)の光のいちばん際に立って、三人を待っていた。崩れゆく経蔵(きょうぞう)の中で、猫の周りだけは、天井から降る石粉さえ避けて落ちる。

原本(げんぽん)まで、あと数歩だった。

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