第300話 朝の果て
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第300話 朝の果て

第10章 波の端

目が覚めたとき、天井が見えた。  木の天井だった。節目ふしめのある、古い板。隙間すきまから差し込む光が、こよいの顔に細い線を引いている。

温かかった。

毛布が肩までかかっていた。誰がかけてくれたのかは分からないが、布の重みが身体を床に繋ぎ止めていて、それだけで安心した。胸の上には、それとは別の、小さくて丸い重みがあった。おたまが、こよいの胸の真ん中で眠っていた。猫の寝息が、毛布越しに、ゆっくりと上下している。  こよいは天井の節目ふしめを数えながら、ゆっくりと呼吸を整えた。吸って、吐いて、もう一度吸って。肺の奥まで空気が入る。忘却ぼうきゃくの海にいたときは、こんなふうに深く息を吸えなかった。

巾着きんちゃくが腰のあたりで温もっている。  神々の脈が、こよいの心臓と同じ速さで打っていた。焦りのない、穏やかな律動りつどう。海を越えてきた疲労が嘘のように、神々は静かに眠りから覚めている。

窓の外が金色だった。

朝だ。きりはまだある。だが、忘却ぼうきゃくの海のきりとは質が違う。あのきりは視界だけでなく記憶まで奪おうとした。今、窓硝子まどがらすでているきりは、ただの水蒸気すいじょうきのように見える。光を含んで、柔らかく発光している。  こよいは身体を起こした。背中が少し痛んだ。床に直接寝ていたからだ。

列車の座席ではなく、どこかの建物の中だった。  壁に棚があり、古い書物が並んでいる。経蔵きょうぞうへの中継地点として久遠くおんが見つけた、記録の番小屋のような場所だ。昨夜、三人はここに辿たどり着き、そのまま倒れるように眠った。

久遠くおんは窓際に座っていた。

すでに起きていた。目録もくろくひざの上に開き、義眼ぎがん蒼光そうこうを落として文字を追っている。いつもの姿だ。だが、今朝の久遠くおんには、どこか力みがなかった。  義眼ぎがんの光が穏やかだった。焦ってページをめくる動きがない。一行ずつ、丁寧に読んでいる。

「起きたか」

久遠くおん目録もくろくから顔を上げずに言った。

「……うん。久遠くおんくん、眠れた?」

こよいが毛布を畳みながら訊いた。

「二刻ほどは」

それは久遠くおんにしては長い。  忘却ぼうきゃくの海では、久遠くおんはほとんど眠らなかった。義眼ぎがんの負荷を気にして、こよいは何度も休むよう頼んだが、久遠くおんは首を横に振り続けた。二刻眠れたということは、ここが安全だと久遠くおんの身体が判断したということだ。

あさひは壁際で寝ていた。

大剣を抱えたまま、壁に背を預けて眠っている。右手はつかを離していない。だが呼吸は深く、規則正しかった。口元がわずかに開いている。  こよいは小さく笑った。あさひの寝顔は、起きているときの厳しさがうそのように無防備だ。

朝の光が部屋を満たしていく。

金色から白へ、白から透明へ。きりが薄くなるにつれて、窓の外の輪郭が見えてきた。枯れた木の枝。地面をおおう灰色の砂利じゃり。遠くに、石の壁のようなものがかすんでいる。  経蔵きょうぞうの外壁だ。昨日くぐった裂け目も、あの霞みのどこかにある。

こよいは窓に手を当てた。硝子ガラスは冷たかったが、光は温かかった。

ここまで来た。

忘却ぼうきゃくの海を越え、名前を失いかけ、神々の導きに従って歩き続けて、ここまで来た。数えてみれば途方もない距離を歩いたはずだが、振り返ると一つひとつの景色がはっきりと残っている。雨の神様の泉。月の神様の銀色の森。風の神様の丘。  名前を拾い、名前を守り、名前を返してきた旅だった。

「ぼくたち、ずいぶん遠くまで来たね」

こよいが窓の外を見たまま言った。

久遠くおん目録もくろくページを指で押さえた。

「遠い、という感覚があるのは、出発点を覚えているからだ。覚えているなら、まだ漂白ひょうはくされていない」

久遠くおんらしい返し方だった。だが声にとげがなかった。

あさひが身じろぎした。

大剣のつばが壁に当たり、乾いた音が響いた。目を開けずに、あさひは口を動かした。

「……うるせぇ。もう少し寝かせろ」

こよいと久遠くおんが顔を見合わせた。

久遠くおんの唇がほんの少し動いた。笑ったのかもしれない。こよいには判別がつかなかったが、義眼ぎがんの光が一瞬だけ温かい色を帯びたように見えた。

こよいは巾着きんちゃくを胸の前で抱えた。  神々の脈が、朝の光と同じ速さで打っている。急がない脈だった。ここにいていいと言っているような、静かな鼓動こどう

何も起きない朝だった。

襲撃もない。漂白ひょうはくの気配もない。観測者かんそくしゃの影も見えない。ただ朝が来て、光が差して、三人が同じ部屋にいる。  それだけのことが、こよいにはひどく貴重きちょうに思えた。

忘却ぼうきゃくの海では、朝と夜の区別がなかった。きりが常に同じ濃さで、時間の感覚が溶けていた。今こうして朝の光を浴びているだけで、自分がまだ世界の中にいることを実感できる。

あさひがようやく目を開けた。

天井を見て、窓の外を見て、こよいと久遠くおんを見た。それから大剣を床に立てて、身体を起こした。

「腹が減った」

あさひの第一声だった。

こよいは荷物の中から干し飯と水筒を取り出した。星野ほしのの宿の主が、何も訊かずに持たせてくれた保存食だ。味は期待できないが、腹は満たせる。  三人は番小屋の床に座り、無言で干し飯を噛んだ。固い。だが噛むたびに、かすかな甘みが口の中に広がった。

久遠くおんが水筒の水を一口含み、目録もくろくを閉じた。

経蔵きょうぞうの芯は近い。あの裂け目の奥、朱い光の向こうだ」

「今日、行くの?」

こよいが久遠くおんを見た。

「行く。だが、急ぐ理由はない。八百年待った場所だ。経蔵きょうぞうは逃げない」

久遠くおんは窓の外を見た。

「体力を戻してからでいい。ここまで来て、疲労で足を滑らせるのは馬鹿げている」

あさひが干し飯を飲み込み、口をぬぐった。

「珍しいな。お前が休めって言うの」

久遠くおんは答えなかった。だが目録もくろくを膝から下ろし、壁に背を預けた。その仕草が、答えの代わりだった。

こよいは最後のひと欠片を口に入れ、ゆっくり噛んだ。  朝の光が斜めに差し込み、床に三つの影を落としている。三つの影は、それぞれ違う方向を向いていたが、根元では繋がっていた。

もう少しだけ、この朝の中にいよう。

こよいはそう思った。経蔵きょうぞうが待っている。ことわりの記録が待っている。だが、この静かな朝も、旅の一部だ。  巾着きんちゃくの中で、神々がゆっくりと脈打った。急がなくていいと、言っているように。

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