第029話 悲しみを越えて
029

第029話 悲しみを越えて

第1章 霧の序章

走った。  ただ、走った。  後ろを振り返れなかった。

しおりの顔が、頭から離れない。  最後の笑顔。最後の言葉。

「さよなら、こよい」

涙で、前が見えない。  足がもつれる。何度も転びそうになる。  それでも、止まれなかった。

観測者かんそくしゃの光が、後ろで点滅している。  追ってきている。まだ、追ってきている。

「……にげろ」

ほこらの神の声。

「……もっと、はやく」

空き地の神の声。

走った。  夜になっても、走った。  喉が焼けるように乾いて、息を吸うたびに肺が痛い。  月が出ていた。でも、見る余裕はなかった。

どれくらい走ったのか、分からない。  時間の感覚がない。

気がつくと、森の中にいた。  深い森。木々が密集みっしゅうしている。  観測者かんそくしゃの光は、もう見えない。

足が、止まった。もう、動けなかった。

大きな木の根元に、倒れ込んだ。  体が、言うことを聞かない。  息が、上がっている。

地面が冷たい。落ち葉の湿った匂いが、顔に近い。土と、腐葉土と、夜露の匂い。体中が汗で濡れていて、冷えた風が吹くたびに震えが走った。

「……」

静寂。  虫の音だけが、かすかに聞こえる。

こよいは、そのまま動けなかった。  体を丸めて、木の根に寄りかかった。

腕に強張こわばりを感じた。枝を払いながら来たのだろう、ひっかいた跡が数本、腕の肘から前腕にかけて走っている。血が出ていたかは確認できなかった。胸が上下に荒く動くたび、肺の奥まで冷たい夜気が吸い込まれる。

観測者かんそくしゃは、いつまで追ってくるのか。  あの点滅は、もう遠くで見えなくなっていたけれど、いつまた現れるか分からない。  ここに留まるのは、危険かもしれない。でも、今は動けなかった。

泣いた。

声を殺して、泣いた。  嗚咽おえつが漏れる。止められない。

「……しおりさん」

名前を呼んでも、返事はない。もう、返事はない。

「……ごめん」

声が震えていた。

「……ごめんなさい……」

ぼくのせいだ。  ぼくが動けなかったから。  しおりが、かばってくれた。  代わりに、固定こていされた。

「……ぼくのせいで……」

涙が、止まらなかった。  頬を伝って、服に染みていく。  体が震えている。寒いのか、悲しいのか、分からない。

しおりの顔が、浮かんでくる。  焚き火のそばで、淡々と話してくれた顔。帳面を撫でる、細い指。  笑っていた顔。「偉い」と言ってくれた顔。

最後に見た顔。固定こていされていく顔。

「……さよなら、こよい」

その言葉が、耳の奥で響き続けている。

どれくらい泣いたのか、分からない。  涙が、枯れてきた。でも、悲しみは消えない。

巾着きんちゃくが、少しだけ温かくなった。  冷たかったはずなのに。

「……ないて、いいよ」

ほこらの神の声が、聞こえた。  小さくて、優しい声。

「……かなしい、よね」

空き地の神の声も。

こよいは、巾着きんちゃくを握りしめた。  神々が、そこにいる。  一緒に、ここまで来た神々が。

「……しおりさんが」

こよいは、かすれた声で言った。

「……ぼくを、かばって……」

「……うん」

ほこらの神の声。

「……しってる」

「……しおりは」

空き地の神の声が続いた。

「……きみを、まもりたかった」

守りたかった。  その言葉が、胸に刺さった。

「……なんで」

こよいは聞いた。

「……なんで、ぼくを……」

「……きみに、いきてほしかった」

ほこらの神の声。

「……とどけて、ほしかった」

「……かみさまを」

神様を届ける。  それが、こよいの役目。  しおりは、それを知っていた。  だから、守ってくれた。

「……でも」

こよいの声が震えた。

「……ぼくが、逃げたから……」

「……しおりさんは……」

「……しおりが、にげろって、いった」

空き地の神の声。

「……きみが、にげたんじゃない」

「……しおりが、にがしたんだ」

しおりが、逃がした。  こよいが逃げたんじゃない。  しおりが、命をかけて、逃がしてくれた。

こよいは、頭を抱えるようにして、地面に押し付けた。  指の間から涙が落ちる。  しおりが自分で逃げろと言った。  届けろと言った。  それは——こよいが動けなくても、しおりはこよいを守ると決めていたということだ。

涙が、また溢れてきた。でも、さっきとは違う涙だった。

「……ぼく、どうすればいい?」

こよいは、巾着きんちゃくに聞いた。

「……しおりさんのために、何ができる?」

沈黙。  それから、ほこらの神の声が聞こえた。

「……あるくんだ」

歩く。

「……とまったら」

空き地の神の声が続いた。

「……しおりの、ぎせいが」

「……むだに、なる」

無駄になる。  しおりの犠牲ぎせいが、無駄になる。

こよいは、目を閉じた。  しおりの言葉が、蘇ってくる。

「あなたが、届けなきゃいけないんでしょ。神様を」

そうだ。  こよいには、やることがある。  ほこらの神と空き地の神を、届けなければいけない。  しおりが命をかけて守ってくれた、この命で。

「……止まらない」

こよいは、呟いた。

「……止まったら、しおりの犠牲ぎせいが……」

無駄になる。  それだけは、許せない。

空が、白み始めていた。  夜明けが、近い。

こよいは、ゆっくりと体を起こした。  足が、痛い。体中が、痛い。でも、動ける。

袖口で頬の涙を拭い、靴底についた泥を木の根で落とした。  膝が笑うのを押さえながら、立体的に周囲を見回す。森の奥の方角に、木々の隙間から薄い光がにじんでいた。あちらへ向かえば、道が開けるかもしれない。

巾着きんちゃくを、握りしめた。  温かい。神々が、そこにいる。

「……行こう」

こよいは、言った。

「……第二境界だいにきょうかいへ」

「……うん」

ほこらの神の声。

「……いっしょに」

空き地の神の声。

立ち上がった。  足が震えている。でも、立てる。

一歩、踏み出した。  まだ、涙の跡が頬に残っている。でも、前を向いた。

「……しおりさん」

こよいは、小さく呟いた。

「……届けるから。必ず」

その声は、まだかすれていた。でも、自分の言葉だ。

夜明けの光が、木々の間から差し込んできた。  白い光。冷たくない、温かい光。  昨夜の恐怖とは違う、静かな朝だった。

こよいは、歩き出した。  悲しみは、消えない。でも、止まらない。

止まったら、しおりの犠牲ぎせいが無駄になる。

その言葉を胸に刻んで、こよいは歩いた。

お読みいただきありがとうございます

4つの小説投稿サイトでお読みいただけます