第003話 消えた道
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第003話 消えた道

第1章 霧の序章

朝、こよいは夢を見なかった。  深い眠りの底から浮上したとき、部屋には朝の光が満ちていたが、こよいの感覚はまだ夜の闇を引きずっていた。  目を覚ましたとき、巾着の重さだけが、はっきりと残っている。布の感触、結び目の固さ、そして腰に伝わる確かな質量しつりょう。そこに「入っている」気配。昨日見た空の歪みが、夢ではなかった何よりの証拠だった。

鈴は鳴らない。  声も、聞こえない。  ただ、窓から差し込む光の粒が、静かに動いているだけだ。

母はいつも通りだった。  台所から漂う朝餉あさげの湯気。味噌の匂い。まな板を叩く規則正しい音。  こよいが巾着を持っていることに、何も言わない。言わない、というより、気づいていないのかもしれない。

「今日は?」

母の声は、問いかけというより確認だった。

「……やすむ」

「そう」

それだけだった。霧のない日は、体調を崩す子がいる。そういうことにしておくのが、この町のやり方だ。

こよいは、昨日とは反対の道を歩いた。  川を越え、畑の脇を抜け、山へ向かう細道。草が生い茂り、人の通らない道。誰にも見られない道。  足元の土は湿っていて、歩くたびに微かな粘り気を感じる。靴底がグチュリと鳴り、跡が残る。

笹藪ささやぶを抜けると、道は暗くなった。  杉林すぎばやしだ。まっすぐに伸びた幹が、整然せいぜんと並んでいる。誰かが植えた林なのだろう。けれど、手入れをする者はもういない。下草が茂り、倒木が道を塞ぎ、苔が幹を覆っている。  光がほとんど届かない。昼間なのに、夕暮れのように薄暗い。  自分の足音だけが、やけに大きく響く。

その先に、傷んだほこらがあった。  記憶の中にあるほこらは、もっと大きくて立派だった気がする。けれど、目の前にあるそれは、思っていたよりもずっと小さく、脆そうだった。  屋根は落ち、柱は斜めに傾き、石段は崩れている。銅板葺きの屋根には緑青ろくしょうが浮き、片側が完全に崩落ほうらくしていた。  誰かが悪意を持って壊したというより、誰も直さなかった結果、時間の重みに耐えかねて崩れ落ちたようだった。  しめ縄は、もうない。風雨に晒されて朽ち果てたのだろう。掛け金具だけが、錆びて残っている。  供え物の跡も、ない。皿の欠片ひとつ落ちていない。苔むした供え台が、空のまま鎮座ちんざしている。  ただ、ほこらだった形だけが、残骸として残っている。

こよいは、足を止めた。

「……ここ」

巾着の中が、わずかに、重くなった。石を一つ足したような、確かな重量感。

「……いた、ところ」

小さな声が、内側から響いた。耳ではなく、胸の奥に直接届く声。  こよいは、驚かなかった。予感があったからだ。

「……あなたが?」

巾着に向けて問いかける。

「……ちがう」

新しい声だった。疲れている。長い旅の果てのような疲れ。

「……にてる」

「……ともだち?」

「……しらない。でも、おなじ」

こよいは、ほこらの前にしゃがみこんだ。膝に土がつくのも構わずに。

「……なまえ、あった?」

ほこらに向かって、話しかける。

「……あった」

「……よばれてた」

「……でも、いつからか、よばれなくなった」

風が吹いた。  ほこらの屋根の残骸が、ぎし、と鳴る。乾いた木が擦れる、悲鳴のような音。  その音が、こよいの胸を、ひどく締めつけた。

「……どうして、こわれたの」

「……こわれた、ちがう」

「……おいていかれた」

こよいは、息を吸った。肺の奥が冷たくなる。

ほこらの裏に回ると、小さな石が転がっていた。  表面が削れ、角が丸い。川原の石のようだ。  誰かが、何度も触った石だ。手油てあぶらが染み込んで、黒く光っている。  こよいは、その石を拾い上げた。  冷たい。でも、嫌な冷たさじゃない。長い時間を経てきたものの持つ、静かな冷たさ。

「……これ」

「……それ、しるし」

「……なんの」

「……だれかが、きてた、しるし」

祈りの痕跡。名前のない誰かが、ここに思いを置いていった証拠。

「……いっしょに、くる?」

こよいは聞いた。  声は、少し黙った。

「……いいの」

「……せまいよ」

こよいは、巾着の口を少しだけ緩めた。

「……もう一柱ひとはしら、いる。でも、まだ入れる」

「……」

「……おなじ、って言ったでしょ」

声は、また黙った。  それから、とても小さな声で言った。

「……ありがとう」

こよいは、石を巾着に入れた。  外からそっと滑り込ませると、巾着の重心がずれる。  新しい重さが加わった。物の重さじゃない。気配の重さだ。

「……ここ、もう、だいじょうぶ」

「……ほんと?」

「……うん」

「……きみが、みてくれたから」

その言葉が、胸の奥を鋭く突いた。  刺さった針から、見えない糸が伸びている。その糸の先は、自分の手首に固く結ばれているような、そんな重い予感。

帰ろうとして、こよいは立ち上がった。  膝についた土を払い、来た道を振り返る。

道が、消えていた。

息が止まった。  ついさっきまであった杉林すぎばやしが、白い壁に覆われている。  霧だ。  けれど、朝は晴れていた。霧の気配など、どこにもなかったはずだ。  霧は、ほこらから二十メートルほど先で、まるで壁のように立ちはだかっていた。  来た道が、見えない。  入ってきた杉林すぎばやしの暗がりも、その手前の雑木林ぞうきばやしも、笹藪ささやぶも、何もかもが白に溶けている。

「……なに、これ」

こよいの声が震えた。  巾着の中から、声が答えた。

「……きた」

「……なにが」

「……しらない」

「……でも、きた」

霧は、動いていなかった。  近づいてくるわけでも、遠ざかるわけでもない。ただ、そこにある。  まるで、扉が閉まったように。  来た道を、塞いでいる。

こよいは、ゆっくりと、ほこらとは反対の方向を見た。  北だ。山の奥。  そちらには、まだ道があった。細い獣道のような、人が通ったとは思えない道。  けれど、霧はない。

「……あっち、いける?」

「……いける」

「……でも、とおい」

「……なにが」

「……まち」

こよいは、唇を噛んだ。  振り返っても、霧は消えない。  白い壁は、静かに、確かに、そこにある。

「……戻れない」

声に出すと、その言葉が本当になった気がした。  巾着が、腰で重く揺れる。  二つの気配が、その中で静かに息をしている。

こよいは、北へ向かって歩き出した。  背後で、ほこらの屋根が、最後にもう一度、ぎし、と鳴いた。  悲鳴か、見送りか。  振り返らなかった。  振り返っても、何も見えないことは分かっていたから。

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