北へ向かった道は、思ったよりも険しくなかった。 霧の壁を背にして歩くと、いつの間にか尾根に出た。右を見れば、こよいが知っている霧原町の輪郭が、遠くにぼんやりと見える。 帰れるかもしれない。 東へ迂回すれば、峠道がある。子どもの頃、父に連れられて一度だけ歩いた道だ。あの道なら、町の東端に出られる。
巾着の中で、二つの気配が小さく揺れた。
「……かえる?」
祠の神の声。
「……うん。でも、遠回りする」
「……あの、きり、おかしい」
空き地の神の声が続いた。
「……ふつうの、きり、じゃない」
こよいは振り返った。 南の方角に、白い壁がまだ見える。動いていない。追いかけてくるわけでもない。ただ、そこにある。
「……わかってる」
東の峠道は、予想通りそこにあった。 かつての街道だったらしい。道幅があり、砂利が敷かれ、歩きやすい。けれど、人の気配はない。草が道を侵食し始めている。 下り坂を降りていくと、町の屋根が近づいてきた。 見慣れた風景だ。瓦屋根が並び、煙突から薄い煙が立ち上る。夕方の町。いつもの町。 なのに、何かがおかしい。
町の東端から入ったとき、最初に気づいたのは、静けさだった。 この時間なら、子どもたちが遊んでいるはずだ。井戸端で主婦たちが話をしているはずだ。犬が吠え、鶏が鳴き、生活の音で満ちているはずだ。 それが、ない。 人はいる。けれど、誰も喋っていない。家の中に引っ込んでいる。通りを歩く者は、足早に過ぎていく。目を合わせない。
商店通りに入ったとき、こよいは立ち止まった。 見知らぬ人たちがいた。 三人。いや、四人か。灰色の作業着を着て、鍔付き帽子を深く被っている。 彼らは、何かを「測って」いた。
三脚を立て、その上に真鍮製の箱を載せている。箱の前面には黒いガラスのレンズがあり、上部には細い針がついている。針が、かすかに振れている。 一人が箱を覗き込み、一人が帳面に何かを書き込む。 カチ、カチ、と小さな音がする。
「……あれ」
巾着の中から、祠の神の声が震えた。
「……だめ、みつかる」
空き地の神も、小さく呻いた。
「……はかる、やつ」
こよいは、ゆっくりと後ずさろうとした。 遅かった。 帳面を持っていた男が、顔を上げた。 目が合った。
その目には、感情がなかった。 冷たいとか、怖いとか、そういうのとも違う。ただ、何も映っていない。ガラス玉のような目。まばたきをしない。 男は、こよいを見た。 それから、ゆっくりと帳面に何かを書き込んだ。 ペン先が紙を引っ掻く音が、妙に大きく聞こえた。
「……にげて」
巾着が震えた。 その瞬間、こよいは走り出していた。
路地裏に飛び込んだ。 狭い。壁と壁の間が、腕を広げたら届きそうなくらい。土壁の匂いがする。足元は湿った土で、走るたびに跳ねる。 後ろから、足音がした。 追ってきている。でも、走っている音じゃない。歩いている音だ。カツ、カツ、と規則正しく、機械みたいに均一な足音。
曲がり角を左に折れた。 古い井戸が見えた。ここは知っている。子どもの頃、かくれんぼで使った場所だ。 井戸の裏に回り、積まれた薪の陰に身を潜めた。 息が荒い。心臓がうるさい。巾着が腰で揺れ、中の神々が怯えているのが伝わってくる。
足音が近づいてきた。 カツ、カツ、カツ。 止まった。 井戸の広場だ。すぐそこに、誰かがいる。
「……見失った」
声がした。低く、抑揚のない声。
「探せ。まだ近くにいる」
別の声。同じように平坦で、感情がない。
「巾着を持っていた。揺らぎの発生源だ」
「測定は?」
「途中だ。動いたせいで数値が乱れた」
こよいは、息を殺した。 汗が額を伝う。心臓の音が、彼らに聞こえてしまいそうだ。
「……戻れ。別の方法を取る」
足音が遠ざかっていく。 カツ、カツ、カツ。 やがて、聞こえなくなった。
それでも、こよいは動けなかった。 薪の陰で、膝を抱えたまま、長い時間が過ぎた。 日が傾き、影が長くなるまで。
家に帰ったのは、夕日が屋根に沈みかけた頃だった。 裏口から入ると、台所に母がいた。 背を向けている。いつもなら、こよいの足音に気づいて振り返るはずだ。けれど、今日は振り返らない。
「……かあさん」
「……知ってる」
母の声は、低かった。
「今朝から、あの人たちがいる。町中を測って回ってる」
「……あれ、なに」
「知らない。でも、来る前から、空気が変だった」
母は、振り返った。 その手に、古い革製の背負い鞄があった。使い込まれた茶色の革。父が使っていたものだ。
「これを」
母は、鞄を差し出した。
「着替えと、干し餅と、水。お金も少し入れた」
「……かあさん」
「今日中に出なさい」
声が震えていた。けれど、目は真っ直ぐにこよいを見ている。
「どこへ行けばいいか、分からない。でも、ここにいちゃいけない」
「……どうして」
「聞かないで」
母は、背を向けた。 肩が小さく震えている。
こよいは、鞄を受け取った。 ずしりと重い。革の匂いがする。父の匂いだ。
「……いってくる」
声が、かすれた。
「……気をつけて」
母の声も、かすれていた。 それ以上、何も言えなかった。
部屋に戻り、巾着を腰に結び直した。 鞄を背負う。肩紐が食い込む。 窓の外を見ると、商店通りの方角に、小さな光が点滅していた。 あの三脚についていた機械が、何かを測っているのだ。
「……いかないと」
祠の神の声。
「……あれに、みつかると、だめ」
「……どうなるの」
「……しらない。でも、だめ」
こよいは、深く息を吸った。 家を出る。母を置いていく。町を離れる。 そう決めた瞬間、胸の奥で何かが音を立てて閉じた。
玄関を開けようとしたとき、外から声が聞こえた。 低く、感情のない声。
「対象を見失うな」
「この区画を再測定する」
「揺らぎが収束すれば、位置が特定できる」
こよいは、玄関から手を離した。 裏口だ。裏口から出て、畑の方へ抜ける。 足音を立てないように、ゆっくりと歩く。 心臓が、喉元まで上がってきているような感覚。
背後で、玄関を叩く音がした。 コン、コン、コン。 機械的で、均一な音。
こよいは、走り出した。 振り返らなかった。 振り返れば、何かが終わってしまう気がした。
夜の闇の中へ、こよいは駆け出した。 背中に、母の用意した鞄。腰に、神々の入った巾着。
「対象を見失うな」
その声が、耳の奥でいつまでも響いていた。
