第002話 空が揺れる
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第002話 空が揺れる

第1章 霧の序章

翌朝、霧は嘘のように晴れていた。  空は高く、突き抜けるような青色が広がっている。風は冷たく、頬を撫でる感触が心地よい。昨日の出来事が、すべて悪い夢だったと言われれば、そう信じてしまいそうなほど、世界は鮮やかだった。

こよいは布団の中で目を開け、しばらく天井の木目もくめを見つめた。  節穴が、誰かの目のように見下ろしている。三つの穴が、年輪の同心円どうしんえん虹彩こうさいのようにまとい、じっとこちらを観察している。  耳を澄ませても、声は聞こえない。  腰のあたりに置いた巾着に手を伸ばす。鈴も鳴らない。ただの古びた布袋だ。  それでも、触れると指先がひやりとした。昨日の霧の冷たさが、そこに閉じ込められているかのように。  こよいは指を縮め、それからもう一度、そっと布を撫でた。

朝餉あさげを終え、こよいは学校へ向かった。  母は、いつも通り背中で見送る。洗い物をする背中が、少し小さく見えた。

「寄り道しないで帰りなさい」

「……うん」

その言葉は、約束ではなく、習慣だ。守れない日があることも、守らない日があることも、母は知っている。知っていて、それでも言う。

学校への道すがら、昨日の霧の話をする人は誰もいなかった。  商店街のおばさんも、通学路ですれ違う同級生も、まるで昨日は一日中晴れていたかのような顔をしている。

「昨日は真っ白だったよね」と言いかけて、こよいは口を閉じた。

自分だけが違う世界を見ていたのかもしれない。胃のいのふが冷たくなるような感覚が、朝の眩しさの中で膨らんだ。

学校では、伊佐夫いさお先生が出席を取っていた。

「はい」「はい」

子どもたちは声を揃えて返事をする。その声の響きが、今日はやけに平坦へいたんに聞こえる。  机の軋む音。窓の外を走る風。黒板に擦れるチョークの音。  どれも、ちゃんとそこにある。確かな質量を持って、現実を構成している。  こよいの名が呼ばれたとき、腰に結んだ巾着が、わずかに重くなった気がした。

「はい」

返事をする声が、少し裏返った。

それなのに、こよいの耳は、別の音を探していた。  昨日、聞いた声。  言葉になりきらない、輪郭のない声。  その余韻よいんの中で、こよいの胸にひとつの言葉が浮かんだ。

「集めてほしい」

それは願いなのか、命令なのか。

授業中、こよいは鉛筆を落とした。  ころり、と床を転がる。乾いた音が教室に響く。  拾おうとして屈み込んだとき、床の木目もくめが一瞬だけ、ずれて見えた。  板と板の境目が、揃っていない。そこに、ほんの小さな隙間がある。  暗い、底なしの隙間。  その隙間から、冷たい気配が滲み出ていた。  地下室の匂い。湿った土の匂い。

「……」

こよいは、何も言わずに鉛筆を拾った。指先が震えているのを、誰にも見られないように隠した。  言えば、消えてしまう気がした。あるいは、その隙間に引きずり込まれてしまう気がした。

帰り道、こよいは遠回りをした。  商店通りを抜け、川沿いの細い道へ。人通りが少なく、草の匂いが濃い。  ススキの穂が、西日を受けて金色に光っている。銀白の穂先が、夕陽に染まって揺れる様は、まるで炎のようだった。  昨日の板塀いたべいの空き地へ向かっていることを、こよい自身が一番よくわかっていた。足が勝手に動くのだ。

空き地の前で、こよいは立ち止まった。  今日は、板塀いたべいに打ち付けられていた「立入禁止」の札が、外されている。

札だけが消え、錆びた釘が三本、板塀いたべいに残っている。まるで、最初から札などなかったみたいに。  板塀いたべいの木に触れると、妙に生温かい。冷たい空気に晒されているはずなのに、動物の肌のような弾力がある。指を押し当てると、わずかに沈む。  こよいは、ぞっとして手を引いた。

それでも、板塀いたべいの隙間から中を覗いた。  昨日と同じ景色。  土。石。伸び放題の雑草。  そして、草の生えない丸い場所。あそこだけ、空気が凹んでいる。重力が違うみたいに、光さえも歪んでいる気がする。

こよいは、昨日より一歩、近づいた。  その瞬間、鈴が鳴った。  ちり。  澄んだ、高い音。耳ではなく、頭蓋骨に直接響くような音。  こよいは驚いて腰の鈴を押さえた。鳴ったのは確かに、自分の鈴だ。揺れた感覚がない。音だけが、先にそこにあった。

「……やっぱり」

声がした。  昨日と同じ声。低く、静かで、どこか疲れている。

「見える子だと思った」

こよいは、逃げなかった。  怖さはあった。心臓が早鐘はやがねを打っている。

「……だれ?」

声は、少し困ったように笑った。

「名前は、もうない」

「前は、あった」

こよいは、息を整えた。乾いた唇を舐める。

「……どうして、なくなったの」

「呼ばれなくなったから」

その答えは、あまりにも簡単で、重かった。

ほこらが壊れて、直されなくて、話されなくなって……そうしてるうちに、名前があわく、墨が雨に流れるみたいに」

こよいは、丸い痕を見つめた。

「……それで、消えるの」

「消える前に、お願いがある」

声は、胸に浮かんだ言葉を繰り返した。

「集めてほしい」

こよいの胸が、きゅっと縮む。

「……どうして、ぼく」

「見えるから」

「それだけ?」

「それだけ」

こよいは唇を噛んだ。  耳の奥が、熱を持ったように脈打つ。  自分の中にある空洞くうどうが、目の前の「消えかけているもの」と共鳴きょうめいしている気がした。

「……どこへ、集めるの」

「どこでもいい」

「持っていられる場所」

こよいは、腰の巾着に手を当てた。

「……ここ?」

声は、少しだけ驚いたようだった。

「……いいのかい。そんな、狭いところに」

「……わからない」

こよいは正直に言った。

「でも、ここなら……なくならない。ぼくが持っている限り」

沈黙。  それは、考える沈黙だった。

「……ありがとう」

声は、そう言った。

その瞬間。  空き地の空気が、ふっと軽くなった。  丸い痕が、みるみる縮んでいく。直径二メートルほどあったものが、一メートル、半メートルと小さくなり、最後には拳ほどの大きさになって――

こよいの巾着が、ほんの少し、重くなった。  重さは、物の重さじゃない。  気配の重さだ。

「……はいった?」

「……うん」

声は、巾着の内側から、遠く響いた。洞窟の奥から聞こえるようだ。

「これで、少し、待てる」

こよいは、巾着の口を、ぎゅっと結んだ。  結び目は、母が教えてくれた固い結び方だ。

そのとき、空が歪んだ。

一瞬だった。  まばたきよりも短い、ほんの刹那せつな。  青い空が、水面に石を投げ込んだときのように、波紋はもんを描いた。  波紋はもんは空全体に広がり、雲が揺れ、太陽の光が屈折くっせつして、世界の色が一瞬だけ濃くなった。  何事もなかったかのように、空は元の青に戻った。

「……いま」

こよいは、声を失った。  見たものが信じられなかった。

「……空が」

「……うん」

巾着の中から、声が答えた。

「……ぼくが、入ったから」

「……だから?」

「……世界が、少し、揺れた」

こよいは、自分の手を見た。  震えている。  巾着を握りしめた指が、白くなるほど力が入っている。

「……ほかにも、いるの」

声は、答えた。

「いる」

「もう、名前が薄いのが」

「もう、場所を失いかけているのが。この町には、たくさん」

こよいは、ゆっくりと空き地を後にした。  振り返ると、草の生えない丸い場所は、もうほとんど見えなくなっていた。  普通の空き地だ。板塀いたべいで囲われた、ただの空き地。でも、こよいは知っている。  ここで、何かが始まったのだと。

帰り道、西日が町を赤く染めていた。  影が長く伸び、自分の影の先に、もうひとつの影が重なっているような気がした。  巾着は、歩くたびに腰で揺れる。  その重さが、妙に温かかった。

空を見上げる。もう、歪んではいない。でも、さっき見たものは、確かにそこにあった。  世界が揺れた。  神がひとつ、こよいの元に来たから。

こよいは、走り出した。  家に帰らなければ。  今日のことを、誰にも言わないまま、普通の顔をして、夕餉ゆうげを食べなければ。  そうしないと、何かが壊れてしまう気がした。

背後で、空がもう一度、かすかに揺れた気がした。  振り返ったとき、もう何も見えなかった。  ただ、夕焼けの空が、いつもより少しだけ、深い色をしていた。

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