第295話 座標の濁流
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第295話 座標の濁流

第10章 波の端

石柱の列を抜けた先に、線路が待っていた。堆積層の帯のきわを巡る単線と、乗るべき者の前に現れる霧列車きりれっしゃ。最後の一言を聞き終えたこよいの手を、あさひが黙って引き、三人と一匹は北へ向かう車上の人になった。

列車が走り出してからしばらく経つのに、こよいの指先はまだ冷たかった。

石柱いしばしらに触れたときの温もりが、まだてのひらに残っている。残っているのに、冷たい。温もりと冷たさが同じ場所に重なって、どちらも消えない。

巾着きんちゃくを膝の上に置いた。神々はさっきから静かだった。石柱いしばしらのそばではあんなに強く脈打っていたのに、今は水面みなものようにいでいる。

列車の車輪がレールの継ぎ目を踏むたびに、車体が小さく揺れた。その揺れに合わせるように、巾着きんちゃくの中で神々がかすかに動く。

不意に、匂いがした。

すみの匂い。りたてではなく、何年も経った古い墨の、乾いて紙に染みた匂い。こよいは顔を上げたが、車内のどこにもそんなものはなかった。久遠くおん目録もくろくからでもない。もっと遠い場所から、空気そのものに混じって届いている。

経蔵きょうぞうが近いのだ。

そう思った瞬間、巾着きんちゃくが熱くなった。

脈動ではなかった。神々が一度だけ、ゆっくりとふくらむように温度を上げた。こよいは反射的に巾着きんちゃくを両手で押さえた。布越しに、光が指の隙間から漏れた。

見えた。

川だった。浅い川の底に、白い石が並んでいる。石の上を水が流れる音がする。川岸かわぎしにははぎが咲いている。誰かがそのはぎの枝を折って、水に浮かべている。

こよいは瞬きをした。川は消えた。膝の上の巾着きんちゃくがあるだけだった。

「今の——」

声が出なかった。見たものを言葉にする前に、また来た。

今度は音だった。木槌きづちが石を打つ音。一定の間隔で、淡々と。その音の隙間に、誰かの鼻歌が混じっている。聞いたことのない旋律せんりつだった。巾着きんちゃくから手を離すと、音も消えた。

「こよい。目録もくろくに何か起きてる」

久遠くおんの声だった。こよいが顔を向けると、久遠くおんは膝の上の目録もくろくを見下ろしたまま、眉を寄せていた。

開いたページに、文字が浮かんでいた。久遠くおん筆跡ひっせきではない。もっと古い、角張った書体。墨の色も違う。久遠くおんが使う蒼い文字ではなく、茶色くせた、何百年も前の墨色だった。

「俺は書いていない。目録もくろくが勝手に受信じゅしんしている」

久遠くおん義眼ぎがんで文字を読んだ。

「名前だ。二柱ふたはしら分の名前と、所在の記録。だがこの場所はもう存在しない。経蔵きょうぞうの原本からあふれた情報が、目録もくろくに流れ込んできている」

こよいは巾着きんちゃくに目を落とした。川の風景、木槌きづちの音。あれは神々が受け取った記憶だった。名前を失った神たちが最後まで持っていた、暮らしの断片。名前より先には消せなかったもの。

「ぼくにも見えた。神々が見せてくれた」

「何が見えた」

「川。はぎの花。石をたたく音」

久遠くおんは黙って目録もくろくの文字と、こよいの言葉を照合しているようだった。義眼ぎがん蒼光そうこうが細かく動いている。

「一致する。この名前の神は、川辺かわべ石工いしくだった」

あさひが座席の背もたれから体を起こした。肩に立てかけていた剣が、微かに震えている。つかめ込まれた緑色の結晶が、車内の薄い光の中で明滅していた。列車の振動とは別の周期しゅうきで、結晶そのものが脈打っている。

「剣も鳴ってる。さっきからずっとだ。レールの音じゃねえ」

あさひが布包みを膝に渡し、革紐かわひもの結び目を一つだけ解いた。露出した刀身が、低くうなるような振動を帯びている。あさひは刀身にてのひらを当て、その震えを読むように目を細めた。

巾着きんちゃくの神々と、二つの道具が、同時に反応していた。神々は記憶を受け取り、目録もくろくは名前を受信し、剣は何かの振動に共鳴している。経蔵きょうぞうに近づくほど、反応は強まっていく。窓の外を流れる風景も変わり始めていた。きりの色が白から灰色へ、灰色から墨色へと濃くなっている。

巾着きんちゃくがまた光った。今度はこよいから触れなくても来た。

土の匂いがした。湿った土。雨上がりの畑。誰かが土を掘っている。掘った穴に、種ではなく小さな石を埋めている。

映像はすぐに途切れた。けれど残った。てのひらの奥に、土の湿り気が染みたように残った。

「神々は——」

こよいは言葉を探した。容器だと思っていた。名前を入れる容器。でも違った。

「受けてるんだ。名前だけじゃなくて、その人が覚えてたことを」

久遠くおん目録もくろくを閉じた。新しい文字がまだ浮かび続けていて、閉じた表紙の隙間から微かに蒼い光が漏れている。

経蔵きょうぞうが近い。着いたら、もっと流れ込んでくる。覚悟しておけ」

こよいは巾着きんちゃくを胸に抱いた。神々が温かかった。石柱いしばしらで聞いた声とは違う温もりだった。あのときは最後の言葉だった。今のは、言葉ではなく、暮らしだった。好きだった川。毎日聞いた音。手に馴染んだ土の感触。

名前より先に消えないもの。名前が消えた後も残るもの。

神々はそれを受け取っている。

こよいは巾着きんちゃくひもを指に巻いた。もう離さない。経蔵きょうぞうに着くまでに、あといくつ流れ込んでくるか分からない。でも全部受け取る。石柱いしばしらのときと同じだ。触れた分だけ、覚える。

列車の車輪の音が変わった。レールの継ぎ目の間隔が狭くなっている。速度が落ちているのではない。線路そのものが密になっている。経蔵きょうぞうの周囲は、記録の密度が違うのだ。

古い墨の匂いが、一層濃くなった。  おたまが目を開け、鼻先を進行方向に向けた。神々と道具と一匹の猫が、同じ場所に向かって、それぞれのやり方で耳を澄ませていた。

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