石柱の列を抜けた先に、線路が待っていた。堆積層の帯の際を巡る単線と、乗るべき者の前に現れる霧列車。最後の一言を聞き終えたこよいの手を、あさひが黙って引き、三人と一匹は北へ向かう車上の人になった。
列車が走り出してからしばらく経つのに、こよいの指先はまだ冷たかった。
石柱に触れたときの温もりが、まだ掌に残っている。残っているのに、冷たい。温もりと冷たさが同じ場所に重なって、どちらも消えない。
巾着を膝の上に置いた。神々はさっきから静かだった。石柱のそばではあんなに強く脈打っていたのに、今は水面のように凪いでいる。
列車の車輪がレールの継ぎ目を踏むたびに、車体が小さく揺れた。その揺れに合わせるように、巾着の中で神々がかすかに動く。
不意に、匂いがした。
墨の匂い。擦りたてではなく、何年も経った古い墨の、乾いて紙に染みた匂い。こよいは顔を上げたが、車内のどこにもそんなものはなかった。久遠の目録からでもない。もっと遠い場所から、空気そのものに混じって届いている。
経蔵が近いのだ。
そう思った瞬間、巾着が熱くなった。
脈動ではなかった。神々が一度だけ、ゆっくりと膨らむように温度を上げた。こよいは反射的に巾着を両手で押さえた。布越しに、光が指の隙間から漏れた。
見えた。
川だった。浅い川の底に、白い石が並んでいる。石の上を水が流れる音がする。川岸には萩が咲いている。誰かがその萩の枝を折って、水に浮かべている。
こよいは瞬きをした。川は消えた。膝の上の巾着があるだけだった。
「今の——」
声が出なかった。見たものを言葉にする前に、また来た。
今度は音だった。木槌が石を打つ音。一定の間隔で、淡々と。その音の隙間に、誰かの鼻歌が混じっている。聞いたことのない旋律だった。巾着から手を離すと、音も消えた。
「こよい。目録に何か起きてる」
久遠の声だった。こよいが顔を向けると、久遠は膝の上の目録を見下ろしたまま、眉を寄せていた。
開いた頁に、文字が浮かんでいた。久遠の筆跡ではない。もっと古い、角張った書体。墨の色も違う。久遠が使う蒼い文字ではなく、茶色く褪せた、何百年も前の墨色だった。
「俺は書いていない。目録が勝手に受信している」
久遠が義眼で文字を読んだ。
「名前だ。二柱分の名前と、所在の記録。だがこの場所はもう存在しない。経蔵の原本から溢れた情報が、目録に流れ込んできている」
こよいは巾着に目を落とした。川の風景、木槌の音。あれは神々が受け取った記憶だった。名前を失った神たちが最後まで持っていた、暮らしの断片。名前より先には消せなかったもの。
「ぼくにも見えた。神々が見せてくれた」
「何が見えた」
「川。萩の花。石を叩く音」
久遠は黙って目録の文字と、こよいの言葉を照合しているようだった。義眼の蒼光が細かく動いている。
「一致する。この名前の神は、川辺の石工だった」
あさひが座席の背もたれから体を起こした。肩に立てかけていた剣が、微かに震えている。柄に嵌め込まれた緑色の結晶が、車内の薄い光の中で明滅していた。列車の振動とは別の周期で、結晶そのものが脈打っている。
「剣も鳴ってる。さっきからずっとだ。レールの音じゃねえ」
あさひが布包みを膝に渡し、革紐の結び目を一つだけ解いた。露出した刀身が、低く唸るような振動を帯びている。あさひは刀身に掌を当て、その震えを読むように目を細めた。
巾着の神々と、二つの道具が、同時に反応していた。神々は記憶を受け取り、目録は名前を受信し、剣は何かの振動に共鳴している。経蔵に近づくほど、反応は強まっていく。窓の外を流れる風景も変わり始めていた。霧の色が白から灰色へ、灰色から墨色へと濃くなっている。
巾着がまた光った。今度はこよいから触れなくても来た。
土の匂いがした。湿った土。雨上がりの畑。誰かが土を掘っている。掘った穴に、種ではなく小さな石を埋めている。
映像はすぐに途切れた。けれど残った。掌の奥に、土の湿り気が染みたように残った。
「神々は——」
こよいは言葉を探した。容器だと思っていた。名前を入れる容器。でも違った。
「受けてるんだ。名前だけじゃなくて、その人が覚えてたことを」
久遠が目録を閉じた。新しい文字がまだ浮かび続けていて、閉じた表紙の隙間から微かに蒼い光が漏れている。
「経蔵が近い。着いたら、もっと流れ込んでくる。覚悟しておけ」
こよいは巾着を胸に抱いた。神々が温かかった。石柱で聞いた声とは違う温もりだった。あのときは最後の言葉だった。今のは、言葉ではなく、暮らしだった。好きだった川。毎日聞いた音。手に馴染んだ土の感触。
名前より先に消えないもの。名前が消えた後も残るもの。
神々はそれを受け取っている。
こよいは巾着の紐を指に巻いた。もう離さない。経蔵に着くまでに、あといくつ流れ込んでくるか分からない。でも全部受け取る。石柱のときと同じだ。触れた分だけ、覚える。
列車の車輪の音が変わった。レールの継ぎ目の間隔が狭くなっている。速度が落ちているのではない。線路そのものが密になっている。経蔵の周囲は、記録の密度が違うのだ。
古い墨の匂いが、一層濃くなった。 おたまが目を開け、鼻先を進行方向に向けた。神々と道具と一匹の猫が、同じ場所に向かって、それぞれのやり方で耳を澄ませていた。
