第296話 名の粒子
296

第296話 名の粒子

第10章 波の端

列車が止まった。

車輪の音が消えると、残ったのは沈黙だけだった。蒼白い行灯(あんどん)がひとつ弱く明滅して、それきり灯(あか)りが落ちた。

扉は自分で開けた。外の空気が車内に流れ込んだ瞬間、こよいは息を詰めた。

乾いていた。紙を千年積み重ねた蔵の奥のような、水気のない、薄い空気。喉の粘膜が一息で引き攣(つ)るほどの乾燥の中に、古い墨と石の粉が混ざっている。

久遠(くおん)が先に降りた。あさひが最後に降り、背後で扉が閉まった。振り返ると列車はもう動き出しており、灰色の霧(きり)の中へ音もなく遠ざかっていく。

停車場(ていしゃじょう)は小さかった。石の台が一枚あるだけで、屋根もなく、標(しるべ)もない。線路はその先で途切れていた。終点だった。錆びた車止めが砂利の中に半ば埋もれて、ここより先には何も走らないのだと無言で告げている。

三人は歩いた。

石の台を降り、砂利を踏み、枯れた地面を踏んだ。砂利が途切れると地面は灰色の土に変わり、草も苔(こけ)もなかった。何も育たない土だ。百歩もいかないうちに、霧(きり)が薄くなった。

壁が現れた。

最初に見えたのは色だった。灰色でも白でもない、黄ばんだ象牙(ぞうげ)のような色。地面から立ち上がる石の面が、視界の左右を埋め尽くしていた。こよいは足を止めた。壁の上端(じょうたん)を探して首を反(そ)らしたが、見つからなかった。

石の面は途切れずに空へ続いている。霧(きり)に呑まれるのではなく、空そのものと同化するように、境目のない高さで消えていた。

「……どこまであるの」

こよいの声が乾いた空気に吸われて、すぐ傍(そば)にいる二人にさえ遠く聞こえた。

久遠(くおん)は答えず、壁の表面に義眼(ぎがん)の焦点を合わせていた。蒼光(そうこう)がゆっくりと壁を舐(な)めるように動く。その動きが途中で止まった。

「名前だ」

久遠(くおん)が呟(つぶや)いた。

こよいは壁に近づいた。一歩、二歩。手が届く距離で見ると、石の表面に文字があった。刻まれているのではなかった。文字そのものが石になっていた。何千、何万という名前が押し固められ、圧し潰(つぶ)されて、壁の材料になっている。色褪(いろあ)せ、半ば融(と)け合い、もう読めない文字の群れ。だがそれは確かに、一つひとつが誰かの名前だった。

「この壁自体が、記録なのか」

久遠(くおん)の声は分析ではなかった。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が震えていた。目録(もくろく)を読む時の冷徹な光ではない。ただ呆然(ぼうぜん)と、壁の規模を測り損ねている目だった。

こよいは右手を壁に触れた。

温かかった。

石のはずなのに、日向(ひなた)に置かれた古い本のような温もりがあった。巾着(きんちゃく)の中で神々が反応して微かに脈打ち、掌(てのひら)を通じて壁の奥の温度がこよいの腕を伝って胸まで届いた。何かが手の下で息をしている。名前の残響(ざんきょう)なのか、名前が押し固められてもなお消えきれなかった体温のようなものなのか、こよいには分からなかった。

「……あったかい」

こよいは掌(てのひら)を離せなかった。石柱(いしばしら)で聞いた声と同じだ。ここにも誰かがいる。いたのだ。何千という誰かが、壁になって、まだここにいる。

あさひは壁から三歩離れた場所に立っていた。

触れなかった。代わりに壁の厚みを見ていた。停車場(ていしゃじょう)の方から壁の断面が僅かに覗いている箇所があり、あさひはそこに歩み寄って目を細めた。

「分厚い。腕を伸ばしても足りない。何層にも重なっている」

層の一つひとつに、異なる時代の名前が封じられているのだろう。あさひの目は剣士の目だった。壁の強度を、突破の可能性を、肌で測っている。剣で斬れるものではなかった。斬れば名前が砕ける。それはあさひにも分かっていた。

それだけ確かめて、あさひは壁に沿って左右を見渡した。門を探していた。壁の表面はどこまでも均一で、継ぎ目もなく、開口部もなかった。門扉(もんぴ)の痕跡(こんせき)すらない。

「こっち側には、入口がねえ」

あさひの声に焦りはなかった。事実を確認しただけだった。

久遠(くおん)は壁から数歩下がり、目録(もくろく)を開いた。金色の文字がまだ光っている。東側の裂(さ)け目(め)。最初の神が書き残した注釈(ちゅうしゃく)の一行が、頁(ページ)の上で脈打っていた。

「東だ。壁に沿って東へ回る」

「どのくらいの距離だ」

「分からない。目録(もくろく)には距離が書かれていない。ただ——」

久遠(くおん)は壁を見上げた。上端(じょうたん)のない壁を。

「この大きさなら、相当歩く」

こよいは掌(てのひら)をようやく壁から離した。離した手のひらに、文字の跡(あと)が薄く残っていた。すぐに消えたが、指先にはまだ温もりがあった。

壁は何も言わなかった。石柱(いしばしら)のような声は聞こえなかった。ただ温かかっただけだ。それが余計にこよいの胸を締めた。声を出す力さえ、もう残っていないのだ。名前を壁にされた者たちには。

こよいは巾着(きんちゃく)を握り、三人は壁に沿って歩き始めた。

右手に壁。左手に霧(きり)。足元には細かい石の粉が積もっていて、踏むたびに乾いた音が立った。古い紙を踏むような音。壁から剥がれ落ちた、名の粒子——名前の欠片(かけら)が砂になったものだと、久遠(くおん)は言った。何千年ぶんの名前が、風化して、粉になって、それでもこの壁の足元を離れずにいる。掬(すく)えば掌に載る。読むことは、もうできない。それでも、粒の一つ一つが、かつて誰かだった。  おたまは、粉の上を歩いても足跡を残さなかった。名の粒子は、猫の足の下で、乱れもしなかった。

風はなかった。空気が動かないのだ。壁が風を遮っているのか、この場所にはそもそも風という概念が存在しないのか。静かすぎて、三人の足音だけが壁に反射して返ってくる。その反響が妙に長く、壁の向こうに広大な空間があることを耳で教えていた。

こよいは一度だけ振り返った。

壁は霧(きり)の中に果てしなく続いていた。始まりも終わりも見えない。世界をまるごと囲い込むようにして、経蔵(きょうぞう)は建っていた。

お読みいただきありがとうございます

4つの小説投稿サイトでお読みいただけます