石柱の列は、闇の奥まで続いていた。
こよいは三人から少し離れて、二重線のある石柱のひとつに立ち止まった。久遠とあさひは別の石柱を調べている。声が届かないほどの距離ではなかったが、こよいはひとりでいたかった。
巾着が、腰のあたりで微かに揺れた。
神々の脈動ではない。もっと弱い、もっと遠い何かに反応している。こよいは石柱の前にしゃがみ、刻まれた名前に手を伸ばした。風化した古い文字の上に、最初の神が引いた二重線。その彫りは浅く、爪で引っ掻いたように細かった。
指先が二重線に触れた瞬間、巾着の底が温かくなった。
おたまは、二重線の石柱の列を、一本ずつ確かめるように歩いていた。線のない柱は素通りし、線のある柱の前でだけ、わずかに歩を緩める。
声が聞こえた。
声というには曖昧すぎた。空気の震えのような、吐息のような、言葉になりきれなかった何か。けれどこよいの耳には、確かに聞こえた。
「ありがとう」
短かった。たった五文字。それだけで、石柱の温度がほんの少し上がった気がした。こよいは指を離せなかった。離したら消えてしまうと思った。
「……聞こえた」
こよいの声は震えていた。誰に言ったのでもなかった。自分自身に確かめるように、唇が動いた。
隣の石柱に移った。二重線がある。こよいは同じように指を触れた。巾着が応えるように脈打つ。
今度は別の声だった。
「覚えていて」
五文字。声の主は分からなかった。男か女かも、若いのか老いているのかも。ただその五文字が、石の中に何百年も閉じ込められていたのだということだけが、指先を通じて伝わってきた。寒くはなかった。むしろ温かかった。忘れられまいとする意志が、体温のようにこよいの掌を包んだ。
三本目の石柱。
二重線に触れた。巾着が光った。
声はなかった。
言葉にならなかった最後の瞬間が、そのまま石の中に封じられていた。代わりに温もりだけがあった。手を握られたような、頬に触れられたような、そういう温もり。言葉を持たない別れの形。こよいの目から涙が一粒落ちた。石柱の表面で弾けて、二重線の溝に沿って流れた。
「こよい」
久遠の声がした。低く、静かに。
こよいは振り返らなかった。涙を拭いてから振り返ろうとしたが、涙が止まらなかった。だから背中を向けたまま答えた。
「聞こえるの、久遠。この石に……最後の言葉が残ってる」
久遠がこよいの傍に来た。
義眼の蒼光が石柱を照らした。二重線の筆跡を丁寧に辿っている。光の筋が彫りの底まで届き、石の奥に刻まれた微細な紋様を浮かび上がらせた。
「復元の刻印に、時刻が入っている」
久遠の声には、いつもの分析的な冷たさがなかった。
「最も古いものは、八百年前だ。最も新しいものが、二百年前。その間に、一柱ずつ。数十年の間隔を置いて」
こよいは石柱の列を見渡した。二重線のある石柱は、全体の三分の一にも満たなかった。残りの石柱には、横線だけが鮮やかに残っている。消されたまま、誰にも復元されなかった名前たち。
「一柱ずつ……」
「観測者に気づかれないように。目立たない場所から、目立たない順番で。ここに来て、名前を書き直して、去った。何百年も、ひとりで」
あさひが石柱の間を歩いてきた。剣を肩に担いだまま、二重線のない石柱を見ている。圧倒的に多いその数を、黙って数えていた。
「全部は聞けなかったのか」
あさひの声は低く、硬かった。
久遠は答えなかった。すぐには。
義眼の蒼光が二重線の刻印をもうひとつ照らし、そこに残された時刻を読んだ。また別の石柱に移り、また読んだ。三つ、四つと。同じ動作を繰り返しながら、久遠の唇が薄く震えていた。
「聞いたんだ。……おそらく、全部」
久遠が言った。
「見ろ。二重線のない柱にも、同じ接触の跡がある。表面の風化の下に、掌の脂が石に染みた層——触れた者の痕跡が、どの柱にも残ってる。復元できた柱と、できなかった柱の差は、線の有無だけだ。触れた跡は、全部にある」
沈黙が落ちた。
「全部聞いて、全部は書けなかった。時間が足りなかったんじゃない。一柱ずつしか、書けなかったんだ。観測者の目を盗んで、数十年に一度だけ。ここに来て、たったひとつの名前を復元して、また去る。次に来られるのは何十年も先だと知りながら」
あさひが石柱のひとつを拳で叩いた。強くはなかった。ただ手を置いただけに近い動作だった。けれどその拳が、石の表面から離れなかった。
「聞いたのに、書けない。そういう時間が、何百年も続いたってことか」
久遠は頷いた。目録を開かなかった。記録する必要はなかった。この場所が、すでに記録そのものだったから。
こよいは最初の石柱に戻った。「ありがとう」と言った石。指先を触れると、もう声は聞こえなかった。一度だけの声だったのだ。石の中に何百年も溜め込まれた最後の一言は、聞いてくれる者が現れた瞬間に、全てを使い果たして消えた。
「この人は、最初の神に言ったんだ」
こよいの声はまだ震えていた。
「ありがとう、って。名前を書き直しに来てくれたとき。消される直前に、最初の神に向かって。それが最後の言葉だった」
久遠が目を伏せた。義眼の蒼光が弱まり、石柱の影が濃くなった。
「覚えていて、も同じだ。消される神が、最初の神に頼んだ。覚えていてくれ、と。最初の神は覚えていた。覚えていたから、何百年もかけて、ここに通い続けた」
あさひが石柱から手を離した。拳を開き、掌で石の表面を撫でた。荒い手だった。剣胼胝のある、傷だらけの手。その手が、消された神の名前の上を、ゆっくりと通り過ぎた。
「俺が聞いても、声はしねえか」
「しない。巾着がなければ、聞こえない。神々が媒介になっている」
「じゃあ、こよい。おまえが全部聞け」
こよいは顔を上げた。あさひの目が真っ直ぐにこよいを見ていた。
「聞いて、覚えろ。全部は無理でも、触れた分だけ覚えろ。俺にはそれができない。久遠にもできない。おまえにしかできない」
こよいは巾着を握った。神々が温かく応えた。
石柱の列は、闇の奥まで続いていた。全てに触れることはできない。けれどこよいは、次の石柱へ歩いた。二重線に指を触れた。
声が聞こえた。
「大丈夫」
たった三文字。それがその神の、最後の言葉だった。
こよいは頷いた。涙を拭わなかった。拭ったら、聞こえなくなる気がした。
次の石柱へ。また次へ。ひとつずつ。最初の神がそうしたように、こよいもまた、ひとつずつ触れていった。
