第294話 神々の最後の一言
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第294話 神々の最後の一言

第10章 波の端

石柱いしばしらの列は、闇の奥まで続いていた。

こよいは三人から少し離れて、二重線のある石柱いしばしらのひとつに立ち止まった。久遠くおんとあさひは別の石柱いしばしらを調べている。声が届かないほどの距離ではなかったが、こよいはひとりでいたかった。

巾着きんちゃくが、腰のあたりで微かに揺れた。

神々の脈動ではない。もっと弱い、もっと遠い何かに反応している。こよいは石柱いしばしらの前にしゃがみ、刻まれた名前に手を伸ばした。風化ふうかした古い文字の上に、最初の神が引いた二重線。その彫りは浅く、爪で引っ掻いたように細かった。

指先が二重線に触れた瞬間、巾着きんちゃくの底が温かくなった。

おたまは、二重線の石柱の列を、一本ずつ確かめるように歩いていた。線のない柱は素通りし、線のある柱の前でだけ、わずかに歩を緩める。

声が聞こえた。

声というには曖昧あいまいすぎた。空気の震えのような、吐息のような、言葉になりきれなかった何か。けれどこよいの耳には、確かに聞こえた。

「ありがとう」

短かった。たった五文字。それだけで、石柱いしばしらの温度がほんの少し上がった気がした。こよいは指を離せなかった。離したら消えてしまうと思った。

「……聞こえた」

こよいの声は震えていた。誰に言ったのでもなかった。自分自身に確かめるように、唇が動いた。

隣の石柱いしばしらに移った。二重線がある。こよいは同じように指を触れた。巾着きんちゃくが応えるように脈打つ。

今度は別の声だった。

「覚えていて」

五文字。声の主は分からなかった。男か女かも、若いのか老いているのかも。ただその五文字が、石の中に何百年も閉じ込められていたのだということだけが、指先を通じて伝わってきた。寒くはなかった。むしろ温かかった。忘れられまいとする意志が、体温のようにこよいのてのひらを包んだ。

三本目の石柱いしばしら

二重線に触れた。巾着きんちゃくが光った。

声はなかった。

言葉にならなかった最後の瞬間が、そのまま石の中に封じられていた。代わりに温もりだけがあった。手を握られたような、頬に触れられたような、そういう温もり。言葉を持たない別れの形。こよいの目から涙が一粒落ちた。石柱いしばしらの表面で弾けて、二重線の溝に沿って流れた。

「こよい」

久遠くおんの声がした。低く、静かに。

こよいは振り返らなかった。涙を拭いてから振り返ろうとしたが、涙が止まらなかった。だから背中を向けたまま答えた。

「聞こえるの、久遠くおん。この石に……最後の言葉が残ってる」

久遠くおんがこよいのそばに来た。

義眼ぎがん蒼光そうこう石柱いしばしらを照らした。二重線の筆跡ひっせきを丁寧に辿たどっている。光の筋が彫りの底まで届き、石の奥に刻まれた微細な紋様もんようを浮かび上がらせた。

復元ふくげん刻印こくいんに、時刻が入っている」

久遠くおんの声には、いつもの分析的な冷たさがなかった。

「最も古いものは、八百年前だ。最も新しいものが、二百年前。その間に、一柱ひとはしらずつ。数十年の間隔を置いて」

こよいは石柱いしばしらの列を見渡した。二重線のある石柱いしばしらは、全体の三分の一にも満たなかった。残りの石柱いしばしらには、横線だけが鮮やかに残っている。消されたまま、誰にも復元ふくげんされなかった名前たち。

一柱ひとはしらずつ……」

観測者かんそくしゃに気づかれないように。目立たない場所から、目立たない順番で。ここに来て、名前を書き直して、去った。何百年も、ひとりで」

あさひが石柱いしばしらの間を歩いてきた。剣を肩にかついだまま、二重線のない石柱いしばしらを見ている。圧倒的に多いその数を、黙って数えていた。

「全部は聞けなかったのか」

あさひの声は低く、硬かった。

久遠くおんは答えなかった。すぐには。

義眼ぎがん蒼光そうこうが二重線の刻印こくいんをもうひとつ照らし、そこに残された時刻を読んだ。また別の石柱いしばしらに移り、また読んだ。三つ、四つと。同じ動作を繰り返しながら、久遠くおんの唇が薄く震えていた。

「聞いたんだ。……おそらく、全部」

久遠くおんが言った。

「見ろ。二重線のない柱にも、同じ接触の跡がある。表面の風化の下に、掌のあぶらが石に染みた層——触れた者の痕跡が、どの柱にも残ってる。復元できた柱と、できなかった柱の差は、線の有無だけだ。触れた跡は、全部にある」

沈黙が落ちた。

「全部聞いて、全部は書けなかった。時間が足りなかったんじゃない。一柱ひとはしらずつしか、書けなかったんだ。観測者かんそくしゃの目を盗んで、数十年に一度だけ。ここに来て、たったひとつの名前を復元ふくげんして、また去る。次に来られるのは何十年も先だと知りながら」

あさひが石柱いしばしらのひとつをこぶしたたいた。強くはなかった。ただ手を置いただけに近い動作だった。けれどそのこぶしが、石の表面から離れなかった。

「聞いたのに、書けない。そういう時間が、何百年も続いたってことか」

久遠くおんうなずいた。目録もくろくを開かなかった。記録する必要はなかった。この場所が、すでに記録そのものだったから。

こよいは最初の石柱いしばしらに戻った。「ありがとう」と言った石。指先を触れると、もう声は聞こえなかった。一度だけの声だったのだ。石の中に何百年も溜め込まれた最後の一言は、聞いてくれる者が現れた瞬間に、全てを使い果たして消えた。

「この人は、最初の神に言ったんだ」

こよいの声はまだ震えていた。

「ありがとう、って。名前を書き直しに来てくれたとき。消される直前に、最初の神に向かって。それが最後の言葉だった」

久遠くおんが目を伏せた。義眼ぎがん蒼光そうこうが弱まり、石柱いしばしらの影が濃くなった。

「覚えていて、も同じだ。消される神が、最初の神に頼んだ。覚えていてくれ、と。最初の神は覚えていた。覚えていたから、何百年もかけて、ここに通い続けた」

あさひが石柱いしばしらから手を離した。こぶしを開き、てのひらで石の表面をでた。荒い手だった。剣胼胝けんだこのある、傷だらけの手。その手が、消された神の名前の上を、ゆっくりと通り過ぎた。

「俺が聞いても、声はしねえか」

「しない。巾着きんちゃくがなければ、聞こえない。神々が媒介ばいかいになっている」

「じゃあ、こよい。おまえが全部聞け」

こよいは顔を上げた。あさひの目が真っ直ぐにこよいを見ていた。

「聞いて、覚えろ。全部は無理でも、触れた分だけ覚えろ。俺にはそれができない。久遠くおんにもできない。おまえにしかできない」

こよいは巾着きんちゃくを握った。神々が温かく応えた。

石柱いしばしらの列は、闇の奥まで続いていた。全てに触れることはできない。けれどこよいは、次の石柱いしばしらへ歩いた。二重線に指を触れた。

声が聞こえた。

「大丈夫」

たった三文字。それがその神の、最後の言葉だった。

こよいはうなずいた。涙をぬぐわなかった。ぬぐったら、聞こえなくなる気がした。

次の石柱いしばしらへ。また次へ。ひとつずつ。最初の神がそうしたように、こよいもまた、ひとつずつ触れていった。

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