設計者の残した空白は、歩いても歩いても、続いていた。
こよいは何度も立ち止まり、周囲を見回した。
平坦な地面が、四方に広がっている。端が見えない。霧もなく、風も吹かない。ただ灰色の空の下に、何もない地面がある。土の色は灰色ではなかった。淡い赤褐色で、乾き切っている。ひび割れ一つない。石碑の欠片も、記録の紙片も、落ちていない。地面そのものが磨き上げられたように均質で、足跡すら残りにくかった。
「広すぎる」
久遠が目録を開いた。義眼の蒼光が地面を走ったが、何も映し出さない。光が地面に吸い込まれるのではなく、反射もしないまま通り抜けていく。照らす対象がないのだ。
「記録がない。この区画だけ、情報の堆積が一切ない。周囲は何層にも積もっているのに、ここだけが空だ」
「壊されたのか」
あさひが剣の柄に手を添えた。久遠は首を横に振った。
「壊された痕跡がない。削り取られた形跡も、風化した様子もない。最初から何も書かれていない。意図的に空けてある」
こよいは地面にしゃがみ、指先で土に触れた。温度がなかった。忘却の海では冷たく、堆積層の上では温かかったのに、ここだけは体温と同じ温度で、触っている感覚が薄い。指先の下の土は乾いているはずなのに、砂粒の一つも指に付かなかった。触れているのに、何も残らない。
「……ここだけ、何も感じない」
「感じないのではない。何も書かれていないから、感じるものがないんだ」
久遠が目録の頁を繰った。白紙の頁が続く。この空白に対応する記録自体が、目録にも存在しない。頁をめくるたびに、紙が擦れる音だけが空白の上に小さく響いた。
「これは破壊ではない。予約だ」
久遠の声が、わずかに変わった。いつもの分析的な平坦さの下に、驚きが混じっている。義眼の蒼光が一瞬だけ強まり、すぐに元に戻った。
「設計者は、ここに何かを書くつもりだった。まだ書いていない」
沈黙が落ちた。空白の上に落ちる沈黙は、他の場所の沈黙とは質が違った。音がないのではなく、音を受け止める器そのものがない。三人の呼吸さえ、地面に吸い込まれるように薄くなった。
あさひが腕を組んだまま、空白の地面を見下ろしている。
「書くつもりで、書かなかったのか。書けなかったのか」
「分からない。だが、空白の境界線に署名がある」
久遠は義眼を空白の縁に向けた。滑らかな地面と、情報の堆積層の境界。その境目に、微かな刻印が走っている。刻印は地面の色とほとんど同じ色で、しゃがんで目を凝らさなければ見えないほど薄かった。
「経蔵の原本と同じ筆跡だ。星野の井戸の封印と同じ手。最初の神が、この空白の輪郭を自分の手で区切っている」
おたまが、空白のただ中で、ころりと横になった。腹を上に向け、伸びをする。緊張の欠片もない。まだ何も書かれていない場所は、猫にとって、ただの上等な昼寝の床だった。その無防備さが、空白の意味をいちばん正しく言い当てているような気もした。
こよいは空白の中央に立った。巾着の中の神々は静かだった。脈打ちもしない。反応しない。空白の中では、神々もまた空白になるのかもしれなかった。布越しの温度が、こよいの体温と完全に同じになっている。区別がつかない。神々がここにいるのか、自分の体温を感じているだけなのか。
だが不思議と、怖くはなかった。
「……約束みたいだ」
「何の」
あさひが振り返った。
「書くって約束。まだ書いてないけど、場所だけは取ってある。いつか書くために」
久遠が目録を閉じた。義眼の光を落とし、自分の目で空白を見ている。蒼光を消した久遠の瞳は暗い色をしていて、空白の地面を映してもなお、何かを読み取ろうとする光が残っていた。
「設計者が名の循環を書いたとき、全てを書き終えたわけではなかった。あの手紙の言う通りなら——名の仕組みは、完成品ではなく、書きかけだった。この空白は、まだ続きがあるという宣言だ」
風が吹いた。空白の中を吹き抜ける風には、匂いがなかった。何も含んでいない風。だがその風に、こよいは微かな体温を感じた。
人の体温ではない。もっと古い、もっと大きなものの温もり。世界を作ろうとした存在が、ここに立って、何を書こうか考えていた。その思案の残り香のようなもの。
「……設計者は、ここで何を書くつもりだったんだろう」
「それを知るには、経蔵に行くしかない。設計者の意図が記録されているとすれば、そこだ」
久遠が地平線の方角を見た。塔の輪郭が、空白の向こうにそびえている。
あさひは空白の地面を一度踏み鳴らした。音が返ってこなかった。何もないから、反響もない。あさひの靴底が地面を叩いた衝撃は、土の中に吸い込まれて消えた。
「気味が悪いな。壊れた場所の方がまだ分かりやすい」
「壊れたのではないから、直す必要もない。ただ待っている場所だ」
久遠が歩き始めた。こよいとあさひが続く。
空白を横切るとき、こよいは一度だけ足を止めた。巾着の中で、神々がほんの微かに温まった気がした。空白の中で、神々は反応しないはずだった。
だが今、布越しに感じる温度が、ほんの少しだけ上がっている。
設計者の体温と、神々の温度が、同じ周波数で震えている。
こよいは何も言わず、歩き続けた。空白の終わりが見えてきた。空白の先には、また石碑や記録の断片が散らばっている。世界が書かれた場所が、再び始まる。
空白の縁を越えるとき、背中に微かな気配を感じた。
振り返っても、何もない。空白はただ空白のまま、灰色の空の下に横たわっている。
だがこよいには、分かった。
あの空白は、空っぽではない。まだ書かれていないだけだ。いつか誰かが書くために、設計者が残した余白。
それは壊れた世界の傷痕ではなく、まだ終わっていない物語の続きだった。
空白を抜けた先で、再び石碑の帯が始まった。だが、様子が違った。 石碑ではなく——石柱。より背が高く、等間隔に並び、列は薄闇の奥まで続いている。そして、いくつかの石柱の消された名前の上に、細い線が二本、丁寧に重ねて引かれていた。 二重線。消された名前の上に、誰かが、あとから引いた線。
「消したのとは、別の手だ」
久遠の蒼光が線をなぞった。星野の井戸の封印と、あの手紙と、同じ筆致だった。
最初の神が、ここに来て、何かを引き直している。二重線の石柱の列が、闇の奥へ、三人を待つように続いていた。
