第292話 設計者の残した空白
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第292話 設計者の残した空白

第10章 波の端

足が重かった。

まくを抜けてから、歩みが鈍い。息を吸うたびに、空気の重さが肺の底に溜まる。忘却ぼうきゃくの海の中では軽かった体が、今は一歩ごとに地面に引かれている。重力が変わったのではない。身体が背負うものが増えたのだ。

覚えている、ということの重さ。それが今、こよいの肩と膝にのしかかっている。忘れる場所では、忘れる分だけ軽かった。覚える側に渡った身体は、覚えた分だけ重くなる。

こよいは両手を見た。てのひらしわが、妙にくっきりと見える。忘却ぼうきゃくの海の中では、自分の手の形さえ曖昧あいまいだった。きりが記憶の輪郭りんかくを削り、見慣れたものが見慣れないものに変わっていく場所だった。

ここは違う。すべてが鮮明だった。空気の匂い、足元の土の硬さ、遠くで風が岩肌いわはだを叩く乾いた音。世界が輪郭りんかくを取り戻している。鮮明であることが、こんなにも重いとは知らなかった。

空は低く、灰色の雲が大地すれすれに垂れ込めている。  道の両脇に、石碑せきひが立っている。低いものはひざほど、高いものはこよいの背を超える。表面にはひらがなが刻まれ、文字のみぞに金色の粉が残っていた。風化しかけているが、まだ読める。

こよいは一つの石碑せきひに近づき、文字をなぞった。

「……名前だ」

三文字。人の名前だった。こよいの知らない名前。いつ刻まれたのかも分からない。だが石の冷たさの奥に、かすかな脈動みゃくどうが残っている。指先に伝わるその拍は、巾着きんちゃくの神々の脈よりもずっと弱く、ずっと古い。長い眠りの底で、かろうじて鼓動こどうを続けている。

「記録の堆積層たいせきそうだ」

久遠くおん義眼ぎがんで周囲を走査そうさした。蒼光そうこう石碑せきひに当たるたびに、刻まれた文字が一瞬だけ明るくなる。

忘却ぼうきゃくの海の外側に、名前の記録が堆積たいせきしている。海の中で消されたものがここに流れ着いたのか、あるいは最初からここに記録されていたのか。どちらにしても、膨大な量だ」

石碑せきひの列は果てがなかった。道の両側だけではなかった。少し離れた場所にも、さらにその向こうにも、灰色の空の下に無数の石碑せきひが並んでいる。墓地に似ているが、ここに眠っているのは死者ではない。名前だ。

あさひが石碑せきひの一つを手のひらで叩いた。硬い音がした。

「冷てえな。こよい、触ったとき何か感じたか」

「脈がある。弱いけど。この石碑せきひの中に、まだ名前が残ってる」

あさひは手を引き、指先をころもすそぬぐってから、剣のつかに戻した。

「全部の石碑せきひに名前が入ってるのか」

「おそらく」

久遠くおん目録もくろくを繰った。ページに文字が戻っている。忘却ぼうきゃくの海の中では白紙だったページに、座標ざひょうと名前の断片が浮かび上がっていた。

目録もくろくの記録が復元されている。まくの外側では、忘却ぼうきゃくの力が届かない。消された記録が、元の場所に戻ろうとしている」

こよいは巾着きんちゃくを胸に寄せた。神々の脈が強い。忘却ぼうきゃくの海の中ではかすかだった鼓動こどうが、今は胸の骨に響くほどはっきりと打っている。名前を覚えていることの力が、ここでは身体ごと支えてくれる。

三人は石碑せきひの間を歩いた。石碑せきひ石碑せきひの隙間から、乾いた風が吹き抜ける。風に乗って、かすかに甘い匂いがした。名前の残り香だろうか。忘却ぼうきゃくの海ではぐことのできなかった、記憶の匂い。

歩くほどに、こよいの頭の中に記憶が戻ってくる。忘却ぼうきゃくの海の中で薄れていたもの。しおりの手帳の触感。八重やえ処方箋しょほうせんの崩し字。星降町ほしふりまちの鐘の音。名前たちの声。

全部が、一度に戻ってくる。

こよいは足を止めた。ひざが震えている。

「……重い」

「覚えていることは重い。だが、覚えていることだけが、この先で役に立つ」

久遠くおんは歩みを緩めず、ただ声を落として言った。

あさひがこよいの腕を取った。乱暴に。指の力が骨に食い込むほど強い。だがそのおかげで膝が伸びた。あさひの手は熱かった。記憶の重さに震えているこよいの腕に、その熱が染み込んでくる。

「歩け。止まるな。重くても歩いてりゃ慣れる」

石碑せきひの列が、やがて途切れ始めた。密集みっしゅうしていた石が間隔を広げ、まばらになり、最後の一本を過ぎると、何もない地面が広がっていた。

こよいは振り返った。背後には石碑せきひの森が灰色の空の下に沈んでいる。冷たい風が吹くと、石碑せきひの隙間を抜ける空気が低い笛のような音を立てた。名前たちの息吹いぶきのように聞こえた。石碑せきひの一本一本が、細いのどで歌っている。前方には、ならされた地面だけがある。

「……何もない」

「ああ。ここから先は、何もない」

久遠くおん義眼ぎがんを前方に向けた。蒼光そうこうが地面を走ったが、何も映さなかった。光が通り抜けていく。

「だが、何もないことにも意味がある。記録が途切れた場所には、記録される前の世界がある」

三人は石碑せきひを背にして、空白の大地へ静かに踏み出した。

踏み出して、こよいはすぐに気づいた。破壊の跡が、ひとつもない。石碑が倒れているのでも、削られたのでもない。ここには最初から、何も置かれていない。均質で、傷のない、まっさらな空白。

「……壊れたんじゃ、ないんだね」

「壊れていない」

久遠くおんの声に、微かな緊張が混じった。

「意図的に、空けてある。誰かが——ここを、残しておいた。設計者の残した空白だ」

名づけられた瞬間、空白の大地が、ほんの少しだけ広く見えた。書かれなかった場所ではなく、まだ書かれていない場所。二つは、まるで違う。  おたまが、空白の縁を鼻先で確かめてから、真っ先に中へ入っていった。まっさらな地面の上を、猫は遠慮なく歩いた。空白は、それを咎めなかった。

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