足が重かった。
膜を抜けてから、歩みが鈍い。息を吸うたびに、空気の重さが肺の底に溜まる。忘却の海の中では軽かった体が、今は一歩ごとに地面に引かれている。重力が変わったのではない。身体が背負うものが増えたのだ。
覚えている、ということの重さ。それが今、こよいの肩と膝にのしかかっている。忘れる場所では、忘れる分だけ軽かった。覚える側に渡った身体は、覚えた分だけ重くなる。
こよいは両手を見た。掌の皺が、妙にくっきりと見える。忘却の海の中では、自分の手の形さえ曖昧だった。霧が記憶の輪郭を削り、見慣れたものが見慣れないものに変わっていく場所だった。
ここは違う。すべてが鮮明だった。空気の匂い、足元の土の硬さ、遠くで風が岩肌を叩く乾いた音。世界が輪郭を取り戻している。鮮明であることが、こんなにも重いとは知らなかった。
空は低く、灰色の雲が大地すれすれに垂れ込めている。 道の両脇に、石碑が立っている。低いものは膝ほど、高いものはこよいの背を超える。表面にはひらがなが刻まれ、文字の溝に金色の粉が残っていた。風化しかけているが、まだ読める。
こよいは一つの石碑に近づき、文字をなぞった。
「……名前だ」
三文字。人の名前だった。こよいの知らない名前。いつ刻まれたのかも分からない。だが石の冷たさの奥に、かすかな脈動が残っている。指先に伝わるその拍は、巾着の神々の脈よりもずっと弱く、ずっと古い。長い眠りの底で、かろうじて鼓動を続けている。
「記録の堆積層だ」
久遠が義眼で周囲を走査した。蒼光が石碑に当たるたびに、刻まれた文字が一瞬だけ明るくなる。
「忘却の海の外側に、名前の記録が堆積している。海の中で消されたものがここに流れ着いたのか、あるいは最初からここに記録されていたのか。どちらにしても、膨大な量だ」
石碑の列は果てがなかった。道の両側だけではなかった。少し離れた場所にも、さらにその向こうにも、灰色の空の下に無数の石碑が並んでいる。墓地に似ているが、ここに眠っているのは死者ではない。名前だ。
あさひが石碑の一つを手のひらで叩いた。硬い音がした。
「冷てえな。こよい、触ったとき何か感じたか」
「脈がある。弱いけど。この石碑の中に、まだ名前が残ってる」
あさひは手を引き、指先を衣の裾で拭ってから、剣の柄に戻した。
「全部の石碑に名前が入ってるのか」
「おそらく」
久遠が目録を繰った。頁に文字が戻っている。忘却の海の中では白紙だった頁に、座標と名前の断片が浮かび上がっていた。
「目録の記録が復元されている。膜の外側では、忘却の力が届かない。消された記録が、元の場所に戻ろうとしている」
こよいは巾着を胸に寄せた。神々の脈が強い。忘却の海の中では微かだった鼓動が、今は胸の骨に響くほどはっきりと打っている。名前を覚えていることの力が、ここでは身体ごと支えてくれる。
三人は石碑の間を歩いた。石碑と石碑の隙間から、乾いた風が吹き抜ける。風に乗って、かすかに甘い匂いがした。名前の残り香だろうか。忘却の海では嗅ぐことのできなかった、記憶の匂い。
歩くほどに、こよいの頭の中に記憶が戻ってくる。忘却の海の中で薄れていたもの。しおりの手帳の触感。八重の処方箋の崩し字。星降町の鐘の音。名前たちの声。
全部が、一度に戻ってくる。
こよいは足を止めた。膝が震えている。
「……重い」
「覚えていることは重い。だが、覚えていることだけが、この先で役に立つ」
久遠は歩みを緩めず、ただ声を落として言った。
あさひがこよいの腕を取った。乱暴に。指の力が骨に食い込むほど強い。だがそのおかげで膝が伸びた。あさひの手は熱かった。記憶の重さに震えているこよいの腕に、その熱が染み込んでくる。
「歩け。止まるな。重くても歩いてりゃ慣れる」
石碑の列が、やがて途切れ始めた。密集していた石が間隔を広げ、まばらになり、最後の一本を過ぎると、何もない地面が広がっていた。
こよいは振り返った。背後には石碑の森が灰色の空の下に沈んでいる。冷たい風が吹くと、石碑の隙間を抜ける空気が低い笛のような音を立てた。名前たちの息吹のように聞こえた。石碑の一本一本が、細い喉で歌っている。前方には、均された地面だけがある。
「……何もない」
「ああ。ここから先は、何もない」
久遠が義眼を前方に向けた。蒼光が地面を走ったが、何も映さなかった。光が通り抜けていく。
「だが、何もないことにも意味がある。記録が途切れた場所には、記録される前の世界がある」
三人は石碑を背にして、空白の大地へ静かに踏み出した。
踏み出して、こよいはすぐに気づいた。破壊の跡が、ひとつもない。石碑が倒れているのでも、削られたのでもない。ここには最初から、何も置かれていない。均質で、傷のない、まっさらな空白。
「……壊れたんじゃ、ないんだね」
「壊れていない」
久遠の声に、微かな緊張が混じった。
「意図的に、空けてある。誰かが——ここを、残しておいた。設計者の残した空白だ」
名づけられた瞬間、空白の大地が、ほんの少しだけ広く見えた。書かれなかった場所ではなく、まだ書かれていない場所。二つは、まるで違う。 おたまが、空白の縁を鼻先で確かめてから、真っ先に中へ入っていった。まっさらな地面の上を、猫は遠慮なく歩いた。空白は、それを咎めなかった。
