第291話 忘却の海の最果て
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第291話 忘却の海の最果て

第10章 波の端

忘却ぼうきゃくの海は、匂いから先に終わった。

潮の匂いが薄れる。代わりに、乾いた紙の匂いが増えていく。波の音も遠い。砂を踏む足音だけが、やけに鮮明に聞こえた。

こよいは足を止めた。砂浜の先に、海がある。あるのに、水面の揺れが弱い。

「……海が、止まりかけてる」

久遠くおん義眼ぎがんを細め、蒼光そうこう水平線すいへいせんをなぞった。

忘却ぼうきゃく飽和ほうわしている。もう飲み込む記録がない」

「だから海が自分の縁を探してるのか」

あさひが笑った。

「縁って言葉、最近よく聞くな」

「終わりに近いからだ」

久遠くおんが短く答えた。

浜には、漂着物ひょうちゃくぶつが並んでいた。木片もくへん、割れたびん。そして、濡れていないページ

こよいはそのページを拾った。海のそばなのに、乾いている。

「……忘れられた文字」

ページには、名前がひとつだけ書かれていた。途中で途切れ、最後の一画が欠けている。欠けた一画を見つめていると、胸が妙にざわついた。呼べない。だが確かに知っている気がする。そんな輪郭りんかくの手前で、こよいはページを裏返した。

裏には、短い線が三本だけ引かれている。波の線。線路の線。そして、そのどちらでもない、境界きょうかいの線。

「……道の絵だ」

あさひが覗き込み、鼻で笑った。

「誰かが、忘れないように描いたんだな」

こよいはその欠けた一画を指でなぞり、巾着きんちゃくに触れた。神々が小さく脈を打った。

「……まだ、残ってる」

久遠くおんが海の方を見た。

「全部が飲まれたわけじゃない。忘却ぼうきゃくの海の最果さいはては、捨てられたものの集積しゅうせきだ。拾えば、つなげられる」

あさひが浜の先を指した。きりの向こうに、黒い線が一本見える。がけではない。門でもない。ただの切れ目だった。

切れ目の手前で、海が一度だけ深く息を吸うように沈んだ。水面が下がり、白いあわがその場に置き去りになる。あわは音を立てず、ただ形だけを残した。

「……引き潮じゃない」

久遠くおんが呟いた。

忘却ぼうきゃくが、吐き戻している。飲み込んだ記録を、最後に一度だけ」

こよいはページを胸に当てた。心臓の鼓動こどうと、紙の軽さが、微かにずれている。そのずれが、まだ自分が忘却ぼうきゃく固定こていされていないあかしのように思えた。

あわのひとつが、こよいの足元へ転がってきた。あわの中に、小さな文字が浮かんでいる。読めない。だが見た瞬間に、体が反応した。知っている。

こよいはあわつぶさないように指先で触れ、神々の温もりを重ねた。あわは一度だけ震え、文字の形が崩れた。崩れた形が線になり、線は黒い切れ目の方を指していた。

「……やっぱり、繋がってる」

久遠くおんが頷いた。

「吐き戻しは偶然じゃない。誰かが、ここまで運んだんだ。忘れられないように」

「行くぞ」

あさひが声を低くして言った。

三人は切れ目に向かって歩いた。近づくにつれ、空気が変わっていく。忘却ぼうきゃくきりは湿っていた。だが切れ目の向こうから流れてくる空気は、乾いている。古い書庫を開けたときのような、ほこりと紙の混じった匂い。

切れ目の手前で、こよいは足を止めた。

目に見えるものは何もない。ただの空間の裂け目だ。だが一歩踏み出そうとすると、体の表面に薄いまくが触れた。水面に手を入れるときのような、柔らかい抵抗。

「……まくがある」

境界膜きょうかいまくだ」

久遠くおん義眼ぎがんまくを透かした。蒼光そうこうまくの表面を走り、微細な文様もんようを浮かび上がらせる。

忘却ぼうきゃくの海と、その先の領域を隔てている。このまくを越えると、忘却ぼうきゃくの力が届かなくなる」

「つまり、忘れなくなるってことか」

あさひが腕を組んだ。

「忘れなくなる、というより、忘れることを選べなくなる。覚えていることの全てを、引き受ける側に移る」

こよいは巾着きんちゃくを見た。神々がまくに向かって脈打っている。布越しに感じる熱が、じわりと強くなっていた。

「神々が、行きたがってる」

あさひが先に一歩踏み出した。まくが足を包み、肌の表面をめるように這い上がってくる。あさひは顔をしかめたが、足を止めなかった。

「気色悪いが、痛くはない」

久遠くおんが続いた。まくを通り抜けるとき、義眼ぎがん蒼光そうこうが一瞬だけ消え、すぐに戻った。久遠くおんは目を閉じて開き、息を吐いた。

義眼ぎがんの記録が、一瞬だけ全て表示された。忘却ぼうきゃくの海で読めなくなっていた記録が、戻っている」

おたまも、こよいより先にまくを抜けていた。水たまりをまたぐ程度の足取りで。膜は、猫に何も求めなかった。  こよいはページを胸に抱いたまま、まくに向かって足を出した。

柔らかい圧力が全身を包んだ。水中に沈むのとは違う。むしろ、水の中から引き上げられるような感覚。忘却ぼうきゃくの海にかっていた体が、一枚ずつがされていく。

まくを抜けた瞬間、耳の奥で小さな音がした。

水滴が落ちるような音。巾着きんちゃくの中の神々が、一斉に脈打った。温かい。忘却ぼうきゃくの海の中では微かだった脈動が、今は胸に響くほど強い。

こよいは振り返った。

まくの向こうに、忘却ぼうきゃくの海がある。きりの白さが、こちら側からは淡い銀色に見えた。美しいと思った。中にいるときは、そんなことを感じる余裕がなかった。

「……抜けたんだ」

拾ったページを見た。欠けていた最後の一画に、薄い線が浮かんでいる。忘却ぼうきゃくの海を出たことで、文字が少しだけ戻ったのかもしれなかった。  こよいはページを、懐の帳面の間に挟んだ。紙の海で拾った欠片かけらの隣に。欠けた名前と、書き切れなかった一文字。「知っている気がする」の正体は、まだ分からないままだった。

前方には、乾いた大地が広がっていた。きりはない。空は灰色だが、見通しがきく。遠くに、列車から見えた塔の輪郭りんかくが、今度ははっきりと立っている。

忘却ぼうきゃくの海の最果さいはては、終わりではなかった。

拾ったものを、次の場所へ運ぶための出発点だった。

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