忘却の海は、匂いから先に終わった。
潮の匂いが薄れる。代わりに、乾いた紙の匂いが増えていく。波の音も遠い。砂を踏む足音だけが、やけに鮮明に聞こえた。
こよいは足を止めた。砂浜の先に、海がある。あるのに、水面の揺れが弱い。
「……海が、止まりかけてる」
久遠が義眼を細め、蒼光で水平線をなぞった。
「忘却が飽和している。もう飲み込む記録がない」
「だから海が自分の縁を探してるのか」
あさひが笑った。
「縁って言葉、最近よく聞くな」
「終わりに近いからだ」
久遠が短く答えた。
浜には、漂着物が並んでいた。木片、割れた瓶。そして、濡れていない頁。
こよいはその頁を拾った。海のそばなのに、乾いている。
「……忘れられた文字」
頁には、名前がひとつだけ書かれていた。途中で途切れ、最後の一画が欠けている。欠けた一画を見つめていると、胸が妙にざわついた。呼べない。だが確かに知っている気がする。そんな輪郭の手前で、こよいは頁を裏返した。
裏には、短い線が三本だけ引かれている。波の線。線路の線。そして、そのどちらでもない、境界の線。
「……道の絵だ」
あさひが覗き込み、鼻で笑った。
「誰かが、忘れないように描いたんだな」
こよいはその欠けた一画を指でなぞり、巾着に触れた。神々が小さく脈を打った。
「……まだ、残ってる」
久遠が海の方を見た。
「全部が飲まれたわけじゃない。忘却の海の最果ては、捨てられたものの集積だ。拾えば、繋げられる」
あさひが浜の先を指した。霧の向こうに、黒い線が一本見える。崖ではない。門でもない。ただの切れ目だった。
切れ目の手前で、海が一度だけ深く息を吸うように沈んだ。水面が下がり、白い泡がその場に置き去りになる。泡は音を立てず、ただ形だけを残した。
「……引き潮じゃない」
久遠が呟いた。
「忘却が、吐き戻している。飲み込んだ記録を、最後に一度だけ」
こよいは頁を胸に当てた。心臓の鼓動と、紙の軽さが、微かにずれている。そのずれが、まだ自分が忘却に固定されていない証のように思えた。
泡のひとつが、こよいの足元へ転がってきた。泡の中に、小さな文字が浮かんでいる。読めない。だが見た瞬間に、体が反応した。知っている。
こよいは泡を潰さないように指先で触れ、神々の温もりを重ねた。泡は一度だけ震え、文字の形が崩れた。崩れた形が線になり、線は黒い切れ目の方を指していた。
「……やっぱり、繋がってる」
久遠が頷いた。
「吐き戻しは偶然じゃない。誰かが、ここまで運んだんだ。忘れられないように」
「行くぞ」
あさひが声を低くして言った。
三人は切れ目に向かって歩いた。近づくにつれ、空気が変わっていく。忘却の霧は湿っていた。だが切れ目の向こうから流れてくる空気は、乾いている。古い書庫を開けたときのような、埃と紙の混じった匂い。
切れ目の手前で、こよいは足を止めた。
目に見えるものは何もない。ただの空間の裂け目だ。だが一歩踏み出そうとすると、体の表面に薄い膜が触れた。水面に手を入れるときのような、柔らかい抵抗。
「……膜がある」
「境界膜だ」
久遠が義眼で膜を透かした。蒼光が膜の表面を走り、微細な文様を浮かび上がらせる。
「忘却の海と、その先の領域を隔てている。この膜を越えると、忘却の力が届かなくなる」
「つまり、忘れなくなるってことか」
あさひが腕を組んだ。
「忘れなくなる、というより、忘れることを選べなくなる。覚えていることの全てを、引き受ける側に移る」
こよいは巾着を見た。神々が膜に向かって脈打っている。布越しに感じる熱が、じわりと強くなっていた。
「神々が、行きたがってる」
あさひが先に一歩踏み出した。膜が足を包み、肌の表面を舐めるように這い上がってくる。あさひは顔をしかめたが、足を止めなかった。
「気色悪いが、痛くはない」
久遠が続いた。膜を通り抜けるとき、義眼の蒼光が一瞬だけ消え、すぐに戻った。久遠は目を閉じて開き、息を吐いた。
「義眼の記録が、一瞬だけ全て表示された。忘却の海で読めなくなっていた記録が、戻っている」
おたまも、こよいより先に膜を抜けていた。水たまりをまたぐ程度の足取りで。膜は、猫に何も求めなかった。 こよいは頁を胸に抱いたまま、膜に向かって足を出した。
柔らかい圧力が全身を包んだ。水中に沈むのとは違う。むしろ、水の中から引き上げられるような感覚。忘却の海に浸かっていた体が、一枚ずつ剥がされていく。
膜を抜けた瞬間、耳の奥で小さな音がした。
水滴が落ちるような音。巾着の中の神々が、一斉に脈打った。温かい。忘却の海の中では微かだった脈動が、今は胸に響くほど強い。
こよいは振り返った。
膜の向こうに、忘却の海がある。霧の白さが、こちら側からは淡い銀色に見えた。美しいと思った。中にいるときは、そんなことを感じる余裕がなかった。
「……抜けたんだ」
拾った頁を見た。欠けていた最後の一画に、薄い線が浮かんでいる。忘却の海を出たことで、文字が少しだけ戻ったのかもしれなかった。 こよいは頁を、懐の帳面の間に挟んだ。紙の海で拾った欠片の隣に。欠けた名前と、書き切れなかった一文字。「知っている気がする」の正体は、まだ分からないままだった。
前方には、乾いた大地が広がっていた。霧はない。空は灰色だが、見通しがきく。遠くに、列車から見えた塔の輪郭が、今度ははっきりと立っている。
忘却の海の最果ては、終わりではなかった。
拾ったものを、次の場所へ運ぶための出発点だった。
