第290話 波の地平線
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第290話 波の地平線

第10章 波の端

海は、まだ終わっていなかった。北へ回り込んだ列車は、忘却ぼうきゃくの海の別の浅い縁で止まった。線路はここまで——堆積した記録の層の上を、鉄路は渡れない。北の経蔵きょうぞうへは、残りを足で行くしかなかった。

歩き出してしばらくして、きりが、薄くなっていた。

こよいは足を止めた。これまで顔の前をおおい続けていた白いまくが、不意に布一枚分だけ引き剥がされたような感覚だった。巾着きんちゃくの中で、神々が小さく脈打つ。

「……見えないか」

久遠くおんが足を止めた。義眼ぎがん蒼光そうこうが、遠くに向けて細く絞られている。

「何が」

「線だ。水平線すいへいせんでも、地平線ちへいせんでもない。だがあの方角に、何かが横に走っている」

こよいは目をらした。

忘却ぼうきゃくの海のきりは、これまで一度も遠くを見せてくれなかったはずだった。足元の砂と、数歩先の波打ち際と、頭上の白い空。それが忘却ぼうきゃくの海で見える全てだった。

だが今、きりの奥に、確かに輪郭りんかくがある。

水平に伸びる一本の線。色は定まらない。灰色とも藍色あいいろともつかない、にじんだ帯が空と地のさかいに横たわっている。

地平線ちへいせんだ」

こよいがつぶやいた。

声にした途端、胸の中で何かが動いた。遠くを、自分の目標として選んだことがなかった。足元ばかりを見て歩いてきた。次の一歩が安全かどうか、巾着きんちゃくの温度が変わっていないか、仲間の足音が聞こえるか。近いものだけを頼りに進んできた。

遠くが見えるということは、方角があるということだ。

「あれは何だ」

あさひが剣のつかに手を添えたまま、地平線ちへいせんの向こうをあごで示した。

線の上に、何かが突き出ている。塔のようにも、柱のようにも見える。一つではない。三つか四つ、等間隔で地平線ちへいせんから頭を出している。

久遠くおん義眼ぎがんを最大まで絞った。蒼光そうこうが一点に集中し、瞳の中に微細な文字列が浮かぶ。

「距離は測れない。きりが光を曲げている。だが構造物の形状から推測すると——」

久遠くおん目録もくろくを開いた。ページを繰る指先に力がもっている。

経蔵きょうぞうだ。ことわりの全ての記録を保管する場所。列車から見えたあの塔は、経蔵きょうぞうの外壁に立つ書庫塔だと考えるのが妥当だとうだ」

風が吹いた。

忘却ぼうきゃくの海の風ではなかった。潮の匂いがしない。代わりに、乾いた紙と古いすみの匂いが混じっている。経蔵きょうぞうの方角から吹いてきた風だった。

巾着きんちゃくの中で、神々が強く脈打った。上でも下でもなく、地平線ちへいせんに向かって。

「神々が引かれてる。あっちに、知ってるものがあるみたいだ」

こよいは巾着きんちゃくを両手で包んだ。布越しに伝わる温もりが、いつもより強い。旅の間ずっと微かだった脈動が、今は指先にはっきりと届いている。

あさひが地面を踏み鳴らした。石でも土でもない、空洞くうどうを叩いたような響きが返ってくる。

「足元の地面が薄い。下が空洞くうどうだ」

久遠くおんが膝をつき、義眼ぎがんの光を地面に向けた。蒼光そうこうが土の層を透かし、地下の構造を映し出す。

「情報の堆積層たいせきそうだ。間引かれた名前、漂白ひょうはくされた記録、消去された歴史。処分された情報が圧縮あっしゅくされて積もっている。この地面の下に、経蔵きょうぞうの入口があるのかもしれない」

こよいは地面にしゃがみ、手のひらを土に当てた。冷たくはなかった。むしろ微かに温かい。大量の情報が圧縮あっしゅくされることで生まれる熱が、てのひらに伝わっていた。

温もりの中に、方向がある。地平線ちへいせんと同じ方角を指している。

「足跡がある」

久遠くおんが言った。蒼光そうこうで照らした地下の映像を、目録もくろくに写し取っている。

「土の上ではない。堆積層たいせきそうの上に付いた、圧力の痕跡こんせきだ。誰かがこの上を歩いた。最近」

「最初の神か」

あさひが地面を見下ろした。

「足跡の残留ざんりゅう温度はまだ高い。この堆積層たいせきそうの上を歩けるのは、名前の重みに耐えられる存在だけだ。人間には無理だろう」

足跡は地平線ちへいせんの方角を向いていた。途中で、方向が変わっている。北ではなく、下へ。堆積層たいせきそうを突き破り、さらに深い場所へともぐっている。潜った場所の縁に、氷をまとった古い石段の頭が覗いていた。人の作ったものだ。堆積層の下の空洞へ、誰かが昔、降り口を刻んだ。

こよいは立ち上がり、地平線ちへいせんを見た。

塔の輪郭りんかくが、先ほどよりも少しだけ鮮明になっている。きりが引き続けているのか、それとも自分たちが近づいているのか。どちらとも判別がつかない。

あさひが石段の方を見た。氷で覆われた石段が、地下に向かって続いている。

「降りるか、地平線ちへいせんを目指すか」

久遠くおん目録もくろくを閉じ、地平線ちへいせんと石段を交互に見た。

「足跡は下に向かっている。だが神々は地平線ちへいせんに反応している。二つの道が、同じ場所に続いている可能性がある」

こよいは巾着きんちゃくを胸に当てた。神々の脈動と、地面の温もりが、同じ拍子で打っている。

「行こう。地平線ちへいせんの方へ」

あさひが鼻で息を吐いた。

「珍しいな。お前が方角を決めるのは」

「だって、行きたい方角に、行きたいものが見えてるんだ。こんなの、初めてだから」

こよいの声は小さかったが、震えてはいなかった。

三人は地平線ちへいせんに向かって歩き出した。きりが一歩ごとに薄くなり、乾いた風が正面から吹いてくる。潮の匂いが背中に遠ざかり、紙とすみの匂いが近づいてくる。

忘却ぼうきゃくの海を、抜けようとしていた。

振り返ると、来た道はもう見えなかった。きりが、後ろだけをふさいでいる。前だけが開けている。

戻れない。

だが、行く先が見えている。その一つの事実だけで、足取りは軽くなった。  おたまは、石段の縁を一度だけ覗き込んでから、迷わず地平線の方へ歩き出していた。猫の選んだ方角と、こよいの選んだ方角は、同じだった。

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