海は、まだ終わっていなかった。北へ回り込んだ列車は、忘却の海の別の浅い縁で止まった。線路はここまで——堆積した記録の層の上を、鉄路は渡れない。北の経蔵へは、残りを足で行くしかなかった。
歩き出してしばらくして、霧が、薄くなっていた。
こよいは足を止めた。これまで顔の前を覆い続けていた白い幕が、不意に布一枚分だけ引き剥がされたような感覚だった。巾着の中で、神々が小さく脈打つ。
「……見えないか」
久遠が足を止めた。義眼の蒼光が、遠くに向けて細く絞られている。
「何が」
「線だ。水平線でも、地平線でもない。だがあの方角に、何かが横に走っている」
こよいは目を凝らした。
忘却の海の霧は、これまで一度も遠くを見せてくれなかったはずだった。足元の砂と、数歩先の波打ち際と、頭上の白い空。それが忘却の海で見える全てだった。
だが今、霧の奥に、確かに輪郭がある。
水平に伸びる一本の線。色は定まらない。灰色とも藍色ともつかない、滲んだ帯が空と地の境に横たわっている。
「地平線だ」
こよいが呟いた。
声にした途端、胸の中で何かが動いた。遠くを、自分の目標として選んだことがなかった。足元ばかりを見て歩いてきた。次の一歩が安全かどうか、巾着の温度が変わっていないか、仲間の足音が聞こえるか。近いものだけを頼りに進んできた。
遠くが見えるということは、方角があるということだ。
「あれは何だ」
あさひが剣の柄に手を添えたまま、地平線の向こうを顎で示した。
線の上に、何かが突き出ている。塔のようにも、柱のようにも見える。一つではない。三つか四つ、等間隔で地平線から頭を出している。
久遠は義眼を最大まで絞った。蒼光が一点に集中し、瞳の中に微細な文字列が浮かぶ。
「距離は測れない。霧が光を曲げている。だが構造物の形状から推測すると——」
久遠は目録を開いた。頁を繰る指先に力が籠もっている。
「経蔵だ。理の全ての記録を保管する場所。列車から見えたあの塔は、経蔵の外壁に立つ書庫塔だと考えるのが妥当だ」
風が吹いた。
忘却の海の風ではなかった。潮の匂いがしない。代わりに、乾いた紙と古い墨の匂いが混じっている。経蔵の方角から吹いてきた風だった。
巾着の中で、神々が強く脈打った。上でも下でもなく、地平線に向かって。
「神々が引かれてる。あっちに、知ってるものがあるみたいだ」
こよいは巾着を両手で包んだ。布越しに伝わる温もりが、いつもより強い。旅の間ずっと微かだった脈動が、今は指先にはっきりと届いている。
あさひが地面を踏み鳴らした。石でも土でもない、空洞を叩いたような響きが返ってくる。
「足元の地面が薄い。下が空洞だ」
久遠が膝をつき、義眼の光を地面に向けた。蒼光が土の層を透かし、地下の構造を映し出す。
「情報の堆積層だ。間引かれた名前、漂白された記録、消去された歴史。処分された情報が圧縮されて積もっている。この地面の下に、経蔵の入口があるのかもしれない」
こよいは地面にしゃがみ、手のひらを土に当てた。冷たくはなかった。むしろ微かに温かい。大量の情報が圧縮されることで生まれる熱が、掌に伝わっていた。
温もりの中に、方向がある。地平線と同じ方角を指している。
「足跡がある」
久遠が言った。蒼光で照らした地下の映像を、目録に写し取っている。
「土の上ではない。堆積層の上に付いた、圧力の痕跡だ。誰かがこの上を歩いた。最近」
「最初の神か」
あさひが地面を見下ろした。
「足跡の残留温度はまだ高い。この堆積層の上を歩けるのは、名前の重みに耐えられる存在だけだ。人間には無理だろう」
足跡は地平線の方角を向いていた。途中で、方向が変わっている。北ではなく、下へ。堆積層を突き破り、さらに深い場所へと潜っている。潜った場所の縁に、氷を纏った古い石段の頭が覗いていた。人の作ったものだ。堆積層の下の空洞へ、誰かが昔、降り口を刻んだ。
こよいは立ち上がり、地平線を見た。
塔の輪郭が、先ほどよりも少しだけ鮮明になっている。霧が引き続けているのか、それとも自分たちが近づいているのか。どちらとも判別がつかない。
あさひが石段の方を見た。氷で覆われた石段が、地下に向かって続いている。
「降りるか、地平線を目指すか」
久遠は目録を閉じ、地平線と石段を交互に見た。
「足跡は下に向かっている。だが神々は地平線に反応している。二つの道が、同じ場所に続いている可能性がある」
こよいは巾着を胸に当てた。神々の脈動と、地面の温もりが、同じ拍子で打っている。
「行こう。地平線の方へ」
あさひが鼻で息を吐いた。
「珍しいな。お前が方角を決めるのは」
「だって、行きたい方角に、行きたいものが見えてるんだ。こんなの、初めてだから」
こよいの声は小さかったが、震えてはいなかった。
三人は地平線に向かって歩き出した。霧が一歩ごとに薄くなり、乾いた風が正面から吹いてくる。潮の匂いが背中に遠ざかり、紙と墨の匂いが近づいてくる。
忘却の海を、抜けようとしていた。
振り返ると、来た道はもう見えなかった。霧が、後ろだけを塞いでいる。前だけが開けている。
戻れない。
だが、行く先が見えている。その一つの事実だけで、足取りは軽くなった。 おたまは、石段の縁を一度だけ覗き込んでから、迷わず地平線の方へ歩き出していた。猫の選んだ方角と、こよいの選んだ方角は、同じだった。
