列車が停車場を離れてから、どれほどの時間が経ったのか分からなかった。 車輪の軋みだけが、進んでいるという唯一の証拠だった。
こよいは巾着を膝の上に置き、両手で包んでいた。停車場で見た蜘蛛の巣と、間引かれた名前の痕跡が、まだ瞼の裏に焼きついている。空白の形。いない誰かの輪郭。見てしまったものは、もう見なかったことにできない。 神々は静かだった。脈打ちもせず、温度も変わらず、ただ布の向こう側で息を潜めている。あの空白の前では、神々も、悼み方を知らないのだ。
窓の外は灰色だった。いつもの灰色だった。
だが、その灰色が変わった。
こよいは最初、目の錯覚だと思った。窓硝子に付いた汚れか、疲れた目が見せる幻か。しかし灰色の濃淡が動いている。霧の厚みが、場所によって違う。均一だったものが、むらになり始めている。
「久遠」
声に出す前に、久遠はもう義眼を窓に向けていた。蒼光が硝子越しに霧を射る。
「密度が落ちている。霧の粒子が粗くなった」
久遠の声に感情はなかった。だが義眼の蒼光が、僅かに揺れた。
あさひが窓に近づいた。剣を壁に立てかけ、硝子に片手をつく。
「光が入っている」
こよいにも見えた。灰色の幕の奥で、色のない光が滲んでいる。光源は分からない。方向も分からない。ただ、霧の向こう側に何かがあって、それが微かに光を放っている。 間引きの停車場を出てから、窓の外に光を見たことはなかった。行灯の蒼白い炎と、義眼の蒼光と、神々の仄かな熱。それだけが、この旅の明かりだった。
列車が揺れた。
車輪の音が変わった。これまでの均一な振動ではなく、何かの上を越えたような、短い衝撃が足元から伝わった。線路の継ぎ目が増えている。間隔が狭くなっている。列車が速度を落としているのではない。地面そのものが変わりつつあった。
その瞬間、霧が裂けた。
ほんの一瞬だった。灰色の層に亀裂が走り、その隙間から、遠くの景色が覗いた。
石だった。
灰色の空を突き破るように、石の塔が立っている。一本ではない。二本、三本。等間隔で並ぶ柱のような構造物が、地平線の上に頭を出していた。 塔の表面に文字が刻まれているように見えたが、距離が遠すぎて読めない。ただ、巨大だった。列車の何倍もの高さがあり、頂上は霧の残りに呑まれて見えない。空に根を張る樹のように、下から上へ向かって太くなっている。
こよいの息が止まった。
手が震えた。恐怖ではなかった。長い間、足元だけを見て歩いてきた。次の一歩が安全かどうか、仲間の息遣いが聞こえるか。近いものだけを頼りにしてきた。遠くを見るということを、身体が忘れかけていた。忘却の海の岸で地平線を見たときも震えた。だがあれは、世界の縁だった。今度のこれは、行き先だ。同じ遠さでも、意味がまるで違う。
巾着が跳ねた。膝の上で、布越しに、神々が一度だけ強く脈打った。こよいの意志とは関係なく、神々が反応した。窓の向こうの構造物に、引かれるように。布を通して伝わる熱が、指先を温めた。
「あれは——」
こよいが声を出す前に、霧が閉じた。
灰色の幕が元通りに戻り、塔の輪郭は霧の底に沈んだ。窓の外はまた、のっぺりとした白に覆われている。
だが、見た。こよいの目は嘘をついていない。
確かに、見た。
「経蔵の外壁だ」
久遠が目録を開いた。頁の上を走る金色の筋が、先ほどまでとは違う方角を指している。
「義眼が構造を記録した。石造りの書庫塔。外壁に文字が刻まれている。あれが経蔵なら、俺たちは——近い」
久遠が言葉を切った。近い、という言葉の重さに、自分で気づいたようだった。目録の頁に視線を落とし、金色の筋を指先でなぞった。筋は震えている。目録の本体が近くにあることを、この写しが感じ取っているのだ。
あさひは窓から手を離し、壁に立てかけた剣を取った。
「地形が変わる。霧が薄い場所は、足元も変わる。備えておけ」
それだけ言って、座席に戻らなかった。立ったまま、窓の向こうを見ている。塔が消えた方角を。剣の柄を握る手に、静かに力が入っていた。
こよいは巾着を胸に抱き寄せた。神々の脈動は収まっていたが、温度が変わっていた。ほんの僅かに、温かい。停車場を出る前よりも。
あの塔の中に、何がある。何百年ぶんの、誰の名前が眠っている。
凍結された名前が眠る場所。最初の神が一人で名前を運んだ、その終着点。目録の原本が収められた書庫。この旅の、行き先。
見えたのはほんの一瞬だった。もう霧の向こうに隠れている。だが瞼を閉じると、石の塔の輪郭が暗闇の中に浮かぶ。網膜に焼きついた残像が、消えるのを拒んでいた。
それでも、こよいの胸の奥で、何かが変わった。足元しか見えなかった世界に、行き先のある地平線が生まれた。あの塔がある。あの方角に、確かにある。それだけで、次の百歩の重さが変わる。
おたまが、こよいの膝の巾着の隣に頭を乗せた。塔が見えた方角に、猫の耳がずっと向いている。眠っているようで、聴いている。
行灯の蒼白い炎が揺れ、三人の影が車内の壁を這った。列車の車輪が軋み、鋼の骨格が震えた。 三人を乗せた列車は、霧の薄い方角へと進み続けていた。灰色の奥で、見えない塔が、静かに待っていた。
