第289話 地平線の塔
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第289話 地平線の塔

第10章 波の端

列車が停車場ていしゃじょうを離れてから、どれほどの時間が経ったのか分からなかった。  車輪のきしみだけが、進んでいるという唯一の証拠だった。

こよいは巾着きんちゃくを膝の上に置き、両手で包んでいた。停車場ていしゃじょうで見た蜘蛛くもの巣と、間引かれた名前の痕跡こんせきが、まだまぶたの裏に焼きついている。空白の形。いない誰かの輪郭。見てしまったものは、もう見なかったことにできない。  神々は静かだった。脈打ちもせず、温度も変わらず、ただ布の向こう側で息を潜めている。あの空白の前では、神々も、悼み方を知らないのだ。

窓の外は灰色だった。いつもの灰色だった。

だが、その灰色が変わった。

こよいは最初、目の錯覚さっかくだと思った。窓硝子まどがらすに付いた汚れか、疲れた目が見せる幻か。しかし灰色の濃淡が動いている。きりの厚みが、場所によって違う。均一だったものが、むらになり始めている。

久遠くおん

声に出す前に、久遠くおんはもう義眼ぎがんを窓に向けていた。蒼光そうこう硝子ガラス越しにきりる。

密度みつどが落ちている。きりの粒子があらくなった」

久遠くおんの声に感情はなかった。だが義眼ぎがん蒼光そうこうが、僅かに揺れた。

あさひが窓に近づいた。剣を壁に立てかけ、硝子まどがらすに片手をつく。

「光が入っている」

こよいにも見えた。灰色のまくの奥で、色のない光がにじんでいる。光源は分からない。方向も分からない。ただ、きりの向こう側に何かがあって、それが微かに光を放っている。  間引きの停車場を出てから、窓の外に光を見たことはなかった。行灯あんどんの蒼白い炎と、義眼ぎがん蒼光そうこうと、神々のほのかな熱。それだけが、この旅の明かりだった。

列車が揺れた。

車輪の音が変わった。これまでの均一な振動ではなく、何かの上を越えたような、短い衝撃しょうげきが足元から伝わった。線路のぎ目が増えている。間隔が狭くなっている。列車が速度を落としているのではない。地面そのものが変わりつつあった。

その瞬間、きりけた。

ほんの一瞬だった。灰色の層に亀裂きれつが走り、その隙間から、遠くの景色がのぞいた。

石だった。

灰色の空を突き破るように、石の塔が立っている。一本ではない。二本、三本。等間隔で並ぶ柱のような構造物が、地平線ちへいせんの上に頭を出していた。  塔の表面に文字が刻まれているように見えたが、距離が遠すぎて読めない。ただ、巨大だった。列車の何倍もの高さがあり、頂上はきりの残りにまれて見えない。空に根を張る樹のように、下から上へ向かって太くなっている。

こよいの息が止まった。

手が震えた。恐怖ではなかった。長い間、足元だけを見て歩いてきた。次の一歩が安全かどうか、仲間の息遣いが聞こえるか。近いものだけを頼りにしてきた。遠くを見るということを、身体が忘れかけていた。忘却の海の岸で地平線を見たときも震えた。だがあれは、世界の縁だった。今度のこれは、行き先だ。同じ遠さでも、意味がまるで違う。

巾着きんちゃくねた。膝の上で、布越しに、神々が一度だけ強く脈打った。こよいの意志とは関係なく、神々が反応した。窓の向こうの構造物に、引かれるように。布を通して伝わる熱が、指先を温めた。

「あれは——」

こよいが声を出す前に、きりが閉じた。

灰色のまくが元通りに戻り、塔の輪郭りんかくきりの底に沈んだ。窓の外はまた、のっぺりとした白におおわれている。

だが、見た。こよいの目は嘘をついていない。

確かに、見た。

経蔵きょうぞうの外壁だ」

久遠くおん目録もくろくを開いた。ページの上を走る金色こんじきの筋が、先ほどまでとは違う方角を指している。

義眼ぎがんが構造を記録した。石造りの書庫塔。外壁に文字が刻まれている。あれが経蔵きょうぞうなら、俺たちは——近い」

久遠くおんが言葉を切った。近い、という言葉の重さに、自分で気づいたようだった。目録もくろくページに視線を落とし、金色こんじきの筋を指先でなぞった。筋は震えている。目録もくろくの本体が近くにあることを、この写しが感じ取っているのだ。

あさひは窓から手を離し、壁に立てかけた剣を取った。

「地形が変わる。きりが薄い場所は、足元も変わる。備えておけ」

それだけ言って、座席に戻らなかった。立ったまま、窓の向こうを見ている。塔が消えた方角を。剣のつかを握る手に、静かに力が入っていた。

こよいは巾着きんちゃくを胸に抱き寄せた。神々の脈動は収まっていたが、温度が変わっていた。ほんの僅かに、温かい。停車場ていしゃじょうを出る前よりも。

あの塔の中に、何がある。何百年ぶんの、誰の名前が眠っている。

凍結とうけつされた名前が眠る場所。最初の神が一人で名前を運んだ、その終着点。目録もくろく原本げんぽんが収められた書庫。この旅の、行き先。

見えたのはほんの一瞬だった。もうきりの向こうに隠れている。だがまぶたを閉じると、石の塔の輪郭りんかくが暗闇の中に浮かぶ。網膜もうまくに焼きついた残像ざんぞうが、消えるのを拒んでいた。

それでも、こよいの胸の奥で、何かが変わった。足元しか見えなかった世界に、行き先のある地平線ちへいせんが生まれた。あの塔がある。あの方角に、確かにある。それだけで、次の百歩の重さが変わる。

おたまが、こよいの膝の巾着きんちゃくの隣に頭を乗せた。塔が見えた方角に、猫の耳がずっと向いている。眠っているようで、聴いている。

行灯あんどんの蒼白い炎が揺れ、三人の影が車内の壁をった。列車の車輪がきしみ、はがね骨格こっかくが震えた。  三人を乗せた列車は、きりの薄い方角へと進み続けていた。灰色の奥で、見えない塔が、静かに待っていた。

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