第028話 しおりの最期
028

第028話 しおりの最期

第1章 霧の序章

谷を出た。  霧が晴れ、視界が広がった。  午後の日差し《ひざし》が、眩しい。

こよいは、深く息を吸った。  名無しのななしのたにを越えた。生きている。

「……でた」

ほこらの神の声。

「……よかった」

空き地の神の声。

巾着きんちゃくが、少しだけ温かくなった。  神々も、安堵している。

道を歩き始めた。  第二境界だいにきょうかいへの道。まだ遠いが、方向は分かっている。  一歩ずつ、進めばいい。

「こよい」

声がした。  前方から。  聞き覚えのある声。  以前、旅の途中で名乗った、自分の名前。

こよいは、顔を上げた。

しおりが、立っていた。

「しおりさん……?」

こよいは、驚きで声が裏返った。  信じられなかった。  ここはさかいの向こう側だ。日常から切り離された世界だ。  どうして、彼女がここにいるのか。  どうやって、霧原町きりはらちょうからここまで来られたのか。

「どうして……」

しおりは、少し疲れた顔をしていた。でも、笑っている。

「よかった」

しおりが、近づいてきた。

「無事だったんだね。谷を越えられたんだね」

「……どうして、ここに」

こよいは、後ずさりしそうになった。  本物だろうか。  名無しのななしのたにが見せる、幻ではないだろうか。

「迎えに来たの」

しおりは、こよいの前に立った。  その体には、確かな重みがあった。影もあった。  幻ではない。

「あなたが谷を越えるのを、待っていた」

こよいは、言葉が出なかった。  違和感いわかんは消えない。  けれど、目の前にしおりがいる。迎えに来てくれた。  独りじゃなかった。

「……ありがとう」

声が震えた。

「……来てくれて」

「当たり前でしょ」

しおりは、笑った。

「一緒に行こう。第二境界だいにきょうかいへ」

差し出された手。  こよいは、その手をすぐには握れなかった。

この人は、本当に味方なのだろうか。  観測者かんそくしゃと同じ「記録する人」だったはずだ。

それに、どうやってここまで来たのかも、分からない。

巾着きんちゃくを、そっと撫でた。  神々の様子を伺う。

「……どう?」

心の中で聞いた。

「……わからない」

ほこらの神の声。

「……でも、わるい気配は、しない」

空き地の神の声。

神々も、警戒はしているが、拒絶はしていない。  こよいは、しおりの目を見た。  そこには、かつて霧原町きりはらちょうで見たときと同じ、静かで、少し悲しげな色が宿っていた。

独りで歩くのは、もう限界だったのかもしれない。  誰かに頼りたかった。

「……うん」

こよいは、小さく頷いた。  そして、差し出された手を握った。  それは確かに、人間の温かさだった。

「……行く」

二人で、道を歩いた。  しおりが前を歩き、こよいがついていく。

「谷は、どうだった?」

しおりが聞いた。

「……怖かった」

こよいは、正直に答えた。

「……名前が、溶けて。自分が誰か、分からなくなりそうで」

「でも、越えられた」

「……うん。名乗らなかった」

「偉い」

しおりが、振り返って笑った。

「あなたなら、できると思っていた」

巾着きんちゃくが、温かい。  神々も、穏やかにしている。  しおりと一緒にいると、安心する。

第二境界だいにきょうかいは、もう近いの?」

「あと少し。今日中には着けるよ」

「……よかった」

こよいは、少しだけ緊張が解けた。もう少し。もう少しで、ほこらの神と空き地の神を届けられる。

夕日が、空を染め始めた。  赤い光が、道を照らしている。

その時だった。

巾着きんちゃくが、凍りついた。

「っ」

こよいは、足を止めた。  胸元が冷たい。氷のように冷たい。

「……きた」

ほこらの神の声が、震えていた。

「……かんそくしゃ」

観測者かんそくしゃ

しおりも、足を止めた。  顔色が、変わっている。

「……こよい」

しおりの声が、低くなった。

「……逃げて」

「え」

「今すぐ、逃げて!」

しおりが叫んだ瞬間、光が見えた。  前方。道の先。  白い光が、点滅している。

一つ。二つ。三つ。  増えていく。

「測定対象を確認」

声が響いた。  無機質な声。機械のような声。

固定こていを開始する」

観測者かんそくしゃが、近づいてくる。  光が、点滅しながら、近づいてくる。  三体。いや、四体。

こよいは、動けなかった。  足が、震えて動かない。  巾着きんちゃくが、凍りついたように冷たい。

「……にげろ」

ほこらの神の声。

「……こよい、にげろ」

空き地の神の声。

分かっている。逃げないといけない。でも、足が動かない。

「こよい!」

しおりが、叫んだ。

そして、こよいの前に立った。

「しおりさん」

「走って!」

しおりが、こよいを押した。

「今すぐ、走って!」

「でも、しおりさんは」

「私のことはいい!」

しおりの目が、真っ直ぐにこよいを見ていた。

「あなたが、届けなきゃいけないんでしょ。神様を」

光が、すぐそこまで来ている。  観測者かんそくしゃの声が響く。

「対象を特定。固定こていを実行する」

「走って、こよい!」

しおりが、もう一度叫んだ。

こよいは、一歩後ろに下がった。でも、走れない。しおりを置いていけない。

「だめ、しおりさん、一緒に」

「間に合わない!」

光が、しおりに向かった。

しおりの体が、光に包まれた。  白い光。冷たい光。

「っ……」

しおりが、声を詰まらせた。

体が、動かなくなっていく。  足が、固まっていく。  腕が、固まっていく。

「しおりさん!」

こよいは叫んだ。

「しおりさん、だめ!」

助けようと、手を伸ばした。

「……だめ」

しおりの声が、かすれていた。

「……触っちゃ、だめ……」

「……あなたまで、固定こていされる……」

しおりの体が、透明になっていく。  輪郭りんかくがぼやけていく。  声が、遠くなっていく。

「……こよい」

しおりが、最後の力を振り絞って言った。

「……走って……」

「……届けて……神様を……」

涙が、こよいの頬を伝った。

「しおりさん、待って、待って」

「……大丈夫……」

しおりの声が、もう、ほとんど聞こえない。

「……私は……消えないから……」

「……固定こていされるだけ……」

しおりの目が、こよいを見ていた。  優しい目。悲しい目。

「……さよなら」

しおりの唇が、動いた。

「……さよなら、こよい」

しおりの体が、完全に固定こていされた。  動かない。声も出ない。でも、そこにいる。石像せきぞうのように、そこにいる。

「しおりさん……」

こよいは、膝から崩れ落ちそうになった。

「……にげろ」

ほこらの神の声が、強く響いた。

「……いま、にげないと」

「……こよいも、つかまる」

観測者かんそくしゃの光が、こよいに向かっている。  一つ、二つ。

「対象を追跡。固定こていを継続する」

「……にげろ!」

空き地の神の声が、叫んだ。

こよいは、走った。  泣きながら、走った。  後ろを振り返れなかった。

しおりを、置いていく。  固定こていされたしおりを、置いていく。

足が、もつれる。  涙で、前が見えない。  それでも、走った。

「……ごめん」

こよいは、走りながら呟いた。

「……ごめん、しおりさん」

後ろで、観測者かんそくしゃの光が追ってくる。  点滅が、近づいてくる。でも、走った。  しおりが、逃げろと言った。  届けろと言った。

だから、走る。  泣きながら、走る。

「さよなら、こよい」

しおりの最後の言葉が、耳の奥で響いていた。

お読みいただきありがとうございます

4つの小説投稿サイトでお読みいただけます