第288話 声なき祈り
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第288話 声なき祈り

第10章 波の端

停車場ていしゃじょうに降り立った三人の足元で、石畳いしだたみの隙間からきりが立ち上っていた。靴底をめるようにまつわりつき、足首のあたりで渦を巻いている。冷たさではなく、湿った重さがあるきりだった。吸い込むと、のどの奥に古い紙の匂いが広がった。

こよいは周囲を見回した。停車場ていしゃじょうには三人以外の人影がなかった。待合まちあいの長椅子が壁際に並んでいるが、座面の木が反り返り、くぎが浮いている。長い間、誰も座っていない。切符売り場の窓口に蜘蛛くもの巣が幾重にも張り巡らされ、その糸の一本一本が、行灯あんどんの光を受けて銀色に光っている。糸は細いのに、不自然なほど丈夫に見えた。風が吹いても揺れない。

久遠くおん目録もくろくを開いた。

義眼ぎがん蒼光そうこうページを照らしたが、文字を追う速度がいつもより遅い。同じ行を何度も読み返している。文字そのものの意味が変わりかけているのだ。ことわりの書き換えが、目録もくろくにまで干渉している。ページの余白に、かつてなかった染みが浮かんでいた。染みは文字に見えなくもない。消された記録の影が、紙の上ににじみ出しているのかもしれなかった。

久遠くおんの眉間にしわが寄った。義眼ぎがん蒼光そうこうが不規則に明滅している。

「……ここもだ」

久遠くおん目録もくろくを指でなぞった。前の停車場ていしゃじょうで見つけた間引きは、始まりにすぎなかった。この土地に記録されていたはずの名前も、同じ割合で白い。白くなった箇所を蒼光そうこうで照らしても、光が素通りする。紙の繊維せんいの中から、すみの粒子ごと、存在した事実ごと消えている。

こよいは窓口の蜘蛛くもの巣をもう一度見た。糸の張り方に規則性があった。巣の中心部分だけ、糸がない。何かがそこにあって、それが消えたあとに、蜘蛛が残された空間に巣を張ったのだ。窓口の奥にも同じ構造が見えた。棚がある。棚の上に等間隔の空白がある。かつてふだが並んでいた場所だ。ふだは消え、その隙間に蜘蛛くもが巣を張った。

名前があった場所に、蜘蛛くもの巣が張られている。

それが、間引きの痕跡こんせきだった。名前が消えた空間を、蜘蛛くもの糸が静かに埋めている。名前の代わりに、空白を繋ぎ止めるように。  おたまが窓口の台に跳び乗り、巣の中心——糸のない空洞を、長いこと見つめていた。猫の目は、空白の形から、そこにあったものの形を読み取っているようだった。やがておたまは、空洞に向かって、ゆっくりと一度、まばたきをした。いない誰かへの、猫の挨拶を。

「間引きって——この場所で凍えている神様たちは、もう」

こよいの声が細くなった。巾着きんちゃくひもを握る指に力が入る。

久遠くおん目録もくろくから顔を上げなかった。

「間引かれた名前は凍結とうけつすらされていない。凍っていれば融かせる。消されたものは、融かす対象がない」

こよいののどが詰まった。凍結は、まだ待てる。忘却は、いためる。だが間引きには、待つ相手も悼む対象もない。三つの消え方の中で、これがいちばん、ゆるしがたかった。

その声は平坦だった。だが目録もくろくを持つ指の先が白くなっている。力を入れすぎて、血の気が引いていた。久遠くおんもまた、この事実を受け入れがたいのだ。義眼ぎがん蒼光そうこうが一瞬だけ強く明滅し、すぐに元の光量に戻った。

こよいは巾着きんちゃくを胸に抱いた。布の中の神々が、こよいの感情に応えるように弱く脈打った。温かくはなかった。冷えてもいなかった。ただ、そこにいると伝えるだけの、静かな脈動だった。名前たちも同じように黙っている。間引かれた名前の気配を感じ取って、声を出せずにいるのかもしれなかった。

あさひは剣を肩にかついだまま、前を歩いていた。肩甲骨けんこうこつの間に大剣の重みが食い込み、革紐かわひも外套がいとうの布地にしわを刻んでいる。

足取りは重い。石畳いしだたみを踏むたびに振動が地面を伝い、きりの薄い層が足元で散った。あさひの足音だけが、この停車場ていしゃじょうに生きた音を刻んでいる。

「呼ぶな」

あさひが振り返らずに言った。

「名前の痕跡こんせきが残ってるなら、呼びかけたくなるだろうが、やめろ。名を呼んだ瞬間、こちら側の名前が先に削られる」

こよいは唇を閉じた。歯の裏に、名前を呼びかけようとした声の形が残っている。

呼びかけたかった。この停車場ていしゃじょうのどこかに、名前を失った神の気配がまだ残っているなら、声をかけたかった。蜘蛛くもの巣の隙間に、かすかに揺れる空気がある。それが名前の残響ざんきょうなのか、ただの風なのか、こよいには区別がつかない。だが、あさひの言葉は正しかった。削られるのは自分たちだ。今はまだ、ここを通り過ぎるしかない。

代わりに、胸の中で祈った。声にならない声で、聞こえるはずのない相手に向けて。いつか必ず、と。名前が残っていなくても、ここに誰かがいたことを覚えている者がいると。

巾着きんちゃくの中で、雨の神が一度だけ、強く脈打った。

呼びかけなくても、届いている。そう信じることだけが、今のこよいにできることだった。祈りは記録に残らない。残らないからこそ、理にも観測者にも奪えない。声なき祈りは、この世界でいちばん安全な、そしていちばん無力で、いちばん確かな抵抗だった。

三人は足音を殺して歩いた。石畳いしだたみの継ぎ目にきりが溜まり、足を置くたびに白い筋がゆっくりと散っていく。停車場ていしゃじょうの奥に、列車の輪郭りんかくきりの中に浮かんでいた。車体のはがねきりまとい、まるできりそのものが列車の形を取っているように見えた。北へ。名前を運んだ者のわだちを追って、旅は続く。

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