停車場に降り立った三人の足元で、石畳の隙間から霧が立ち上っていた。靴底を舐めるように纏わりつき、足首のあたりで渦を巻いている。冷たさではなく、湿った重さがある霧だった。吸い込むと、喉の奥に古い紙の匂いが広がった。
こよいは周囲を見回した。停車場には三人以外の人影がなかった。待合の長椅子が壁際に並んでいるが、座面の木が反り返り、釘が浮いている。長い間、誰も座っていない。切符売り場の窓口に蜘蛛の巣が幾重にも張り巡らされ、その糸の一本一本が、行灯の光を受けて銀色に光っている。糸は細いのに、不自然なほど丈夫に見えた。風が吹いても揺れない。
久遠が目録を開いた。
義眼の蒼光が頁を照らしたが、文字を追う速度がいつもより遅い。同じ行を何度も読み返している。文字そのものの意味が変わりかけているのだ。理の書き換えが、目録にまで干渉している。頁の余白に、かつてなかった染みが浮かんでいた。染みは文字に見えなくもない。消された記録の影が、紙の上に滲み出しているのかもしれなかった。
久遠の眉間に皺が寄った。義眼の蒼光が不規則に明滅している。
「……ここもだ」
久遠が目録を指でなぞった。前の停車場で見つけた間引きは、始まりにすぎなかった。この土地に記録されていたはずの名前も、同じ割合で白い。白くなった箇所を蒼光で照らしても、光が素通りする。紙の繊維の中から、墨の粒子ごと、存在した事実ごと消えている。
こよいは窓口の蜘蛛の巣をもう一度見た。糸の張り方に規則性があった。巣の中心部分だけ、糸がない。何かがそこにあって、それが消えたあとに、蜘蛛が残された空間に巣を張ったのだ。窓口の奥にも同じ構造が見えた。棚がある。棚の上に等間隔の空白がある。かつて札が並んでいた場所だ。札は消え、その隙間に蜘蛛が巣を張った。
名前があった場所に、蜘蛛の巣が張られている。
それが、間引きの痕跡だった。名前が消えた空間を、蜘蛛の糸が静かに埋めている。名前の代わりに、空白を繋ぎ止めるように。 おたまが窓口の台に跳び乗り、巣の中心——糸のない空洞を、長いこと見つめていた。猫の目は、空白の形から、そこにあったものの形を読み取っているようだった。やがておたまは、空洞に向かって、ゆっくりと一度、瞬きをした。いない誰かへの、猫の挨拶を。
「間引きって——この場所で凍えている神様たちは、もう」
こよいの声が細くなった。巾着の紐を握る指に力が入る。
久遠は目録から顔を上げなかった。
「間引かれた名前は凍結すらされていない。凍っていれば融かせる。消されたものは、融かす対象がない」
こよいの喉が詰まった。凍結は、まだ待てる。忘却は、悼める。だが間引きには、待つ相手も悼む対象もない。三つの消え方の中で、これがいちばん、赦しがたかった。
その声は平坦だった。だが目録を持つ指の先が白くなっている。力を入れすぎて、血の気が引いていた。久遠もまた、この事実を受け入れがたいのだ。義眼の蒼光が一瞬だけ強く明滅し、すぐに元の光量に戻った。
こよいは巾着を胸に抱いた。布の中の神々が、こよいの感情に応えるように弱く脈打った。温かくはなかった。冷えてもいなかった。ただ、そこにいると伝えるだけの、静かな脈動だった。名前たちも同じように黙っている。間引かれた名前の気配を感じ取って、声を出せずにいるのかもしれなかった。
あさひは剣を肩に担いだまま、前を歩いていた。肩甲骨の間に大剣の重みが食い込み、革紐が外套の布地に皺を刻んでいる。
足取りは重い。石畳を踏むたびに振動が地面を伝い、霧の薄い層が足元で散った。あさひの足音だけが、この停車場に生きた音を刻んでいる。
「呼ぶな」
あさひが振り返らずに言った。
「名前の痕跡が残ってるなら、呼びかけたくなるだろうが、やめろ。名を呼んだ瞬間、こちら側の名前が先に削られる」
こよいは唇を閉じた。歯の裏に、名前を呼びかけようとした声の形が残っている。
呼びかけたかった。この停車場のどこかに、名前を失った神の気配がまだ残っているなら、声をかけたかった。蜘蛛の巣の隙間に、かすかに揺れる空気がある。それが名前の残響なのか、ただの風なのか、こよいには区別がつかない。だが、あさひの言葉は正しかった。削られるのは自分たちだ。今はまだ、ここを通り過ぎるしかない。
代わりに、胸の中で祈った。声にならない声で、聞こえるはずのない相手に向けて。いつか必ず、と。名前が残っていなくても、ここに誰かがいたことを覚えている者がいると。
巾着の中で、雨の神が一度だけ、強く脈打った。
呼びかけなくても、届いている。そう信じることだけが、今のこよいにできることだった。祈りは記録に残らない。残らないからこそ、理にも観測者にも奪えない。声なき祈りは、この世界でいちばん安全な、そしていちばん無力で、いちばん確かな抵抗だった。
三人は足音を殺して歩いた。石畳の継ぎ目に霧が溜まり、足を置くたびに白い筋がゆっくりと散っていく。停車場の奥に、列車の輪郭が霧の中に浮かんでいた。車体の鋼が霧を纏い、まるで霧そのものが列車の形を取っているように見えた。北へ。名前を運んだ者の轍を追って、旅は続く。
