影の中心が、映像を持っていた。 灰色の壁が列車を包んだ瞬間、窓の外に何かが映った。 いつもの均一な灰色ではなかった。 灰色の層と層の間に、薄い光の帯が挟まっている。帯は水平に走り、列車の進行方向に沿って長く伸びていた。光の色は白に近いが、ところどころ黄みを帯びていて、古い写真の退色に似ていた。
その帯の中で、何かが動いていた。動きは緩慢で、重い荷を負った者の歩調に似ていた。
おたまは、映像が始まる前から窓辺にいた。猫の目は、灰色の層の奥をずっと追っていた。
「人だ」
こよいが窓に顔を寄せた。吐いた息が硝子を曇らせ、慌てて袖で拭った。 灰色の中に、人影がある。 正確には、人影の記憶だった。 薄い光の帯が、過去の映像を保存していた。
影の中心は、理の情報を塗り潰す場所だと久遠は言った。 だが、塗り潰された情報は完全には消えない。 灰色の層の間に、残像として焼き付いている。何重にも塗り重ねた壁の下に、最初の色がかすかに透けるように。
人影は一人だった。 大きな背中。こよいの二倍はありそうだった。
あさひよりも広い肩幅。肩から首筋にかけての線が太く、頭の位置が低い。荷の重さで前傾しているのだ。
その人は何かを背負っていた。 布に包まれた荷を、両腕で抱えるように背負い、重い足取りで歩いている。布の端が風に揺れている。風があったのだ、この道にも、かつては。 場所は、三人が今通っている道と同じだった。灰色の地面に刻まれた轍の跡まで重なっている。 同じ線路の上を、同じ方向に向かって。
「最初の神だ」
久遠が義眼で映像を見た。蒼光が窓硝子を透過し、灰色の帯に触れた。
蒼光が灰色の層に干渉し、映像がわずかに鮮明になった。輪郭がはっきりし、布の皺や足の運びが見えるようになった。一歩ごとに砂利を踏む動作まで分かる。靴を履いていなかった。素足で、石の上を歩いている。
「時間軸が古い。数千年前の残像だ。影の中心に焼き付いた記録——この道を、最初の神が歩いた」
映像の中の人影は、一歩ごとに身体を揺らしていた。 荷が重いのだ。
布の隙間から、微かな光が漏れていた。 白い光。
冷たそうな光。名前を凍らせる前の、まだ生きている光。
「あの荷物は」
こよいが呟いた。巾着の中で、神々がかすかに身じろぎした。映像の中の光に反応しているのか、それとも背中の人影に。
「名前だ」
久遠の声が低くなった。
「凍結する前の名前を運んでいる。集めた名前を、凍結の場所まで運ぶために、一人でこの道を歩いた」
映像が薄れていく。
灰色の層が厚くなり、光の帯が圧縮される。色が褪せ、輪郭が溶けていく。何千年分の塗り潰しが、残像の上にまた一層重なろうとしている。 消える直前、人影が一度だけ振り返った。 顔は見えなかった。 灰色に塗り潰されて、輪郭しか残っていない。
だが、その輪郭が震えていた。 泣いている。 こよいにはそう見えた。 大きな背中で名前を運びながら、一人で泣いている。 誰にも見せない場所で、影の中で、声を殺して。 こよいの胸に、旅の始まりの夜が浮かんだ。誰にも見つからないように、巾着を抱えて歩いた夜。あの心細さを、何千年も、たった一人で。分かる、と言うにはあまりに遠い。それでも、あの背中の震え方だけは、身体が知っていた。
映像が消えた。
窓の外は、いつもの灰色に戻った。何も残っていない。光の帯も、人影も。ただ均一な灰色が窓硝子の外に貼り付いている。けれどこよいの目の奥には、振り返った瞬間の震える輪郭が、まだ残像として焼き付いていた。 あさひが腕を組んだまま、窓を見ていた。
「一人で運んだのか」
「一人だった。この映像の中に、他の存在はない。観測者も、他の神も、いない」
久遠が目録を見た。
金色の筋が、まだ揺れている。原本との共鳴が、映像の記憶に反応して強くなっていた。
「隠れていたんだ。観測者から名前を集め、凍結する作業を、誰にも知られずに」
「なぜ隠れる必要があった」
あさひの問いに、久遠は答えなかった。 答えを持っていないのではなく、答えの形がまだ見えないのだと、こよいには分かった。久遠の義眼が蒼光を落とし、薄暗い車内で久遠の表情だけが影に沈んだ。
列車が影の中心を抜けた。 薄い霧の向こうに、星野の灯が見えた。北へ来たはずの目に、だ。記録の環が、また折り返している。 巾着が温かく脈打った。
あの人影の背中を覚えているように、深く、ゆっくりと。
こよいは窓硝子に額を預け、消えた映像の残像を瞼の裏で追った。 一人で泣きながら名前を運んだ背中。 その孤独の重さが、胸の奥にじわりと沁みていく。
霧の向こうで遠い灯が揺れ、列車の鋼の骨格がかすかに軋んだ。
次の停車場に降りて、間もなくだった。 久遠が目録を検め、顔色を変えた。書き戻したはずの名前の、三分の一が——ない。消えたのではない。頁に、最初から書かれていなかったことになっている。窪みも、墨の影もなく。
「……間引きだ」
久遠の声は低かった。
「消すのでも、凍らせるのでもない。存在した事実ごと、最初からなかったことにする。あの背中が運んでいた名前は——こうならないように、運ばれていたんだ」
泣きながら運んだ理由の、半分が分かった気がした。三人は言葉少なに、無人の停車場の霧の中に立っていた。
