第287話 最初からなかった名前
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第287話 最初からなかった名前

第10章 波の端

かげ中心ちゅうしんが、映像を持っていた。  灰色の壁が列車を包んだ瞬間、窓の外に何かが映った。  いつもの均一な灰色ではなかった。  灰色の層と層の間に、薄い光の帯が挟まっている。帯は水平に走り、列車の進行方向に沿って長く伸びていた。光の色は白に近いが、ところどころ黄みを帯びていて、古い写真の退色たいしょくに似ていた。

その帯の中で、何かが動いていた。動きは緩慢で、重い荷を負った者の歩調に似ていた。

おたまは、映像が始まる前から窓辺にいた。猫の目は、灰色の層の奥をずっと追っていた。

「人だ」

こよいが窓に顔を寄せた。吐いた息が硝子ガラスを曇らせ、慌ててそでぬぐった。  灰色の中に、人影ひとかげがある。  正確には、人影ひとかげの記憶だった。  薄い光の帯が、過去の映像を保存していた。

かげ中心ちゅうしんは、ことわりの情報を塗り潰す場所だと久遠くおんは言った。  だが、塗り潰された情報は完全には消えない。  灰色の層の間に、残像ざんぞうとして焼き付いている。何重にも塗り重ねた壁の下に、最初の色がかすかに透けるように。

人影ひとかげは一人だった。  大きな背中。こよいの二倍はありそうだった。

あさひよりも広い肩幅。肩から首筋にかけての線が太く、頭の位置が低い。荷の重さで前傾しているのだ。

その人は何かを背負っていた。  布に包まれた荷を、両腕で抱えるように背負い、重い足取りで歩いている。布の端が風に揺れている。風があったのだ、この道にも、かつては。  場所は、三人が今通っている道と同じだった。灰色の地面に刻まれたわだちの跡まで重なっている。  同じ線路の上を、同じ方向に向かって。

「最初の神だ」

久遠くおん義眼ぎがんで映像を見た。蒼光そうこう窓硝子まどがらすを透過し、灰色の帯に触れた。

蒼光そうこうが灰色の層に干渉し、映像がわずかに鮮明になった。輪郭りんかくがはっきりし、布のしわや足の運びが見えるようになった。一歩ごとに砂利じゃりを踏む動作まで分かる。靴をいていなかった。素足で、石の上を歩いている。

「時間軸が古い。数千年前の残像ざんぞうだ。かげ中心ちゅうしんに焼き付いた記録——この道を、最初の神が歩いた」

映像の中の人影ひとかげは、一歩ごとに身体を揺らしていた。  荷が重いのだ。

布の隙間から、微かな光が漏れていた。  白い光。

冷たそうな光。名前を凍らせる前の、まだ生きている光。

「あの荷物は」

こよいがつぶやいた。巾着きんちゃくの中で、神々がかすかに身じろぎした。映像の中の光に反応しているのか、それとも背中の人影ひとかげに。

「名前だ」

久遠くおんの声が低くなった。

凍結とうけつする前の名前を運んでいる。集めた名前を、凍結とうけつの場所まで運ぶために、一人でこの道を歩いた」

映像が薄れていく。

灰色の層が厚くなり、光の帯が圧縮あっしゅくされる。色がせ、輪郭りんかくが溶けていく。何千年分の塗り潰しが、残像ざんぞうの上にまた一層重なろうとしている。  消える直前、人影ひとかげが一度だけ振り返った。  顔は見えなかった。  灰色に塗り潰されて、輪郭りんかくしか残っていない。

だが、その輪郭りんかくが震えていた。  泣いている。  こよいにはそう見えた。  大きな背中で名前を運びながら、一人で泣いている。  誰にも見せない場所で、かげの中で、声を殺して。  こよいの胸に、旅の始まりの夜が浮かんだ。誰にも見つからないように、巾着を抱えて歩いた夜。あの心細さを、何千年も、たった一人で。分かる、と言うにはあまりに遠い。それでも、あの背中の震え方だけは、身体が知っていた。

映像が消えた。

窓の外は、いつもの灰色に戻った。何も残っていない。光の帯も、人影ひとかげも。ただ均一な灰色が窓硝子まどがらすの外に貼り付いている。けれどこよいの目の奥には、振り返った瞬間の震える輪郭りんかくが、まだ残像ざんぞうとして焼き付いていた。  あさひが腕を組んだまま、窓を見ていた。

「一人で運んだのか」

「一人だった。この映像の中に、他の存在はない。観測者かんそくしゃも、他の神も、いない」

久遠くおん目録もくろくを見た。

金色の筋が、まだ揺れている。原本げんぽんとの共鳴きょうめいが、映像の記憶に反応して強くなっていた。

「隠れていたんだ。観測者かんそくしゃから名前を集め、凍結とうけつする作業を、誰にも知られずに」

「なぜ隠れる必要があった」

あさひの問いに、久遠くおんは答えなかった。  答えを持っていないのではなく、答えの形がまだ見えないのだと、こよいには分かった。久遠くおん義眼ぎがん蒼光そうこうを落とし、薄暗い車内で久遠くおんの表情だけが影に沈んだ。

列車がかげ中心ちゅうしんを抜けた。  薄いきりの向こうに、星野ほしのが見えた。北へ来たはずの目に、だ。記録の環が、また折り返している。  巾着きんちゃくが温かく脈打った。

あの人影ひとかげの背中を覚えているように、深く、ゆっくりと。

こよいは窓硝子まどがらすに額を預け、消えた映像の残像ざんぞうまぶたの裏で追った。  一人で泣きながら名前を運んだ背中。  その孤独の重さが、胸の奥にじわりとみていく。

きりの向こうで遠いが揺れ、列車のはがね骨格こっかくがかすかにきしんだ。

次の停車場ていしゃじょうに降りて、間もなくだった。  久遠くおん目録もくろくあらため、顔色を変えた。書き戻したはずの名前の、三分の一が——ない。消えたのではない。ページに、最初から書かれていなかったことになっている。くぼみも、すみの影もなく。

「……間引きだ」

久遠くおんの声は低かった。

「消すのでも、凍らせるのでもない。存在した事実ごと、最初からなかったことにする。あの背中が運んでいた名前は——こうならないように、運ばれていたんだ」

泣きながら運んだ理由の、半分が分かった気がした。三人は言葉少なに、無人の停車場ていしゃじょうきりの中に立っていた。

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