海の端の乗り場に現れた霧列車は、北へ折れてすぐ、深い灰色の帯へ突っ込んだ。
列車が影の中心に入った瞬間、音が死んだ。
車輪の軋みが消えた。線路を叩く規則的な振動が、途切れたのではなく、溶けた。空気から重さが抜け落ち、こよいの耳の奥に残ったのは、自分自身の血流だけだった。耳鳴りですらない。血液が鼓膜の裏側を通るときの、湿った低い脈動。それだけが、世界がまだ動いていることを教えていた。
窓の外が灰色に塗り替わっていく。
灰色、という言葉では正確ではなかった。色の不在だった。白でも黒でもない。何かであることを放棄した光が、列車の周囲に均一に満ちている。遠くも近くもない。奥行きという概念そのものが、この場所には存在しなかった。窓硝子の外に貼り付けられた一枚の灰色の紙のように、何の変化もない面が広がっている。
こよいは窓硝子に指先を触れた。冷たくなかった。温かくもなかった。硝子の感触はあるのに、温度だけが欠落している。まるで触覚の一部だけを丁寧に抜き取られたような、気味の悪い中立だった。指先の腹で硝子の表面を擦ると、摩擦はある。けれど温度がない。触れているのに、触れていないような。
巾着が沈黙していた。 脈動が止まっている。温度も薄れていく。こよいは両手で布袋を包み、自分の体温を送り続けた。掌の熱がどこまで届いているのか、確かめる術はない。それでも送り続けた。届いていると信じることだけが、この灰色の中でできる唯一のことだった。
神々の脈動が止まっている。眠っているのとは違う。忘却の海の端で眠っていたときは、温もりが布越しに伝わっていた。今は、それすらない。巾着が腰にあるという重さだけが、神々の存在を証明していた。
こよいは巾着を掌で包んだ。何も返ってこなかった。声をかけたかったが、喉の奥が妙に乾いていて、言葉が形にならなかった。唇を動かしても、音が空気に溶ける前に消えてしまう。この場所では、声すら灰色に塗り潰されるのかもしれなかった。
久遠が目録を開いていた。
義眼の蒼光が頁を照らしているが、その光が紙面に吸い込まれて消えていく。文字が書き換えられるのではなかった。文字がない。頁の一枚一枚が白い。文字が消されたのでもなく、最初から何も記されていなかったかのように、完全な空白が久遠の義眼を見返している。
「……何もない」
久遠が呟いた。
その声は驚きではなかった。困惑に近い何かだった。目録は世界の情報を映す鏡だ。情報がある限り、白紙であるはずがない。それが白い。蒼光を当てても、角度を変えても、白いままだ。久遠の指が頁の紙面を撫でた。紙の繊維は残っている。触れれば紙の感触がある。だが情報だけがない。器があって中身がない。
久遠は頁を繰る手を止め、開いたまま膝の上に置いた。蒼光が薄れていく。照らすものがなければ、光は意味を失う。義眼が自分の無力を認めたかのように、蒼い光が細くなっていった。
あさひが腕を解いた。
背もたれから身体を起こし、剣の柄に手を置いた。抜くためではない。確かめるためだった。柄に嵌め込まれた結晶が、微かに震えている。戦いの前の震えではなかった。共鳴する相手を失った楽器が、自分の空洞に気づいたときのような、寄る辺のない振動だった。
あさひは眉をひそめ、布の包みの結び目を指で弾いた。いつもなら革紐が鳴る乾いた音がする。今は、何も聞こえなかった。指に弾いた感触だけがあり、音だけが存在しなかった。あさひの顎が僅かに強張った。音がないことに対する、剣士としての本能的な拒絶だった。
三人は黙っていた。
黙っていたのではなく、喋れなかったのかもしれない。灰色の均一さが車内にまで染み込んできて、言葉を発するという行為そのものが不自然に感じられた。呼吸は続いている。心臓は動いている。けれど、それ以外のすべてが灰色の沈殿の中に沈んでいくような、ゆるやかな麻痺が三人を包んでいた。
時間が経った。
どれだけ経ったのか分からなかった。灰色に変化がないから、経過を測る基準がない。一分かもしれないし、一刻かもしれない。列車は動いているはずだった。振動がないから確信が持てないだけで、止まったという感覚もなかった。
窓の灰色が、揺れた。
こよいは最初それが自分の瞼の震えだと思った。けれど違った。灰色の均一さに、ほんの僅かな濃淡が生まれていた。薄い層と濃い層が、列車の進行方向に沿って縞のように並んでいる。
巾着が、微かに温もりを取り戻した。
まだ脈動はない。けれど温度が戻り始めている。こよいは掌を巾着に押し当てたまま、窓の外の灰色の縞を見つめた。温度が戻るということは、神々がここにいると思い出し始めたということだ。灰色の中でも、消えてはいなかった。
影の中心の奥に、何かがあった。灰色の層の間に、かすかな光の筋が見えた。 筋は、揺れながら、少しずつ形を結ぼうとしていた。縦に長い、大きな影。人の背中に似た輪郭が、灰色の奥で滲むように浮かびかけている。誰かの残像が、そこにいた。大きな、けれどひどく寂しい背中だった。 おたまが、座席の上で身を起こした。灰色の間じゅう毛づくろいひとつしなかった猫が、初めて、窓の外の一点を見つめていた。
