第286話 泣く背中の残像
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第286話 泣く背中の残像

第10章 波の端

海の端の乗り場に現れた霧列車きりれっしゃは、北へ折れてすぐ、深い灰色の帯へ突っ込んだ。

列車がかげ中心ちゅうしんに入った瞬間、音が死んだ。

車輪しゃりんきしみが消えた。線路せんろたたく規則的な振動が、途切れたのではなく、溶けた。空気から重さが抜け落ち、こよいの耳の奥に残ったのは、自分自身の血流だけだった。耳鳴りですらない。血液が鼓膜の裏側を通るときの、湿った低い脈動。それだけが、世界がまだ動いていることを教えていた。

窓の外が灰色に塗り替わっていく。

灰色、という言葉では正確ではなかった。色の不在だった。白でも黒でもない。何かであることを放棄ほうきした光が、列車の周囲に均一きんいつに満ちている。遠くも近くもない。奥行きという概念そのものが、この場所には存在しなかった。窓硝子まどがらすの外に貼り付けられた一枚の灰色の紙のように、何の変化もない面が広がっている。

こよいは窓硝子まどがらすに指先を触れた。冷たくなかった。温かくもなかった。硝子ガラスの感触はあるのに、温度だけが欠落けつらくしている。まるで触覚しょっかくの一部だけを丁寧ていねいに抜き取られたような、気味の悪い中立ちゅうりつだった。指先の腹で硝子ガラスの表面を擦ると、摩擦まさつはある。けれど温度がない。触れているのに、触れていないような。

巾着きんちゃくが沈黙していた。  脈動が止まっている。温度も薄れていく。こよいは両手で布袋を包み、自分の体温を送り続けた。掌の熱がどこまで届いているのか、確かめる術はない。それでも送り続けた。届いていると信じることだけが、この灰色の中でできる唯一のことだった。

神々の脈動が止まっている。眠っているのとは違う。忘却ぼうきゃくの海の端で眠っていたときは、温もりが布越しに伝わっていた。今は、それすらない。巾着きんちゃくが腰にあるという重さだけが、神々の存在を証明していた。

こよいは巾着きんちゃくてのひらで包んだ。何も返ってこなかった。声をかけたかったが、のどの奥が妙に乾いていて、言葉が形にならなかった。唇を動かしても、音が空気に溶ける前に消えてしまう。この場所では、声すら灰色に塗り潰されるのかもしれなかった。

久遠くおん目録もくろくを開いていた。

義眼ぎがん蒼光そうこうページを照らしているが、その光が紙面に吸い込まれて消えていく。文字が書き換えられるのではなかった。文字がない。ページの一枚一枚が白い。文字が消されたのでもなく、最初から何も記されていなかったかのように、完全な空白が久遠くおん義眼ぎがんを見返している。

「……何もない」

久遠くおんつぶやいた。

その声は驚きではなかった。困惑こんわくに近い何かだった。目録もくろくは世界の情報を映す鏡だ。情報がある限り、白紙であるはずがない。それが白い。蒼光そうこうを当てても、角度を変えても、白いままだ。久遠くおんの指がページの紙面をでた。紙の繊維せんいは残っている。触れれば紙の感触がある。だが情報だけがない。うつわがあって中身がない。

久遠くおんページる手を止め、開いたままひざの上に置いた。蒼光そうこうが薄れていく。照らすものがなければ、光は意味を失う。義眼ぎがんが自分の無力を認めたかのように、蒼い光が細くなっていった。

あさひが腕を解いた。

背もたれから身体を起こし、剣のつかに手を置いた。抜くためではない。確かめるためだった。つかめ込まれた結晶けっしょうが、微かに震えている。戦いの前の震えではなかった。共鳴きょうめいする相手を失った楽器が、自分の空洞くうどうに気づいたときのような、寄るのない振動だった。

あさひは眉をひそめ、布の包みの結び目を指で弾いた。いつもなら革紐かわひもが鳴る乾いた音がする。今は、何も聞こえなかった。指に弾いた感触だけがあり、音だけが存在しなかった。あさひのあごが僅かに強張こわばった。音がないことに対する、剣士としての本能的な拒絶だった。

三人は黙っていた。

黙っていたのではなく、しゃべれなかったのかもしれない。灰色の均一きんいつさが車内にまで染み込んできて、言葉を発するという行為そのものが不自然に感じられた。呼吸は続いている。心臓は動いている。けれど、それ以外のすべてが灰色の沈殿ちんでんの中に沈んでいくような、ゆるやかな麻痺まひが三人を包んでいた。

時間が経った。

どれだけ経ったのか分からなかった。灰色に変化がないから、経過を測る基準がない。一分かもしれないし、一刻いっときかもしれない。列車は動いているはずだった。振動がないから確信が持てないだけで、止まったという感覚もなかった。

窓の灰色が、揺れた。

こよいは最初それが自分のまぶたの震えだと思った。けれど違った。灰色の均一きんいつさに、ほんの僅かな濃淡のうたんが生まれていた。薄い層と濃い層が、列車の進行方向に沿ってしまのように並んでいる。

巾着きんちゃくが、微かに温もりを取り戻した。

まだ脈動はない。けれど温度が戻り始めている。こよいはてのひら巾着きんちゃくに押し当てたまま、窓の外の灰色のしまを見つめた。温度が戻るということは、神々がここにいると思い出し始めたということだ。灰色の中でも、消えてはいなかった。

かげ中心ちゅうしんの奥に、何かがあった。灰色の層の間に、かすかな光のすじが見えた。  筋は、揺れながら、少しずつ形を結ぼうとしていた。縦に長い、大きな影。人の背中に似た輪郭りんかくが、灰色の奥でにじむように浮かびかけている。誰かの残像が、そこにいた。大きな、けれどひどく寂しい背中だった。  おたまが、座席の上で身を起こした。灰色の間じゅう毛づくろいひとつしなかった猫が、初めて、窓の外の一点を見つめていた。

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