第285話 沈黙の約束
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第285話 沈黙の約束

第10章 波の端

漂白された土地を西へ抜けると、地面は次第に湿り、やがて見覚えのある白い気配に行き着いた。忘却(ぼうきゃく)の海——その北の端だった。線路はここで一度、海の縁を掠(かす)めてから北へ折れる。次の列車を待つ間、三人は座った。

話すべきことは山ほどあった。星野の森の夜に読んだ、あの手紙のこと。名前は本来、巡るものとして設計されたこと。凍結(とうけつ)は誰かが後から書き加えた歪(ゆが)みであること。言葉にすれば整理できるものも、きっとあった。

だが、誰も口を開かなかった。

波が足元をかすめる度に、霧(きり)が薄く巻き上がる。海と呼ばれているが、水の匂いはしない。忘れられた記憶が凝(こ)って液体になったような、甘くも苦くもない、ただ重い気配が漂(ただよ)っていた。

こよいは巾着(きんちゃく)を膝(ひざ)の上に置いた。神々は眠っているように静かだった。脈動も、光もない。けれど温もりだけは確かにあって、布越しに掌(てのひら)へと伝わっていた。

あさひは布に包んだ剣を膝(ひざ)の上に横たえ、包みの上に両手を添えていた。柄(つか)にも刃(やいば)にも触れない。ただ重さだけを膝(ひざ)に受け止めて、海の方を見ていた。風が髪を攫(さら)っても、払おうとしなかった。

久遠(くおん)は目録(もくろく)を閉じていた。

珍しいことだった。あの目録(もくろく)を手放さない久遠(くおん)が、表紙を上にして膝(ひざ)に伏せ、その上に両手を重ねている。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)は消えてはいなかったが、頁(ページ)を照らすためではなく、ただ海面に映る霧(きり)の揺らぎを追っているだけだった。

三人の間に、沈黙が降りた。

それは気まずさでも、疲労でもなかった。言葉を探して見つからない焦りでもなかった。ただ、今この瞬間に声を出してはいけないという、誰に教わったのでもない確信が、三人の胸の中に同時に灯(とも)っていた。

波が引く。霧(きり)が寄せる。

遠くで何かが軋(きし)む音がした。忘却(ぼうきゃく)の海の底で、古い名前が寝返りを打ったような、低くて長い響き。

こよいは巾着(きんちゃく)の紐(ひも)を指に巻いた。きつくではない。ゆるく、何度も。紐(ひも)の感触を確かめるように。神々が脈打たないことが、逆に安心だった。眠っているなら、今は安全だということだから。

あさひの指先が、布越しに、鞘(さや)の漆塗(うるしぬ)りの輪郭を無意識になぞっていた。包みの下の鞘には、小さな傷がいくつもある。この旅でついた傷ではない。もっと古い、あさひが剣士になる前からの傷だ。指先がそのひとつひとつを辿(たど)るたびに、あさひの呼吸がほんの少しだけ深くなった。

久遠(くおん)の目録(もくろく)の上に、霧(きり)の雫(しずく)が一粒落ちた。革表紙の上で丸く光り、やがて染みもせずに蒸発した。久遠(くおん)はそれを見ていたが、拭(ぬぐ)おうとはしなかった。

海面が変わった。

こよいは最初、目の錯覚(さっかく)だと思った。忘却(ぼうきゃく)の海の表面を覆(おお)っていた灰色の霧(きり)が、ほんのわずかに色を帯び始めていた。橙(だいだい)ではない。桃色でもない。名前のつかない色だった。夜が終わりかける直前の、空がまだ暗さを手放せずにいるときの、あの曖昧(あいまい)な明るみ。

「……」

あさひが顔を上げた。海の向こうを見ている。こよいも同じ方向を見た。

水平線(すいへいせん)はなかった。海と霧(きり)の境界(きょうかい)は溶けていて、どこまでが水面でどこからが空なのか分からない。けれどその溶け合う場所の奥に、確かに光の兆(きざ)しがあった。夜明けというほど明確ではない。ただ、闇の密度が薄まっている場所がある。

久遠(くおん)が目録(もくろく)の上から手を離した。

開きはしなかった。ただ手を離して、膝(ひざ)の上に拳(こぶし)を置いた。その拳(こぶし)が微かに震えていたことに、こよいは気づいた。気づいたけれど、何も言わなかった。

巾着(きんちゃく)の中で、雨の神が一度だけ脈打った。

短く、静かに。心臓が一拍だけ強く打つような、そういう脈動だった。こよいは掌(てのひら)を巾着(きんちゃく)の上に置いた。温もりが少しだけ増していた。神々もまた、あの光の兆(きざ)しを感じ取ったのかもしれなかった。

沈黙が続いた。

けれどその沈黙の質が、変わっていた。座った時の沈黙は重かった。言葉の代わりに重力が三人を押さえつけているような、動けない静けさだった。今の沈黙は違う。三人の間に、見えない糸が一本通ったような、軽くて強い静けさだった。

約束(やくそく)、とこよいは思った。声には出さなかった。

これは約束(やくそく)だ。

北へ行く。最初の神を探す。名前がなぜ凍ったのか、なぜ循環(じゅんかん)を止めたのか、その答えを見つける。そのために歩き続ける。

言葉にしなかった。する必要がなかった。隣に座るあさひの呼吸の深さが、向こう側で拳(こぶし)を握る久遠(くおん)の指の震えが、膝(ひざ)の上で一度だけ脈打った雨の神の温もりが、全部同じことを言っていた。

あさひが立ち上がった。

剣を肩に担ぎ直し、海に背を向けた。振り返らなかった。北を向いた。それだけだった。

久遠(くおん)が目録(もくろく)を取り上げ、懐にしまった。開かないまま。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が一段強くなった。海の向こうではなく、あさひの背中を照らしていた。

こよいは巾着(きんちゃく)を腰に結び直した。紐(ひも)を締める指先に、神々の温もりが残っていた。立ち上がると、膝(ひざ)の裏が冷えていた。長く座っていたのだ。どれくらいの時間だったのか、分からなかった。

三人は歩き始めた。

声はなかった。足音だけがあった。霧(きり)の中に吸い込まれていく三つの足音。揃(そろ)ってはいなかったが、同じ方向へ向かっていた。

忘却(ぼうきゃく)の海の端で結ばれた約束(やくそく)は、どんな契約書よりも短かった。文字にすれば零(ぜろ)だった。

けれどその重さを、三人はそれぞれの身体で知っていた。

海の色が、ほんの少しだけ明るくなっていた。振り返れば見えたかもしれない。けれど、誰も振り返らなかった。

最初の一歩は、もう踏み出されていた。  おたまが、三人より半歩だけ先を歩いている。北へ。名前を持ったまま動いている神のいる方角へ。その先に何が待つのか、誰も知らない。ただ、八百年ぶんの孤独な足跡の主に、聞きたいことと、渡したいものが、確かにあった。

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