漂白された土地を西へ抜けると、地面は次第に湿り、やがて見覚えのある白い気配に行き着いた。忘却の海——その北の端だった。線路はここで一度、海の縁を掠めてから北へ折れる。次の列車を待つ間、三人は座った。
話すべきことは山ほどあった。星野の森の夜に読んだ、あの手紙のこと。名前は本来、巡るものとして設計されたこと。凍結は誰かが後から書き加えた歪みであること。言葉にすれば整理できるものも、きっとあった。
だが、誰も口を開かなかった。
波が足元をかすめる度に、霧が薄く巻き上がる。海と呼ばれているが、水の匂いはしない。忘れられた記憶が凝って液体になったような、甘くも苦くもない、ただ重い気配が漂っていた。
こよいは巾着を膝の上に置いた。神々は眠っているように静かだった。脈動も、光もない。けれど温もりだけは確かにあって、布越しに掌へと伝わっていた。
あさひは布に包んだ剣を膝の上に横たえ、包みの上に両手を添えていた。柄にも刃にも触れない。ただ重さだけを膝に受け止めて、海の方を見ていた。風が髪を攫っても、払おうとしなかった。
久遠は目録を閉じていた。
珍しいことだった。あの目録を手放さない久遠が、表紙を上にして膝に伏せ、その上に両手を重ねている。義眼の蒼光は消えてはいなかったが、頁を照らすためではなく、ただ海面に映る霧の揺らぎを追っているだけだった。
三人の間に、沈黙が降りた。
それは気まずさでも、疲労でもなかった。言葉を探して見つからない焦りでもなかった。ただ、今この瞬間に声を出してはいけないという、誰に教わったのでもない確信が、三人の胸の中に同時に灯っていた。
波が引く。霧が寄せる。
遠くで何かが軋む音がした。忘却の海の底で、古い名前が寝返りを打ったような、低くて長い響き。
こよいは巾着の紐を指に巻いた。きつくではない。ゆるく、何度も。紐の感触を確かめるように。神々が脈打たないことが、逆に安心だった。眠っているなら、今は安全だということだから。
あさひの指先が、布越しに、鞘の漆塗りの輪郭を無意識になぞっていた。包みの下の鞘には、小さな傷がいくつもある。この旅でついた傷ではない。もっと古い、あさひが剣士になる前からの傷だ。指先がそのひとつひとつを辿るたびに、あさひの呼吸がほんの少しだけ深くなった。
久遠の目録の上に、霧の雫が一粒落ちた。革表紙の上で丸く光り、やがて染みもせずに蒸発した。久遠はそれを見ていたが、拭おうとはしなかった。
海面が変わった。
こよいは最初、目の錯覚だと思った。忘却の海の表面を覆っていた灰色の霧が、ほんのわずかに色を帯び始めていた。橙ではない。桃色でもない。名前のつかない色だった。夜が終わりかける直前の、空がまだ暗さを手放せずにいるときの、あの曖昧な明るみ。
「……」
あさひが顔を上げた。海の向こうを見ている。こよいも同じ方向を見た。
水平線はなかった。海と霧の境界は溶けていて、どこまでが水面でどこからが空なのか分からない。けれどその溶け合う場所の奥に、確かに光の兆しがあった。夜明けというほど明確ではない。ただ、闇の密度が薄まっている場所がある。
久遠が目録の上から手を離した。
開きはしなかった。ただ手を離して、膝の上に拳を置いた。その拳が微かに震えていたことに、こよいは気づいた。気づいたけれど、何も言わなかった。
巾着の中で、雨の神が一度だけ脈打った。
短く、静かに。心臓が一拍だけ強く打つような、そういう脈動だった。こよいは掌を巾着の上に置いた。温もりが少しだけ増していた。神々もまた、あの光の兆しを感じ取ったのかもしれなかった。
沈黙が続いた。
けれどその沈黙の質が、変わっていた。座った時の沈黙は重かった。言葉の代わりに重力が三人を押さえつけているような、動けない静けさだった。今の沈黙は違う。三人の間に、見えない糸が一本通ったような、軽くて強い静けさだった。
約束、とこよいは思った。声には出さなかった。
これは約束だ。
北へ行く。最初の神を探す。名前がなぜ凍ったのか、なぜ循環を止めたのか、その答えを見つける。そのために歩き続ける。
言葉にしなかった。する必要がなかった。隣に座るあさひの呼吸の深さが、向こう側で拳を握る久遠の指の震えが、膝の上で一度だけ脈打った雨の神の温もりが、全部同じことを言っていた。
あさひが立ち上がった。
剣を肩に担ぎ直し、海に背を向けた。振り返らなかった。北を向いた。それだけだった。
久遠が目録を取り上げ、懐にしまった。開かないまま。義眼の蒼光が一段強くなった。海の向こうではなく、あさひの背中を照らしていた。
こよいは巾着を腰に結び直した。紐を締める指先に、神々の温もりが残っていた。立ち上がると、膝の裏が冷えていた。長く座っていたのだ。どれくらいの時間だったのか、分からなかった。
三人は歩き始めた。
声はなかった。足音だけがあった。霧の中に吸い込まれていく三つの足音。揃ってはいなかったが、同じ方向へ向かっていた。
忘却の海の端で結ばれた約束は、どんな契約書よりも短かった。文字にすれば零だった。
けれどその重さを、三人はそれぞれの身体で知っていた。
海の色が、ほんの少しだけ明るくなっていた。振り返れば見えたかもしれない。けれど、誰も振り返らなかった。
最初の一歩は、もう踏み出されていた。 おたまが、三人より半歩だけ先を歩いている。北へ。名前を持ったまま動いている神のいる方角へ。その先に何が待つのか、誰も知らない。ただ、八百年ぶんの孤独な足跡の主に、聞きたいことと、渡したいものが、確かにあった。
