霧列車が動き出した瞬間、車内の温度が二度ほど下がった。
こよいは吐いた息が白くなるのを見て、それが霧なのか自分の呼吸なのか分からなくなった。座席の木肌が冷たい。指先で触れると、表面に薄く霜のようなものが浮いていた。
窓の外は何も見えない。白い。ただ白い。星野の停車場を出てまだ数十秒しか経っていないはずなのに、建物の輪郭も線路脇の柵も、すべて霧に呑まれていた。
向かいの席で、久遠が目録を開いた。
義眼の蒼光が頁を照らした途端、久遠の指が止まった。こよいの位置からでも見えた。文字が薄くなっている。墨で書かれたはずの名前の一つが、紙の地色に溶けるようにして輪郭を失いかけていた。
久遠は何も言わず、頁をめくった。
次の頁。また一つ、名前が白くなりかけている。その隣の名前はまだ黒い。だがよく見ると、画数の多い文字の端から色が抜け始めていて、まるで紙が名前を拒絶しているようだった。
久遠の指が速くなった。
何を恐れているのか、こよいには分かった。久遠は書き戻してきた。白紙になった写しに、記憶から、一文字ずつ。あれは記録ではなく、久遠の歳月そのものだ。消えていくのは名前だけではない。書き戻した夜の数が、頁から抜き取られていく。
一頁、二頁、三頁。めくる速度が上がるにつれて、義眼の蒼光が強くなった。額に汗が浮いている。蒼い光に照らされた汗の粒が、こめかみを伝って顎の線を滑り落ちた。
こよいは声をかけようとして、やめた。久遠の目が文字を追う速さが、声をかけてはいけないと告げていた。読んでいるのではない。焼きつけているのだ。消える前に、一文字でも多く。
列車が揺れた。
その振動と同時に、目録の見開きの右頁に並んでいた七つの名前のうち、三つが一斉に白くなった。瞬きの間だった。さっきまで確かにそこにあった墨の痕跡が、紙の繊維ごと漂白されたように消えた。
久遠の喉が鳴った。小さな、飲み込むような音だった。
こよいの腰で、巾着が震えた。
中に眠る神々が脈打ったのではない。もっと細かい、痙攣のような震えだった。名前が消えるたびに、布越しに伝わる温度が一瞬だけ冷たくなる。こよいは巾着に手を当てた。掌の下で、また一つ冷えた。またどこかで、名前が消えたのだ。
こよいは数えていた。
三つ。五つ。八つ。列車が一区間進むごとに、消失の間隔が短くなっていく。巾着の布が冷えるたびに、こよいの背筋を細い痺れが走った。痛みではない。喪失の輪郭だった。誰かの名前が世界から剥がれ落ちる瞬間の、その端だけが身体に触れている。
久遠がめくる手を止めた。止めたのではない。めくる先がなくなったのだ。開いた頁の三分の一が、もう白紙に戻っていた。文字があった場所に、微かに窪みだけが残っている。筆圧の跡。名前がそこに在ったという、最後の物理的な証拠。
久遠は窪みの上に指を置いた。爪が白くなるほど押しつけている。読めない名前を、指先で読もうとしていた。
あさひは窓際に座ったまま、白い窓の外を見ていた。何も見えないはずの窓を、それでも見ていた。右手が膝の上の布包みを押さえている。拳に力が入るたびに、包みの中で革紐が軋んだ。
列車がまた揺れた。
今度は目録だけではなかった。天井の行灯の蒼い炎が一瞬ちらつき、座席の背もたれに彫り込まれた号車番号の数字が、一桁だけ薄くなった。列車そのものが漂白に曝されている。
こよいの足の裏が冷えた。靴底を通して、床板の温度が下がっていくのが分かった。木の温もりが消えていく。金属の冷たさとも違う。何かが抜け落ちていく冷たさだった。
巾着がまた震えた。今度は長く、三秒ほど続いた。こよいは両手で巾着を包み込んだ。自分の体温を押し返すようにして、冷えていく布を温めた。
「くおん」
こよいは小さく呼んだ。
久遠は顔を上げなかった。義眼の蒼光が頁の窪みを這い回っている。消えた名前の筆圧を、光で辿ろうとしていた。
「くおん。息して」
久遠の肩が一つ上下した。浅く、短く息を吸い、長く吐いた。目録から指を離さないまま。
窓の外の白が、少しだけ変わった。濃くなったのか薄くなったのか、こよいには分からなかった。ただ、列車が止まりかけていた。車輪の音が低くなり、振動が減り、霧の密度が窓硝子を圧迫するように迫っていた。
あさひが立ち上がった。
何も言わなかった。剣を肩に担ぎ直して、車両の出口に向かって歩き始めた。その足取りに迷いはなく、白い霧の中へ踏み出す準備がもう終わっているのだと、背中がそう言っていた。
久遠が目録を閉じた。立ち上がる前に、白くなった頁の窪みを、もう一度だけ指で撫でた。
こよいは巾着から手を離した。布はまだ冷たかった。けれど震えは止まっていた。神々が、覚悟を決めたように静まっていた。
列車が止まった。
扉が開くと、白い霧が車内に流れ込んだ。冷たくはなかった。温度がないのだ。何もかもが漂白された場所の空気は、冷たいとも温かいとも感じない。ただ、肺に入れると胸の奥が少しだけ軋んだ。
おたまが、最後に降りた。温度のない土を一度だけ前脚で確かめ、それから何事もなかったように歩き出す。猫の踏んだ場所だけ、白い地面に、ほんのわずかな温度が残った——ような気がした。
三人と一匹は、漂白された土地に立った。
