第284話 漂白の速度
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第284話 漂白の速度

第10章 波の端

霧列車(きりれっしゃ)が動き出した瞬間、車内の温度が二度ほど下がった。

こよいは吐いた息が白くなるのを見て、それが霧(きり)なのか自分の呼吸なのか分からなくなった。座席の木肌(きはだ)が冷たい。指先で触れると、表面に薄く霜(しも)のようなものが浮いていた。

窓の外は何も見えない。白い。ただ白い。星野(ほしの)の停車場(ていしゃじょう)を出てまだ数十秒しか経っていないはずなのに、建物の輪郭(りんかく)も線路脇の柵(さく)も、すべて霧(きり)に呑(の)まれていた。

向かいの席で、久遠(くおん)が目録(もくろく)を開いた。

義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が頁(ページ)を照らした途端、久遠(くおん)の指が止まった。こよいの位置からでも見えた。文字が薄くなっている。墨(すみ)で書かれたはずの名前の一つが、紙の地色(じいろ)に溶けるようにして輪郭(りんかく)を失いかけていた。

久遠(くおん)は何も言わず、頁(ページ)をめくった。

次の頁(ページ)。また一つ、名前が白くなりかけている。その隣の名前はまだ黒い。だがよく見ると、画数の多い文字の端から色が抜け始めていて、まるで紙が名前を拒絶(きょぜつ)しているようだった。

久遠(くおん)の指が速くなった。

何を恐れているのか、こよいには分かった。久遠(くおん)は書き戻してきた。白紙になった写しに、記憶から、一文字ずつ。あれは記録ではなく、久遠(くおん)の歳月そのものだ。消えていくのは名前だけではない。書き戻した夜の数が、頁(ページ)から抜き取られていく。

一頁(いちページ)、二頁(にページ)、三頁。めくる速度が上がるにつれて、義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が強くなった。額に汗が浮いている。蒼い光に照らされた汗の粒が、こめかみを伝って顎(あご)の線を滑り落ちた。

こよいは声をかけようとして、やめた。久遠(くおん)の目が文字を追う速さが、声をかけてはいけないと告げていた。読んでいるのではない。焼きつけているのだ。消える前に、一文字でも多く。

列車が揺れた。

その振動と同時に、目録(もくろく)の見開きの右頁(みぎページ)に並んでいた七つの名前のうち、三つが一斉に白くなった。瞬きの間だった。さっきまで確かにそこにあった墨(すみ)の痕跡(こんせき)が、紙の繊維(せんい)ごと漂白(ひょうはく)されたように消えた。

久遠(くおん)の喉(のど)が鳴った。小さな、飲み込むような音だった。

こよいの腰で、巾着(きんちゃく)が震えた。

中に眠る神々が脈打ったのではない。もっと細かい、痙攣(けいれん)のような震えだった。名前が消えるたびに、布越しに伝わる温度が一瞬だけ冷たくなる。こよいは巾着(きんちゃく)に手を当てた。掌(てのひら)の下で、また一つ冷えた。またどこかで、名前が消えたのだ。

こよいは数えていた。

三つ。五つ。八つ。列車が一区間進むごとに、消失の間隔が短くなっていく。巾着(きんちゃく)の布が冷えるたびに、こよいの背筋を細い痺(しび)れが走った。痛みではない。喪失の輪郭(りんかく)だった。誰かの名前が世界から剥(は)がれ落ちる瞬間の、その端だけが身体に触れている。

久遠(くおん)がめくる手を止めた。止めたのではない。めくる先がなくなったのだ。開いた頁(ページ)の三分の一が、もう白紙に戻っていた。文字があった場所に、微かに窪(くぼ)みだけが残っている。筆圧の跡。名前がそこに在ったという、最後の物理的な証拠(しょうこ)。

久遠(くおん)は窪(くぼ)みの上に指を置いた。爪が白くなるほど押しつけている。読めない名前を、指先で読もうとしていた。

あさひは窓際に座ったまま、白い窓の外を見ていた。何も見えないはずの窓を、それでも見ていた。右手が膝(ひざ)の上の布包みを押さえている。拳(こぶし)に力が入るたびに、包みの中で革紐(かわひも)が軋(きし)んだ。

列車がまた揺れた。

今度は目録(もくろく)だけではなかった。天井の行灯(あんどん)の蒼い炎(ほのお)が一瞬ちらつき、座席の背もたれに彫り込まれた号車番号の数字が、一桁だけ薄くなった。列車そのものが漂白(ひょうはく)に曝(さら)されている。

こよいの足の裏が冷えた。靴底を通して、床板(ゆかいた)の温度が下がっていくのが分かった。木の温もりが消えていく。金属の冷たさとも違う。何かが抜け落ちていく冷たさだった。

巾着(きんちゃく)がまた震えた。今度は長く、三秒ほど続いた。こよいは両手で巾着(きんちゃく)を包み込んだ。自分の体温を押し返すようにして、冷えていく布を温めた。

「くおん」

こよいは小さく呼んだ。

久遠(くおん)は顔を上げなかった。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が頁(ページ)の窪(くぼ)みを這(は)い回っている。消えた名前の筆圧を、光で辿(たど)ろうとしていた。

「くおん。息して」

久遠(くおん)の肩が一つ上下した。浅く、短く息を吸い、長く吐いた。目録(もくろく)から指を離さないまま。

窓の外の白が、少しだけ変わった。濃くなったのか薄くなったのか、こよいには分からなかった。ただ、列車が止まりかけていた。車輪の音が低くなり、振動が減り、霧(きり)の密度が窓硝子(まどがらす)を圧迫するように迫っていた。

あさひが立ち上がった。

何も言わなかった。剣を肩に担ぎ直して、車両の出口に向かって歩き始めた。その足取りに迷いはなく、白い霧(きり)の中へ踏み出す準備がもう終わっているのだと、背中がそう言っていた。

久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じた。立ち上がる前に、白くなった頁(ページ)の窪(くぼ)みを、もう一度だけ指で撫(な)でた。

こよいは巾着(きんちゃく)から手を離した。布はまだ冷たかった。けれど震えは止まっていた。神々が、覚悟を決めたように静まっていた。

列車が止まった。

扉が開くと、白い霧(きり)が車内に流れ込んだ。冷たくはなかった。温度がないのだ。何もかもが漂白(ひょうはく)された場所の空気は、冷たいとも温かいとも感じない。ただ、肺に入れると胸の奥が少しだけ軋(きし)んだ。

おたまが、最後に降りた。温度のない土を一度だけ前脚で確かめ、それから何事もなかったように歩き出す。猫の踏んだ場所だけ、白い地面に、ほんのわずかな温度が残った——ような気がした。

三人と一匹は、漂白された土地に立った。

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