最初の神を追う旅は、星野の停車場から始まった。 森の井戸を離れ、揺れる方角の真ん中——北を目指すには、まず列車に乗るしかない。神々の脈が指す先へ、線路は細く延びていた。
その駅舎に足を踏み入れた瞬間、こよいの鼻腔を錆びた紙の匂いが突いた。古い帳簿を水に浸したような、甘く腐りかけた繊維の気配。それは匂いというよりも、空気そのものが湿った記憶を帯びているかのようだった。
腰の巾着が微かに震えている。中の神々が、到着よりも先にこの場所の異変を嗅ぎ取っていた。震えは小刻みで、こよいが手を当てても収まらなかった。
「星降町——?」
久遠が駅名標を見上げて、言葉を切った。ここは星野のはずだ。なのに琺瑯引きの白い板には、南の遠い町の名が墨書されている。駅そのものが、自分がどこなのかを忘れかけている。その「降」の字の右下が、滲むように崩れていた。雨染みではない。画の一本が、別の字へ変わりかけている。「降」が「落」に、あるいはもっと古い字体へ。こよいには判別がつかなかった。
ただ、目を逸らした瞬間にまた元に戻る。見ていないあいだだけ変化する文字。
あさひが鉄柱に立てかけた大剣の柄を引き寄せた。無言のまま、視線だけが駅舎の隅々を撫でている。彼が剣に手を伸ばすのは、斬るべきものを感じ取ったときではなく、斬れないものの気配を確かめるときだった。天井の隅に蜘蛛の巣が張り、その糸が行灯の光を受けて細く光っている。壁板の継ぎ目から、乾いた土の匂いが滲んでいた。
時刻表の板が壁に掛かっている。こよいはそこに目をやり、足を止めた。
数字が入れ替わっていた。
出発と到着が逆になっている、というのではない。時刻そのものが裏返っている。朝の便が夜の数字を纏い、次の行き先を示す欄には、この駅自身の名が繰り返し記されていた。星降、星降、星降。どこへ向かっても星降に着く。閉じた輪のような時刻表。数字の墨が板の表面で微かに揺れている。乾いているはずの墨が、まるで書いたばかりのように濡れた光沢を放っていた。
「記録の参照先が自分自身に折り返している」
久遠が義眼の方の目を細めた。蒼い瞳が時刻表の文字列を追うたび、微かに軋む音がする。読み取れるものが多すぎるのか、それとも読み取ろうとする行為自体が拒まれているのか。義眼の蒼光が不規則に明滅し、久遠の横顔を青と闇の間で揺らしていた。
「壊れているのとは違うのか」
あさひの声は低く、短い。
「壊れていれば空白になる。これは書き換わっている。何かに」
久遠が懐から目録を取り出した。革表紙を開くと、直近の頁にも同じ兆候があった。昨日まで読めていた地名の幾つかが、筆致はそのままに、指し示す内容だけがずれている。地名が地名でなくなりかけている。名前の器だけが残り、中身が抜け落ちるように。
こよいは巾着を掌で包んだ。布越しに、神々の冷たさが脈を打つように伝わってくる。普段は体温に馴染んで存在を忘れるほどなのに、今は明確に温度差がある。神々が何かを拒んでいる。あるいは、この場所の空気が神々を冷やしている。こよいは自分の体温を押し返すように巾着を握り続けた。
駅舎の柱を支える石の台座に、苔が這っていた。だが苔の伸びる方向が一定しない。上に向かう筋もあれば、横へ走る筋もあり、ひとつだけ、下に向かって垂れるように生えている。重力すら、ここでは方向を迷っているようだった。
待合の長椅子に埃が積もっていた。しかしその埃の模様がおかしい。人が座った痕が幾つもあるのに、どの痕も同じ形をしている。同じ人間が同じ姿勢で繰り返し座ったのか、それとも痕そのものが複製されているのか。椅子の木肌は風雨で白く焼けており、座面の中央だけが磨かれたように滑らかだった。
駅舎の外、線路沿いの柵に括りつけられた行き先案内の木札が風に揺れていた。表には「経蔵方面」と彫られている。こよいが裏返すと、同じ文字が鏡写しに刻まれていた。表も裏も同じ面。どちらから読んでも同じ方角を指す。
「反転している」
こよいの声は自分でも驚くほど平坦だった。怖いのではなく、身体がすでにこの異常を知っていたかのような感覚。巾着の震えが、駅に着く前から教えていた。
久遠が目録を閉じた。表紙の裏——最初の神の手紙が記された面を、指先で一度だけ撫でた。
「経蔵に近づいている」
それは分析ではなく、確認だった。
「経蔵って——南の、あの?」
「別だ。白紙になる前の写しに、『北の経蔵』とだけあった。最初の神が名前を運び続けた、終着の書庫。目録の原本と、同じ方角にある。……近づく者の周りから、記録が乱れ始める。参照が自分に折り返す。今のこれが、その始まりだ」
おたまは、駅舎の敷居の上に座っていた。中に入らず、外にも出ず、ちょうど境目の上に。裏返る時刻表も、化ける駅名標も、猫は一瞥もしなかった。狂った記録に付き合う義理が、猫にはない。
風が線路の方から吹いてきた。鉄と砂利と、その下にある土の匂い。けれどその風には、季節がなかった。春とも秋とも冬ともつかない、記録から日付を剥がされた空気。風が頬を通り過ぎるとき、温度が一瞬だけ消えた。触れているのに何も感じない、奇妙な空白が肌の表面を滑っていった。
あさひが立ち上がり、大剣を肩に担いだ。何も言わなかった。ただ、線路の先を見据えるその横顔には、斬れるものがあるならまだ救いがある、という種類の緊張が滲んでいた。
こよいは巾着の紐を握り直した。掌に食い込む麻の感触だけが、今この瞬間がまだ「ここ」であることを繋ぎ止めていた。
時刻表の数字が、また一つ、音もなく裏返った。その静かな崩れの向こうで、経蔵の廃墟が、まだ何かを書き換え続けている。
