第283話 情報の凪
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第283話 情報の凪

第10章 波の端

最初の神を追う旅は、星野(ほしの)の停車場(ていしゃじょう)から始まった。  森の井戸(いど)を離れ、揺れる方角の真ん中——北を目指すには、まず列車に乗るしかない。神々の脈が指す先へ、線路は細く延びていた。

その駅舎に足を踏み入れた瞬間、こよいの鼻腔(びこう)を錆(さ)びた紙の匂いが突いた。古い帳簿を水に浸したような、甘く腐りかけた繊維(せんい)の気配。それは匂いというよりも、空気そのものが湿った記憶を帯びているかのようだった。

腰の巾着(きんちゃく)が微かに震えている。中の神々が、到着よりも先にこの場所の異変を嗅ぎ取っていた。震えは小刻みで、こよいが手を当てても収まらなかった。

「星降(ほしふり)町——?」

久遠(くおん)が駅名標を見上げて、言葉を切った。ここは星野(ほしの)のはずだ。なのに琺瑯(ほうろう)引きの白い板には、南の遠い町の名が墨書(ぼくしょ)されている。駅そのものが、自分がどこなのかを忘れかけている。その「降」の字の右下が、滲(にじ)むように崩れていた。雨染みではない。画(かく)の一本が、別の字へ変わりかけている。「降」が「落」に、あるいはもっと古い字体へ。こよいには判別がつかなかった。

ただ、目を逸(そ)らした瞬間にまた元に戻る。見ていないあいだだけ変化する文字。

あさひが鉄柱に立てかけた大剣の柄(つか)を引き寄せた。無言のまま、視線だけが駅舎の隅々を撫(な)でている。彼が剣に手を伸ばすのは、斬るべきものを感じ取ったときではなく、斬れないものの気配を確かめるときだった。天井の隅に蜘蛛(くも)の巣が張り、その糸が行灯(あんどん)の光を受けて細く光っている。壁板の継ぎ目から、乾いた土の匂いが滲(にじ)んでいた。

時刻表の板が壁に掛かっている。こよいはそこに目をやり、足を止めた。

数字が入れ替わっていた。

出発と到着が逆になっている、というのではない。時刻そのものが裏返っている。朝の便が夜の数字を纏(まと)い、次の行き先を示す欄には、この駅自身の名が繰り返し記されていた。星降、星降、星降。どこへ向かっても星降に着く。閉じた輪のような時刻表。数字の墨(すみ)が板の表面で微かに揺れている。乾いているはずの墨(すみ)が、まるで書いたばかりのように濡れた光沢(こうたく)を放っていた。

「記録の参照先が自分自身に折り返している」

久遠(くおん)が義眼(ぎがん)の方の目を細めた。蒼い瞳が時刻表の文字列を追うたび、微かに軋(きし)む音がする。読み取れるものが多すぎるのか、それとも読み取ろうとする行為自体が拒まれているのか。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)が不規則に明滅し、久遠(くおん)の横顔を青と闇の間で揺らしていた。

「壊れているのとは違うのか」

あさひの声は低く、短い。

「壊れていれば空白になる。これは書き換わっている。何かに」

久遠(くおん)が懐(ふところ)から目録(もくろく)を取り出した。革表紙を開くと、直近の頁(ページ)にも同じ兆候があった。昨日まで読めていた地名の幾つかが、筆致(ひっち)はそのままに、指し示す内容だけがずれている。地名が地名でなくなりかけている。名前の器(うつわ)だけが残り、中身が抜け落ちるように。

こよいは巾着(きんちゃく)を掌(てのひら)で包んだ。布越しに、神々の冷たさが脈を打つように伝わってくる。普段は体温に馴染(なじ)んで存在を忘れるほどなのに、今は明確に温度差がある。神々が何かを拒んでいる。あるいは、この場所の空気が神々を冷やしている。こよいは自分の体温を押し返すように巾着(きんちゃく)を握り続けた。

駅舎の柱を支える石の台座に、苔(こけ)が這(は)っていた。だが苔の伸びる方向が一定しない。上に向かう筋もあれば、横へ走る筋もあり、ひとつだけ、下に向かって垂れるように生えている。重力すら、ここでは方向を迷っているようだった。

待合の長椅子に埃(ほこり)が積もっていた。しかしその埃の模様がおかしい。人が座った痕(あと)が幾つもあるのに、どの痕も同じ形をしている。同じ人間が同じ姿勢で繰り返し座ったのか、それとも痕そのものが複製されているのか。椅子の木肌(きはだ)は風雨で白く焼けており、座面の中央だけが磨(みが)かれたように滑らかだった。

駅舎の外、線路沿いの柵(さく)に括(くく)りつけられた行き先案内の木札(きふだ)が風に揺れていた。表には「経蔵(きょうぞう)方面」と彫られている。こよいが裏返すと、同じ文字が鏡写しに刻まれていた。表も裏も同じ面。どちらから読んでも同じ方角を指す。

「反転している」

こよいの声は自分でも驚くほど平坦だった。怖いのではなく、身体がすでにこの異常を知っていたかのような感覚。巾着(きんちゃく)の震えが、駅に着く前から教えていた。

久遠(くおん)が目録(もくろく)を閉じた。表紙の裏——最初の神の手紙が記された面を、指先で一度だけ撫でた。

「経蔵(きょうぞう)に近づいている」

それは分析ではなく、確認だった。

「経蔵って——南の、あの?」

「別だ。白紙になる前の写しに、『北の経蔵』とだけあった。最初の神が名前を運び続けた、終着の書庫。目録の原本と、同じ方角にある。……近づく者の周りから、記録が乱れ始める。参照が自分に折り返す。今のこれが、その始まりだ」

おたまは、駅舎の敷居の上に座っていた。中に入らず、外にも出ず、ちょうど境目の上に。裏返る時刻表も、化ける駅名標も、猫は一瞥(いちべつ)もしなかった。狂った記録に付き合う義理が、猫にはない。

風が線路の方から吹いてきた。鉄と砂利(じゃり)と、その下にある土の匂い。けれどその風には、季節がなかった。春とも秋とも冬ともつかない、記録から日付を剥(は)がされた空気。風が頬(ほお)を通り過ぎるとき、温度が一瞬だけ消えた。触れているのに何も感じない、奇妙な空白が肌の表面を滑っていった。

あさひが立ち上がり、大剣を肩に担(かつ)いだ。何も言わなかった。ただ、線路の先を見据えるその横顔には、斬れるものがあるならまだ救いがある、という種類の緊張が滲んでいた。

こよいは巾着(きんちゃく)の紐(ひも)を握り直した。掌(てのひら)に食い込む麻の感触だけが、今この瞬間がまだ「ここ」であることを繋ぎ止めていた。

時刻表の数字が、また一つ、音もなく裏返った。その静かな崩れの向こうで、経蔵の廃墟(はいきょ)が、まだ何かを書き換え続けている。

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