最後の井戸は、森の中にあった。
銀灰色の木に囲まれた小さな空地。地面は苔に覆われ、柔らかかった。踏むと靴底が沈み、苔の下の土が湿った音を立てた。石畳も石組みもない。
土と苔と木だけの場所に、ぽつんと窪みがあった。窪みに水が溜まっている。氷はない。南の井戸の黒石の縁もない。ただの水溜りだった。苔の匂いが水面から立ち昇っている。周囲の苔が水際まで這い寄り、緑の縁取りを作っている。
だが、水は澄んでいた。水面に落ちた木の葉が一枚、微動もせずに浮いている。
底まで見える。
底は浅い。
手を入れれば届くほどだった。水面に木々の影が映り、銀灰色の枝が水の中でゆらゆらと揺れている。
「これが井戸?」
こよいが窪みの縁にしゃがんだ。
久遠が義眼で水面を照らした。蒼光が水を透過し、底に届いた。底に名前はなかった。光の粒もなかった。
だが、何かがあった。脈動していた。水の底で、何かが脈打っている。
光ではない。
音でもない。
水面に波紋が立っている。
周期的に、小さな波紋が底から湧き上がり、水面を揺らしている。波紋が広がるたびに、水面に映った木々の影が一瞬だけ歪み、また元に戻った。
「心臓だ」
泥の境で足裏に聞いた、あの深い鼓動。森の下で脈打っていたものの、ここが源だった。地の底を巡っていた律動が、この浅い水溜りに、いちばん近く浮かんでいる。
こよいが呟いた。
正確に言えば、心臓の鼓動に似た何かだった。水そのものが脈打っていた。一定の間隔で、底から圧力が伝わり、水面に輪を描く。
こよいは手を水に入れた。
温かかった。南の井戸の氷の冷たさとは真逆だった。
体温に近い温もりが、水を通じて手のひらに伝わってきた。脈動が直接指先に触れた。指の関節の一つ一つに、脈の拍が届く。生きている。この水の下に、何かが生きている。名前ではなく、約束でもなく、もっと根源的な何かが、ここで息をしている。
巾着が叫んだ、としか言いようがなかった。
神々が一斉に脈打ち、巾着の布が膨らみ、光が溢れ出した。金色の光が水面を照らし、水底まで一筋の柱のように沈んだ。腰に結んでいた紐が引っ張られ、こよいの体が巾着ごと井戸の方へ傾いた。
「こよい」
あさひが腕を掴んだ。巾着が光り続けていた。神々が暴れていた。
井戸の中の脈動と、神々の脈動が共鳴していた。同じ周期で、同じ強さで、互いを呼んでいた。水面が二つの脈動に揺さぶられ、細かい波が立ち、光の柱が砕けて散った。
「知ってる」
こよいの声が震えた。
「この子たち、この脈動を知ってる。会ったことがある。この——」
こよいは水の中の脈動を感じ取った。手のひらから腕を通り、胸に届いた温もりの中に、一つの記憶があった。神々から伝わってきた記憶だった。
大きな手。
温かい手。
名前を預かるときに触れた手。指の太さ、掌の広さ、爪の形まで、神々が覚えていた。
「この人の手を、覚えてる」
久遠が井戸の縁に膝をついた。義眼で水の底を見た。
蒼光が脈動と干渉して揺れた。蒼い光と金色の光が水の中で交差し、水底に格子のような模様を描いた。
「名前の残留ではない。約束の残響でもない。これは——生体反応だ。つい最近まで、ここに誰かがいた」
久遠の声が低くなった。
「最初の神だ。ここが、最初の神の居場所だった」
あさひが森を見渡した。
木々は静かに立っている。
風はない。
名前の光が高い空に浮かんでいる。穏やかな場所だった。
戦いの気配はない。
隠れるための場所ではなく、住むための場所だった。苔の厚さが、長い年月の静けさを語っている。
「いた。だが、今はいない」
久遠が水面に手を触れた。
温もりが残っている。
「まだ温かい。長くは経っていない」
こよいは水から手を引いた。指先が温かいまま、乾いていった。温もりが指先の皮膚に染み込んで、離れても消えない。
「逃げたの?」
「分からない。だが、ここにいたことは確かだ。そして、ここを離れた。最近」
あさひが立ち上がった。
「追うぞ」
「どこへ」
久遠が目録の金色の筋を見た。筋は——迷っていた。
前は真っ直ぐ北を指していたのに、今はゆっくりと揺れている。北東と北西の間を行き来していた。
「近すぎて、方角が定まらないのか。それとも——」
久遠は目を閉じた。
「移動しているんだ。最初の神が、今、動いている」
こよいは巾着を胸に抱いた。神々の脈動は収まっていたが、温もりは高いままだった。水の底で感じた温もりと、同じ温度だった。
大きな手の記憶が、胸に残っていた。この手の主は、名前を集め、約束を交わし、凍結を命じ、そして消えた。
「……帰ってきたんだね」
こよいは巾着に囁いた。名前を預けた、大きな温かい手のところへ。何百年ぶりかの、名前の無い神様の場所への——この子たちの帰還だった。主はもう、ここにいなかったけれど。
おたまが、井戸の縁の苔の上に丸くなった。喉の鳴る低い音が、水底の脈動と、同じ拍で重なっていく。
何千年も、ここで一人で生きていた。今、動き始めた。
なぜ。こよいたちが近づいたからか。それとも、別の理由か。
森の木が、微かに揺れた。風ではなかった。脈動が木を通じて大地に伝わり、森全体が一瞬だけ、息をしたように見えた。
「追うぞ」
あさひが立ち上がった。剣の鉱と、森の土と、井戸の脈。同じ山から生まれたものたちが、同じ方角を向いている。 こよいは最後にもう一度、浅い水面を見た。名前を預けた場所。約束の始まった場所。空になった揺り籠は、それでもまだ温かく、脈打ち続けていた。 動き始めた最初の神を、三人と一匹は追う。北東と北西の間で揺れる方角の、その先へ。
