第282話 名前の無い神様の、帰還
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第282話 名前の無い神様の、帰還

第9章 地図の折返し

最後の井戸いどは、森の中にあった。

銀灰色の木に囲まれた小さな空地。地面はこけおおわれ、柔らかかった。踏むと靴底が沈み、こけの下の土が湿った音を立てた。石畳いしだたみも石組みもない。

土とこけと木だけの場所に、ぽつんとくぼみがあった。くぼみに水が溜まっている。氷はない。南の井戸いどの黒石のふちもない。ただの水溜みずたまりだった。こけの匂いが水面から立ち昇っている。周囲のこけ水際みずぎわまでい寄り、緑の縁取りを作っている。

だが、水は澄んでいた。水面に落ちた木の葉が一枚、微動もせずに浮いている。

底まで見える。

底は浅い。

手を入れれば届くほどだった。水面に木々の影が映り、銀灰色の枝が水の中でゆらゆらと揺れている。

「これが井戸いど?」

こよいがくぼみの縁にしゃがんだ。

久遠くおん義眼ぎがんで水面を照らした。蒼光そうこうが水を透過し、底に届いた。底に名前はなかった。光の粒もなかった。

だが、何かがあった。脈動していた。水の底で、何かが脈打っている。

光ではない。

音でもない。

水面に波紋はもんが立っている。

周期的に、小さな波紋はもんが底から湧き上がり、水面を揺らしている。波紋はもんが広がるたびに、水面に映った木々の影が一瞬だけゆがみ、また元に戻った。

「心臓だ」

泥の境で足裏に聞いた、あの深い鼓動。森の下で脈打っていたものの、ここが源だった。地の底を巡っていた律動が、この浅い水溜りに、いちばん近く浮かんでいる。

こよいがつぶやいた。

正確に言えば、心臓の鼓動こどうに似た何かだった。水そのものが脈打っていた。一定の間隔で、底から圧力が伝わり、水面に輪を描く。

こよいは手を水に入れた。

温かかった。南の井戸いどの氷の冷たさとは真逆だった。

体温に近い温もりが、水を通じて手のひらに伝わってきた。脈動が直接指先に触れた。指の関節の一つ一つに、脈のはくが届く。生きている。この水の下に、何かが生きている。名前ではなく、約束でもなく、もっと根源的な何かが、ここで息をしている。

巾着きんちゃくが叫んだ、としか言いようがなかった。

神々が一斉に脈打ち、巾着きんちゃくの布がふくらみ、光があふれ出した。金色の光が水面を照らし、水底まで一筋の柱のように沈んだ。腰に結んでいたひもが引っ張られ、こよいの体が巾着きんちゃくごと井戸いどの方へ傾いた。

「こよい」

あさひが腕をつかんだ。巾着きんちゃくが光り続けていた。神々が暴れていた。

井戸いどの中の脈動と、神々の脈動が共鳴していた。同じ周期で、同じ強さで、互いを呼んでいた。水面が二つの脈動に揺さぶられ、細かい波が立ち、光の柱が砕けて散った。

「知ってる」

こよいの声が震えた。

「この子たち、この脈動を知ってる。会ったことがある。この——」

こよいは水の中の脈動を感じ取った。手のひらから腕を通り、胸に届いた温もりの中に、一つの記憶があった。神々から伝わってきた記憶だった。

大きな手。

温かい手。

名前を預かるときに触れた手。指の太さ、てのひらの広さ、爪の形まで、神々が覚えていた。

「この人の手を、覚えてる」

久遠くおん井戸いどの縁に膝をついた。義眼ぎがんで水の底を見た。

蒼光そうこうが脈動と干渉して揺れた。蒼い光と金色の光が水の中で交差し、水底に格子こうしのような模様を描いた。

「名前の残留ざんりゅうではない。約束の残響ざんきょうでもない。これは——生体反応せいたいはんのうだ。つい最近まで、ここに誰かがいた」

久遠くおんの声が低くなった。

「最初の神だ。ここが、最初の神の居場所だった」

あさひが森を見渡した。

木々は静かに立っている。

風はない。

名前の光が高い空に浮かんでいる。穏やかな場所だった。

戦いの気配はない。

隠れるための場所ではなく、住むための場所だった。こけの厚さが、長い年月の静けさを語っている。

「いた。だが、今はいない」

久遠くおんが水面に手を触れた。

温もりが残っている。

「まだ温かい。長くは経っていない」

こよいは水から手を引いた。指先が温かいまま、乾いていった。温もりが指先の皮膚に染み込んで、離れても消えない。

「逃げたの?」

「分からない。だが、ここにいたことは確かだ。そして、ここを離れた。最近」

あさひが立ち上がった。

「追うぞ」

「どこへ」

久遠くおん目録もくろくの金色の筋を見た。筋は——迷っていた。

前は真っ直ぐ北を指していたのに、今はゆっくりと揺れている。北東と北西の間を行き来していた。

「近すぎて、方角が定まらないのか。それとも——」

久遠くおんは目を閉じた。

「移動しているんだ。最初の神が、今、動いている」

こよいは巾着きんちゃくを胸に抱いた。神々の脈動は収まっていたが、温もりは高いままだった。水の底で感じた温もりと、同じ温度だった。

大きな手の記憶が、胸に残っていた。この手の主は、名前を集め、約束を交わし、凍結とうけつを命じ、そして消えた。

「……帰ってきたんだね」

こよいは巾着きんちゃくささやいた。名前を預けた、大きな温かい手のところへ。何百年ぶりかの、名前の無い神様の場所への——この子たちの帰還だった。主はもう、ここにいなかったけれど。

おたまが、井戸いどの縁のこけの上に丸くなった。のどの鳴る低い音が、水底の脈動と、同じ拍で重なっていく。

何千年も、ここで一人で生きていた。今、動き始めた。

なぜ。こよいたちが近づいたからか。それとも、別の理由か。

森の木が、微かに揺れた。風ではなかった。脈動が木を通じて大地に伝わり、森全体が一瞬だけ、息をしたように見えた。

「追うぞ」

あさひが立ち上がった。剣の鉱と、森の土と、井戸の脈。同じ山から生まれたものたちが、同じ方角を向いている。  こよいは最後にもう一度、浅い水面を見た。名前を預けた場所。約束の始まった場所。空になった揺りかごは、それでもまだ温かく、脈打ち続けていた。  動き始めた最初の神を、三人と一匹は追う。北東と北西の間で揺れる方角の、その先へ。

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