久遠が声を上げたのは、夜半だった。
焚き火はとうに燃え尽き、炭が灰白色に冷えている。残り火の匂いが夜気に混じり、木の灰の乾いた香りが低く漂っていた。名もない神の領域——その林の縁で野営していた三人を、久遠の声が起こした。息を呑む音。喉の奥で何かが詰まったような、短い音。
「久遠?」
「……起きろ。二人とも」
こよいは毛布を跳ね除けた。夜の冷気が首筋に触れ、肌が粟立った。隣であさひも目を開いている。剣の柄に手を伸ばしかけ、久遠の様子を見て、止めた。敵ではないと判断したのだ。久遠の声には警告はあったが、殺気はなかった。
久遠は目録を膝の上に広げていた。義眼の蒼光がいつもより強い。光の輪が目録の頁を越えて膝の布にまで落ち、蒼い円を描いていた。指先が小刻みに震えている。久遠が指さしているのは、使い込んだ頁の裏だった。光を当てると、そこに文字がある。
「……前からあったのか」
「あったんだ。最初から。だが理の制御層が認知そのものを遮断していた。文字があるという事実を、読む者の意識から消していた」
「じゃあなんで今は見えてるんだよ」
「星野だからだ。理の制御が弱い。この森に入ってから義眼の感度が上がっている」
こよいは裏面に目を凝らした。墨ではない。爪か硬い何かで、紙の繊維を押し潰すように刻んだ文字。久遠の字でも、観測者の筆跡でもない。もっと古い。一画ごとに力が籠められた、祈りのような文字だった。文字の溝に蒼光が染み込むと、古い紙の繊維が一本ずつ浮き上がり、刻まれた力の痕跡が見えた。
「読むぞ」
義眼の光が安定し、文字が鮮明になる。
——名は、巡るものとして設計した。
——土から声が生まれ、声が名になり、名が神を呼び、神が土に還る。
——その循環を、わたしは設計図と呼んだ。
——凍結は本来の仕様ではない。名を止めることは、循環を殺すことだ。
——誰かが後から書き加えた。わたしの設計を歪め、名を止め、神を閉じた。
——わたしの名も、やがて——
文字はそこで途切れていた。最後の一画が、紙の端で消えている。途切れた先の空白に、蒼光を当てても何も浮かばなかった。紙が終わったのか、力が尽きたのか。
久遠の目録を持つ指が白い。義眼の光が不安定に明滅している。
「……書いたのは」
「書いたのは……最初の神だ」
森が鳴った。風ではなかった。木々の幹が共鳴するように低く唸り、根が地中で脈打つ音が足元から伝わってきた。地面が一瞬だけ膨らんだように感じた。こよいの巾着が熱を帯びた。神々が激しく震えている。布越しに光が漏れ、森の暗闇を金色に切り裂いた。
「名の循環を設計した存在だ。文が途中で切れている。名を失う直前に書いたのかもしれない」
あさひが立ち上がり、剣の柄を握って森の闇を見渡した。木々の間に目を走らせ、気配を探っている。敵ではない。だが、何かがいる。森そのものが呼吸している気配が、あさひの肌を撫でていた。
「……久遠。その目録、経蔵で手に入れたんだったな」
「ああ」
「経蔵の蔵は、元はどこにあったものだ」
久遠が息を呑んだ。あさひの問いの意味に気づいたのだ。
「……確かなことは言えない。だが、積み上がるものはある。あさひの剣の鉱は、経蔵の基盤と同じ鉱脈——そしてその組成は、この星野の地層と重なっていた。七重の壁では、目録が原本の在処に燃えるように応えた。二つを重ねれば、仮説としては立つ。経蔵の材も、この目録も、元はこの土地のものだった——と」
「だとしたら」
あさひが森を見たまま言った。
「この目録を書いた神は、今、俺たちが立ってるこの森の神だ」
「仮説だ」
久遠はそう言いながら、目録の裏面の手紙と、記録しておいた星野の井戸の封印の筆跡とを、蒼光の下で並べた。線の止め方。画の入りのためらい。同じ手だった。そして、こよいの巾着が、手紙の頁に近づけると、森の鳴動と同じ拍で脈打った。独立した三つの一致。
「……仮説の域は出た。同じ手が封印を刻み、同じ手がこの手紙を書き、その手の温度を、神々が覚えている」
沈黙が降りた。焚き火の灰が夜風に舞い、蒼光の中を横切って消えた。こよいは巾着を両手で抱えた。神々の震えが少しずつ収まっていく。だが温かさは残っている。温もりの中に、懐かしさに似た何かが混じっていた。
「設計図は手紙だったんだ」
「設計図って書いてあるけど、読み方は手紙だよ。いつか誰かが見つけてくれることを信じて、隠して残した手紙」
久遠は目録の裏面をもう一度見た。
「……宛先のない手紙だ。だが届いた」
届くのに、何百年かかったのだろう。書いた者は、まだ待っているのだろうか。それとも、待つことすら忘れて、ただ森の底で脈だけを打っているのだろうか。誰も口にしなかった問いが、焚き火の跡の上に、消えない煙のように漂っていた。
「届いたよ。ぼくたちに」
森が、また低く鳴った。久遠は目録を閉じなかった。裏面を開いたまま、膝の上に置いた。隠されていた言葉が、何百年かぶりに夜気に触れている。蒼光に照らされた文字が、夜の湿り気を吸って、僅かに色を深めた。
あさひは剣の柄から手を離し、腰を下ろした。
「こいつの続きを探せ。途切れた文の先があるはずだ」
久遠は頷いた。目録の頁を、一枚ずつ、裏側に光を当てながらめくり始めた。
おたまは、闇の奥の森に顔を向けたまま、眠らなかった。手紙が読み上げられている間じゅう、猫の耳は久遠の声と、森の鳴動の両方に開いていた。差出人と受取人の間に、猫だけが知っている距離があるように。
こよいは巾着を膝に置き、森の闇を見つめた。名を設計し、名を奪われかけ、それでもなお手紙を残した神の森。宛先のない手紙は、けれど確かに、今夜届いた。この夜のことを、忘れないだろうと思った。
星野の森の底から、温かい振動が三人の身体を包んでいた。
