第281話 設計図の裏側
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第281話 設計図の裏側

第9章 地図の折返し

久遠(くおん)が声を上げたのは、夜半(やはん)だった。

焚き火はとうに燃え尽き、炭が灰白色に冷えている。残り火の匂いが夜気に混じり、木の灰の乾いた香りが低く漂(ただよ)っていた。名もない神の領域——その林の縁(ふち)で野営(やえい)していた三人を、久遠(くおん)の声が起こした。息を呑(の)む音。喉(のど)の奥で何かが詰まったような、短い音。

「久遠(くおん)?」

「……起きろ。二人とも」

こよいは毛布を跳ね除(の)けた。夜の冷気が首筋に触れ、肌が粟立(あわだ)った。隣であさひも目を開いている。剣の柄(つか)に手を伸ばしかけ、久遠(くおん)の様子を見て、止めた。敵ではないと判断したのだ。久遠(くおん)の声には警告はあったが、殺気(さっき)はなかった。

久遠(くおん)は目録(もくろく)を膝(ひざ)の上に広げていた。義眼(ぎがん)の蒼光(そうこう)がいつもより強い。光の輪が目録(もくろく)の頁(ページ)を越えて膝の布にまで落ち、蒼い円を描いていた。指先が小刻みに震えている。久遠(くおん)が指さしているのは、使い込んだ頁(ページ)の裏だった。光を当てると、そこに文字がある。

「……前からあったのか」

「あったんだ。最初から。だが理(ことわり)の制御層が認知そのものを遮断(しゃだん)していた。文字があるという事実を、読む者の意識から消していた」

「じゃあなんで今は見えてるんだよ」

「星野(ほしの)だからだ。理(ことわり)の制御が弱い。この森に入ってから義眼(ぎがん)の感度が上がっている」

こよいは裏面に目を凝(こ)らした。墨(すみ)ではない。爪か硬い何かで、紙の繊維(せんい)を押し潰すように刻んだ文字。久遠(くおん)の字でも、観測者(かんそくしゃ)の筆跡(ひっせき)でもない。もっと古い。一画ごとに力が籠(こ)められた、祈りのような文字だった。文字の溝に蒼光(そうこう)が染み込むと、古い紙の繊維(せんい)が一本ずつ浮き上がり、刻まれた力の痕跡(こんせき)が見えた。

「読むぞ」

義眼(ぎがん)の光が安定し、文字が鮮明になる。

——名は、巡るものとして設計した。

——土から声が生まれ、声が名になり、名が神を呼び、神が土に還る。

——その循環(じゅんかん)を、わたしは設計図(せっけいず)と呼んだ。

——凍結(とうけつ)は本来の仕様ではない。名を止めることは、循環(じゅんかん)を殺すことだ。

——誰かが後から書き加えた。わたしの設計を歪(ゆが)め、名を止め、神を閉じた。

——わたしの名も、やがて——

文字はそこで途切れていた。最後の一画が、紙の端で消えている。途切れた先の空白に、蒼光(そうこう)を当てても何も浮かばなかった。紙が終わったのか、力が尽きたのか。

久遠(くおん)の目録(もくろく)を持つ指が白い。義眼(ぎがん)の光が不安定に明滅している。

「……書いたのは」

「書いたのは……最初の神だ」

森が鳴った。風ではなかった。木々の幹が共鳴するように低く唸(うな)り、根が地中で脈打つ音が足元から伝わってきた。地面が一瞬だけ膨(ふく)らんだように感じた。こよいの巾着(きんちゃく)が熱を帯びた。神々が激しく震えている。布越しに光が漏れ、森の暗闇を金色に切り裂いた。

「名の循環(じゅんかん)を設計した存在だ。文が途中で切れている。名を失う直前に書いたのかもしれない」

あさひが立ち上がり、剣の柄(つか)を握って森の闇を見渡した。木々の間に目を走らせ、気配を探っている。敵ではない。だが、何かがいる。森そのものが呼吸している気配が、あさひの肌を撫(な)でていた。

「……久遠(くおん)。その目録(もくろく)、経蔵(きょうぞう)で手に入れたんだったな」

「ああ」

「経蔵(きょうぞう)の蔵は、元はどこにあったものだ」

久遠(くおん)が息を呑(の)んだ。あさひの問いの意味に気づいたのだ。

「……確かなことは言えない。だが、積み上がるものはある。あさひの剣の鉱は、経蔵(きょうぞう)の基盤と同じ鉱脈——そしてその組成は、この星野(ほしの)の地層と重なっていた。七重(ななえ)の壁では、目録(もくろく)が原本の在処(ありか)に燃えるように応えた。二つを重ねれば、仮説としては立つ。経蔵(きょうぞう)の材も、この目録(もくろく)も、元はこの土地のものだった——と」

「だとしたら」

あさひが森を見たまま言った。

「この目録(もくろく)を書いた神は、今、俺たちが立ってるこの森の神だ」

「仮説だ」

久遠(くおん)はそう言いながら、目録(もくろく)の裏面の手紙と、記録しておいた星野(ほしの)の井戸(いど)の封印の筆跡とを、蒼光(そうこう)の下で並べた。線の止め方。画の入りのためらい。同じ手だった。そして、こよいの巾着(きんちゃく)が、手紙の頁(ページ)に近づけると、森の鳴動と同じ拍で脈打った。独立した三つの一致。

「……仮説の域は出た。同じ手が封印を刻み、同じ手がこの手紙を書き、その手の温度を、神々が覚えている」

沈黙が降りた。焚き火の灰が夜風に舞い、蒼光(そうこう)の中を横切って消えた。こよいは巾着(きんちゃく)を両手で抱えた。神々の震えが少しずつ収まっていく。だが温かさは残っている。温もりの中に、懐かしさに似た何かが混じっていた。

「設計図(せっけいず)は手紙だったんだ」

「設計図(せっけいず)って書いてあるけど、読み方は手紙だよ。いつか誰かが見つけてくれることを信じて、隠して残した手紙」

久遠(くおん)は目録(もくろく)の裏面をもう一度見た。

「……宛先のない手紙だ。だが届いた」

届くのに、何百年かかったのだろう。書いた者は、まだ待っているのだろうか。それとも、待つことすら忘れて、ただ森の底で脈だけを打っているのだろうか。誰も口にしなかった問いが、焚き火の跡の上に、消えない煙のように漂っていた。

「届いたよ。ぼくたちに」

森が、また低く鳴った。久遠(くおん)は目録(もくろく)を閉じなかった。裏面を開いたまま、膝(ひざ)の上に置いた。隠されていた言葉が、何百年かぶりに夜気に触れている。蒼光(そうこう)に照らされた文字が、夜の湿り気を吸って、僅かに色を深めた。

あさひは剣の柄(つか)から手を離し、腰を下ろした。

「こいつの続きを探せ。途切れた文の先があるはずだ」

久遠(くおん)は頷いた。目録(もくろく)の頁(ページ)を、一枚ずつ、裏側に光を当てながらめくり始めた。

おたまは、闇の奥の森に顔を向けたまま、眠らなかった。手紙が読み上げられている間じゅう、猫の耳は久遠(くおん)の声と、森の鳴動の両方に開いていた。差出人と受取人の間に、猫だけが知っている距離があるように。

こよいは巾着(きんちゃく)を膝に置き、森の闇を見つめた。名を設計し、名を奪われかけ、それでもなお手紙を残した神の森。宛先のない手紙は、けれど確かに、今夜届いた。この夜のことを、忘れないだろうと思った。

星野(ほしの)の森の底から、温かい振動が三人の身体を包んでいた。

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