夕焼けは、空の色ではなく、名前の色だった。
発光する列車は、線路の尽きる小さな乗り場で三人と一匹を降ろした。名前の抜けた家並み——町と呼ぶには静かすぎる場所——を抜け、線路のない道を歩き続けた先で、霧が薄く赤みを帯びた。 日が沈むのではない。
落ちるはずだった名前の光が、沈む前に燃え尽きる。 その燃え跡が、空を薄い朱に染める。
こよいは立ち止まり、振り返った。 背後の町はもう見えない。ただ霧だけがある。霧の粒が赤い光を含んで漂い、こよいの肌に触れると微かな温もりを残して消えた。汗とも露ともつかない湿り気が、首筋に薄く張りついている。
「……ここまで来たんだ」
口に出してから、こよいは自分の声の弱さに驚いた。喉の奥がかすかに震えている。 遠くへ来たはずなのに、足の裏がじんわりと熱い。大地の温もりが靴底を透かして昇ってくる。夕方の気配は幼い頃の帰り道みたいで、胸が少し苦しくなる。南にいた頃の夕暮れには色がなかった。灰色の空が暗くなるだけだった。色のある夕焼けを見るのは、北に来てからだ。
久遠は目録を開いた。 頁の文字が、夕焼けの色を映して薄く赤い。金色の筋が赤い光に混ざり、頁の上で琥珀色の影を落としている。
「書かれているのに、書かれていない。……そういう道だな」
「怖い?」
こよいが訊くと、久遠は一瞬だけ黙ってから言った。
「怖い。だが、怖い方が正しいこともある」
あさひは剣を背に負い直し、赤い霧の向こうを見た。
「……夕焼けは、嘘をつかない」
「どうして?」
「隠すなら、白にする。赤は、見せる色だ。……見せたい傷があるんだろ」
こよいは、その言葉を胸の中で繰り返した。見せたい傷。南の世界は、傷を白で塗り潰していた。漂白して、なかったことにして。北のこの空は、傷を燃やして、色にして、見せている。どちらが正しいのかは分からない。ただ、見せてくれる方が、悼みやすかった。
こよいは巾着を握り、神々の温もりに重ねた。
神々は夕焼けに怯えなかった。 むしろ、わずかに熱を帯びている。巾着の布越しに、温もりの質が変わっていた。南にいた頃の温もりは守るためのものだった。今の温もりは、呼応するためのものだった。空の赤に答えるように、神々が静かに色を返している。
道は続く。赤い霧の下でも、足元の地面は確かに温かい。靴底を通して伝わる熱が、一歩ごとに微かに変わる。踏み込んだ場所の土が、踏まれたことを覚えるように、こよいの足の形に沿って温度を上げた。
森の木々が、夕焼けの色を吸い始めた。
銀灰色だった樹皮が、淡い琥珀に染まっている。 苔の緑が深い翡翠に沈み、枝先の葉が一枚ずつ赤銅色に輝く。 南では見たことのない色だった。灰と白しか知らなかった目に、その鮮やかさは痛いほどだった。
空は、さらに変わっていく。
朱の上に、紫が滲んだ。 名前の光が燃え尽きる高さによって、色が違う。 低く落ちたものは赤く、高く浮いたものは青紫に、その間が橙と菫の帯になっている。帯の境目は曖昧で、一つの色が隣の色に溶けながら、ゆっくりと回っていた。風がないのに色が動く。名前の光が燃える速度の違いが、色を押し流しているのだ。
虫の声がした。南では聞いたことのない、高く透き通った音だった。鈴の底を針で弾いたような、一音だけの鳴き方。音の余韻が霧の粒に沁み込み、赤い空気の中で長く尾を引いた。夕焼けの色に混じると、音にも色があるかのように感じた。
「……こんな空、あるんだ」
こよいが呟いた。
久遠が目録を閉じた。
読むのをやめたのではない。頁を開いたまま、空を見ていた。紙の端が夕焼けの色に染まっている。
義眼が夕焼けの光を映し、一瞬だけ、金ではなく琥珀色に光った。蒼い光が空の赤に負けて、久遠の目が普通の人間の目のように見えた。
「記録しなくていいのか」
あさひが訊いた。
「……いい」
久遠は目録を胸に抱えたまま、空を見上げた。
「記録より先に、見ておきたい景色がある」
あさひは大剣の柄から手を離した。 布に包まれたまま、剣は静かだった。 地面の振動も、今は穏やかだ。
剣を抜く理由がない夕暮れだった。旅の中で、こんな時間は数えるほどしかなかった。
あさひは腕を組み、木の幹に背を預けた。樹皮の琥珀色があさひの黒い衣に移り、輪郭が柔らかく滲んでいる。
こよいは巾着を胸に当てた。
神々が脈打っている。 だが、いつもの急かすような脈動ではなかった。
穏やかだった。
不安もない。焦りもない。 ただ、ここにいる。 夕焼けの中に、三人と一緒にいる。
「……静かだね」
こよいが言った。
誰も答えなかった。
答える必要がなかった。
明日、この森の奥で、名前のない神に会う。 何が起こるか分からない。 帰れるかも分からない。
だが、今はこの夕焼けがある。
最後の夕焼けかもしれない。 だからこそ、目を閉じずに見ていたかった。
空の色が、ゆっくりと紫に沈んでいく。 名前の光が一つ、また一つと燃え尽きて、空に暗い穴が開いていく。穴の中には星ではなく、まだ燃え切っていない名前の残り火が、遠い蛍のように瞬いていた。
おたまは、道の真ん中に座って、誰よりも長く夕焼けを見ていた。朱の光が三毛の背を染め、猫の影が道に長く伸びる。名前の燃え尽きる色を、猫は瞬きもせずに見届けていた。まるで、ひとつひとつに見覚えがあるかのように。
夜が来る。
明日、森の奥で、名前のない神に会う。会って、何を訊くのか。何を返すのか。まだ誰も言葉にしていない。ただ、この夕焼けを目に焼き付けておくことだけが、今夜の支度だった。
こよいは巾着を握りしめた。 雨の神が一つ、静かに脈打った。
おやすみ、と言うように。その音のない一拍が、長い一日の終わりだった。
