第280話 名の夕焼け
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第280話 名の夕焼け

第9章 地図の折返し

夕焼けは、空の色ではなく、名前の色だった。

発光する列車は、線路の尽きる小さな乗り場で三人と一匹を降ろした。名前の抜けた家並み——町と呼ぶには静かすぎる場所——を抜け、線路のない道を歩き続けた先で、きりが薄く赤みを帯びた。  日が沈むのではない。

落ちるはずだった名前の光が、沈む前に燃え尽きる。  その燃え跡が、空を薄いあけに染める。

こよいは立ち止まり、振り返った。  背後の町はもう見えない。ただきりだけがある。きりの粒が赤い光を含んでただよい、こよいの肌に触れると微かな温もりを残して消えた。汗とも露ともつかない湿り気が、首筋に薄く張りついている。

「……ここまで来たんだ」

口に出してから、こよいは自分の声の弱さに驚いた。のどの奥がかすかに震えている。  遠くへ来たはずなのに、足の裏がじんわりと熱い。大地の温もりが靴底をかして昇ってくる。夕方の気配は幼い頃の帰り道みたいで、胸が少し苦しくなる。南にいた頃の夕暮れには色がなかった。灰色の空が暗くなるだけだった。色のある夕焼けを見るのは、北に来てからだ。

久遠くおん目録もくろくを開いた。  ページの文字が、夕焼けの色を映して薄く赤い。金色の筋が赤い光に混ざり、ページの上で琥珀こはく色の影を落としている。

「書かれているのに、書かれていない。……そういう道だな」

「怖い?」

こよいが訊くと、久遠くおんは一瞬だけ黙ってから言った。

「怖い。だが、怖い方が正しいこともある」

あさひは剣を背に負い直し、赤いきりの向こうを見た。

「……夕焼けは、うそをつかない」

「どうして?」

「隠すなら、白にする。赤は、見せる色だ。……見せたい傷があるんだろ」

こよいは、その言葉を胸の中で繰り返した。見せたい傷。南の世界は、傷を白で塗り潰していた。漂白して、なかったことにして。北のこの空は、傷を燃やして、色にして、見せている。どちらが正しいのかは分からない。ただ、見せてくれる方が、いたみやすかった。

こよいは巾着きんちゃくを握り、神々の温もりに重ねた。

神々は夕焼けにおびえなかった。  むしろ、わずかに熱を帯びている。巾着きんちゃくの布越しに、温もりの質が変わっていた。南にいた頃の温もりは守るためのものだった。今の温もりは、呼応するためのものだった。空の赤に答えるように、神々が静かに色を返している。

道は続く。赤いきりの下でも、足元の地面は確かに温かい。靴底を通して伝わる熱が、一歩ごとに微かに変わる。踏み込んだ場所の土が、踏まれたことを覚えるように、こよいの足の形に沿って温度を上げた。

森の木々が、夕焼けの色を吸い始めた。

銀灰色だった樹皮が、淡い琥珀こはくに染まっている。  こけの緑が深い翡翠ひすいに沈み、枝先の葉が一枚ずつ赤銅色に輝く。  南では見たことのない色だった。灰と白しか知らなかった目に、その鮮やかさは痛いほどだった。

空は、さらに変わっていく。

あけの上に、紫がにじんだ。  名前の光が燃え尽きる高さによって、色が違う。  低く落ちたものは赤く、高く浮いたものは青紫に、その間がだいだいすみれの帯になっている。帯の境目は曖昧あいまいで、一つの色が隣の色に溶けながら、ゆっくりと回っていた。風がないのに色が動く。名前の光が燃える速度の違いが、色を押し流しているのだ。

虫の声がした。南では聞いたことのない、高くき通った音だった。鈴の底を針ではじいたような、一音だけの鳴き方。音の余韻よいんきりの粒にみ込み、赤い空気の中で長く尾を引いた。夕焼けの色に混じると、音にも色があるかのように感じた。

「……こんな空、あるんだ」

こよいがつぶやいた。

久遠くおん目録もくろくを閉じた。

読むのをやめたのではない。ページを開いたまま、空を見ていた。紙の端が夕焼けの色に染まっている。

義眼ぎがんが夕焼けの光を映し、一瞬だけ、金ではなく琥珀こはく色に光った。蒼い光が空の赤に負けて、久遠くおんの目が普通の人間の目のように見えた。

「記録しなくていいのか」

あさひが訊いた。

「……いい」

久遠くおん目録もくろくを胸に抱えたまま、空を見上げた。

「記録より先に、見ておきたい景色がある」

あさひは大剣のつかから手を離した。  布に包まれたまま、剣は静かだった。  地面の振動も、今は穏やかだ。

剣を抜く理由がない夕暮れだった。旅の中で、こんな時間は数えるほどしかなかった。

あさひは腕を組み、木の幹に背を預けた。樹皮の琥珀こはく色があさひの黒い衣に移り、輪郭りんかくが柔らかくにじんでいる。

こよいは巾着きんちゃくを胸に当てた。

神々が脈打っている。  だが、いつもの急かすような脈動ではなかった。

穏やかだった。

不安もない。焦りもない。  ただ、ここにいる。  夕焼けの中に、三人と一緒にいる。

「……静かだね」

こよいが言った。

誰も答えなかった。

答える必要がなかった。

明日、この森の奥で、名前のない神に会う。  何が起こるか分からない。  帰れるかも分からない。

だが、今はこの夕焼けがある。

最後の夕焼けかもしれない。  だからこそ、目を閉じずに見ていたかった。

空の色が、ゆっくりと紫に沈んでいく。  名前の光が一つ、また一つと燃え尽きて、空に暗い穴が開いていく。穴の中には星ではなく、まだ燃え切っていない名前の残り火が、遠い蛍のようにまたたいていた。

おたまは、道の真ん中に座って、誰よりも長く夕焼けを見ていた。朱の光が三毛の背を染め、猫の影が道に長く伸びる。名前の燃え尽きる色を、猫は瞬きもせずに見届けていた。まるで、ひとつひとつに見覚えがあるかのように。

夜が来る。

明日、森の奥で、名前のない神に会う。会って、何を訊くのか。何を返すのか。まだ誰も言葉にしていない。ただ、この夕焼けを目に焼き付けておくことだけが、今夜の支度だった。

こよいは巾着きんちゃくを握りしめた。  雨の神が一つ、静かに脈打った。

おやすみ、と言うように。その音のない一拍が、長い一日の終わりだった。

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