山を下りるほど、おたまの山の温もりは薄れていった。 祈りの結晶は斜面の窪みにしか残らなくなり、裾野の枯れ草原に出る頃には、草の根元に転がるのは、光を持たないただの氷だけになった。祈りの痕跡も、脈動もない、冷たいだけの固体。凍結域の端——名前が凍る前に蒸発してしまう土地だと、久遠が言った。神々は巾着の底で身を寄せ合い、こよいは布の上から「大丈夫。ぼくがいるから」と声をかけた。 枯れ草原の中に、最近も使われた跡のある鉄路を見つけた。線路に沿って歩いた先に、石柱が二本立つだけの停車場があった。
ここから先には、名前がなかった。
停車場の石柱に刻まれた町の名前が、削り取られていた。 削ったのではない。
文字が薄れて消えかけている。 石の風化ではなく、名前そのものが石から抜け落ちたような消え方だった。文字の溝だけが残り、溝の底に光の痕跡もない。名前が刻まれていた証拠すら、石から染み出すように消えている。
「名前が定着しない場所だ」
久遠が柱に触れた。
石は温かかった。
北に来てから、石の冷たさが変わっている。 南では凍えるように冷たかったが、ここでは生きた石の温もりがある。指先に伝わる温度は体温に近い。石の表面に薄い苔が張りつき、苔の湿り気が温もりを含んで柔らかかった。
「名前の凍結が及ばない場所では、名前は固定されない。石に刻んでも、紙に書いても、いずれ抜け落ちる。ここは——名前以前の場所だ」
「名前以前」
こよいが繰り返した。言葉の意味を、舌の上で転がすように。
「名前がなくても、存在はできる。ただ呼べないだけだ。呼べないものは記録できない。記録できないものは、理の管轄外になる」
線路が一本だけ、北へ伸びていた。
単線だった。 南では複線もあったが、ここでは一本しかない。 線路の両側に銀灰色の木が並んでいる。
木は背が高く、枝が伸びて線路の上にアーチを作っていた。枝の隙間から名前の光が漏れ、線路の上に細い光の縞模様を描いている。光の縞は風が枝を揺らすたびに動き、線路の表面を撫でるように走った。
あさひが線路の先を見た。
「次の停車場は」
「ない」
久遠が言った。
「この先に記録された停車場はない。目録にも、どこにも。この線路がどこまで続いているのかも分からない」
「線路はあるだろ」
「ある。だが、誰が敷いたのかも分からない。列車が走るのかも分からない」
あさひは線路を見た。
錆びてはいない。枕木の間に詰まった砂利も、最近踏み固められた跡があった。
使われている。
最近も列車が通った痕跡がある。 車輪で磨かれたレールの表面が、薄い光を反射していた。
「使われてるぜ。つまり、この先にも何かがある」
こよいは巾着を胸の前で持った。 神々が脈打っている。
温かい。
穏やかだが、確かな方向性を持った脈動だった。 北を向いている。南にいた頃の脈動は、どこか切迫していた。今の脈動は違う。呼ばれているのではなく、迎えに来ているような温もりだった。
「行こう」
こよいが息と一緒に言った。
「この子たちが覚えてる。この先の道を」
久遠は目録を閉じた。
ここから先は、目録に書かれていない道だった。 金色の筋は明るく光り続けているが、照らす頁がない。白い紙の上で筋だけが動いている。文字を求めて這うように、頁の端から端まで光が走り、何も見つけられずに戻る。
「巾着を信じるしかないな」
久遠が小さく言った。 こよいに向かってではなく、自分に言い聞かせるように。
あさひは大剣を背に負い直した。
「信じるとか信じないとか、面倒くさい話だ。道があるんだから歩く。それだけだ」
列車の気配がした。
振り返ると、停車場に列車が停まっていた。 いつ来たのか分からなかった。 音がなかった。
蒸気もなかった。
ただ、そこにあった。車体の表面に名前の光が映り込み、列車そのものが発光しているように見えた。窓の奥は暗いが、座席の縁だけが微かに光っていた。
「乗るか」
あさひが確認するように言った。
こよいは巾着に訊いた。 雨の神が一つ、強く脈打った。
乗れ、と言っている気がした。
三人は列車に乗った。 扉が閉まった。 列車が動き始めた。
窓の外を銀灰色の木が流れていく。 木の間から空が見えた。
暗い空に、名前の光が浮いている。 落ちない。
消えない。
ただ浮いて、光っている。
列車は北へ走った。 名前のない線路の上を、名前の光に照らされながら。
こよいは窓に額を寄せた。硝子が冷たくない。南の列車の窓は凍えるように冷たかったのに、ここでは硝子にも温もりがある。
線路脇の土が、微かに光っている。 名前の光ではない。土の中から、自ら光が滲み出ていた。
その光の一つが、動いた。
土の中から、何かが浮き上がろうとしている。 氷の粒が、温められた土に包まれて、ゆっくりと溶けていく。
凍った名前だった。
誰のものとも分からない、小さな名前の欠片。 理に凍結され、どこかから零れ落ち、この温かい土に辿り着いたもの。
溶けた名前は、蒸気のように立ち昇った。 薄く、頼りなく、風に触れれば散ってしまいそうなほど儚い。
だが——散らなかった。 立ち昇った光は、宙で一度たわみ、輪郭を結び直した。二文字ぶんの、小さな形。それが自分の脈を取り戻し、迷いのない速さで、地面すれすれを北へ滑っていく。歩いている。帰る場所を知っている者の歩き方で。
「散逸しない……」
久遠が義眼で光の軌跡を追った。
「ここは名前以前の場所だ。呼ばれる前の名前が、呼ばれないまま存在できる。散らすための理そのものが、ここには敷かれていない。……保護が要らないんじゃない。奪う仕組みがないんだ」
生きている。
「……見た?」
こよいが囁いた。
久遠は頷いた。 あさひも、窓の外を見ていた。
おたまが、窓枠に前脚をかけて、溶けて立ち昇る名前を目で追っていた。蒸気になった光が空へ散る、その一筋一筋を、猫は満足そうに見送っている。
八重の定理が、証明された瞬間だった。 名前は凍っても死なない。溶ければ、また歩き出す。会ったことのない師の最後の定理が、名前以前の場所を走る列車の窓の外で、静かに真実になった。
