第279話 八重の最終定理、実証
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第279話 八重の最終定理、実証

第9章 地図の折返し

山を下りるほど、おたまの山の温もりは薄れていった。  祈りの結晶は斜面のくぼみにしか残らなくなり、裾野すそのの枯れ草原に出る頃には、草の根元に転がるのは、光を持たないただの氷だけになった。祈りの痕跡こんせきも、脈動もない、冷たいだけの固体。凍結域とうけついきの端——名前が凍る前に蒸発してしまう土地だと、久遠くおんが言った。神々は巾着きんちゃくの底で身を寄せ合い、こよいは布の上から「大丈夫。ぼくがいるから」と声をかけた。  枯れ草原の中に、最近も使われた跡のある鉄路を見つけた。線路に沿って歩いた先に、石柱が二本立つだけの停車場ていしゃじょうがあった。

ここから先には、名前がなかった。

停車場ていしゃじょう石柱いしばしらに刻まれた町の名前が、削り取られていた。  削ったのではない。

文字が薄れて消えかけている。  石の風化ふうかではなく、名前そのものが石から抜け落ちたような消え方だった。文字の溝だけが残り、溝の底に光の痕跡こんせきもない。名前が刻まれていた証拠すら、石から染み出すように消えている。

「名前が定着しない場所だ」

久遠くおんが柱に触れた。

石は温かかった。

北に来てから、石の冷たさが変わっている。  南では凍えるように冷たかったが、ここでは生きた石の温もりがある。指先に伝わる温度は体温に近い。石の表面に薄いこけが張りつき、こけの湿り気が温もりを含んで柔らかかった。

「名前の凍結とうけつが及ばない場所では、名前は固定こていされない。石に刻んでも、紙に書いても、いずれ抜け落ちる。ここは——名前以前の場所だ」

「名前以前」

こよいが繰り返した。言葉の意味を、舌の上で転がすように。

「名前がなくても、存在はできる。ただ呼べないだけだ。呼べないものは記録できない。記録できないものは、ことわり管轄外かんかつがいになる」

線路が一本だけ、北へ伸びていた。

単線だった。  南では複線もあったが、ここでは一本しかない。  線路の両側に銀灰色の木が並んでいる。

木は背が高く、枝が伸びて線路の上にアーチを作っていた。枝の隙間すきまから名前の光が漏れ、線路の上に細い光のしま模様を描いている。光のしまは風が枝を揺らすたびに動き、線路の表面をでるように走った。

あさひが線路の先を見た。

「次の停車場ていしゃじょうは」

「ない」

久遠くおんが言った。

「この先に記録された停車場ていしゃじょうはない。目録もくろくにも、どこにも。この線路がどこまで続いているのかも分からない」

「線路はあるだろ」

「ある。だが、誰が敷いたのかも分からない。列車が走るのかも分からない」

あさひは線路を見た。

びてはいない。枕木まくらぎの間に詰まった砂利じゃりも、最近踏み固められた跡があった。

使われている。

最近も列車が通った痕跡こんせきがある。  車輪で磨かれたレールの表面が、薄い光を反射していた。

「使われてるぜ。つまり、この先にも何かがある」

こよいは巾着きんちゃくを胸の前で持った。  神々が脈打っている。

温かい。

穏やかだが、確かな方向性を持った脈動だった。  北を向いている。南にいた頃の脈動は、どこか切迫していた。今の脈動は違う。呼ばれているのではなく、迎えに来ているような温もりだった。

「行こう」

こよいが息と一緒に言った。

「この子たちが覚えてる。この先の道を」

久遠くおん目録もくろくを閉じた。

ここから先は、目録もくろくに書かれていない道だった。  金色の筋は明るく光り続けているが、照らすページがない。白い紙の上で筋だけが動いている。文字を求めてうように、ページの端から端まで光が走り、何も見つけられずに戻る。

巾着きんちゃくを信じるしかないな」

久遠くおんが小さく言った。  こよいに向かってではなく、自分に言い聞かせるように。

あさひは大剣を背に負い直した。

「信じるとか信じないとか、面倒くさい話だ。道があるんだから歩く。それだけだ」

列車の気配がした。

振り返ると、停車場ていしゃじょうに列車が停まっていた。  いつ来たのか分からなかった。  音がなかった。

蒸気じょうきもなかった。

ただ、そこにあった。車体の表面に名前の光が映り込み、列車そのものが発光しているように見えた。窓の奥は暗いが、座席のふちだけが微かに光っていた。

「乗るか」

あさひが確認するように言った。

こよいは巾着きんちゃくに訊いた。  雨の神が一つ、強く脈打った。

乗れ、と言っている気がした。

三人は列車に乗った。  扉が閉まった。  列車が動き始めた。

窓の外を銀灰色の木が流れていく。  木の間から空が見えた。

暗い空に、名前の光が浮いている。  落ちない。

消えない。

ただ浮いて、光っている。

列車は北へ走った。  名前のない線路の上を、名前の光に照らされながら。

こよいは窓にひたいを寄せた。硝子ガラスが冷たくない。南の列車の窓は凍えるように冷たかったのに、ここでは硝子ガラスにも温もりがある。

線路脇の土が、微かに光っている。  名前の光ではない。土の中から、自ら光がにじみ出ていた。

その光の一つが、動いた。

土の中から、何かが浮き上がろうとしている。  氷の粒が、温められた土に包まれて、ゆっくりと溶けていく。

凍った名前だった。

誰のものとも分からない、小さな名前の欠片かけら。  ことわり凍結とうけつされ、どこかからこぼれ落ち、この温かい土に辿たどり着いたもの。

溶けた名前は、蒸気じょうきのように立ち昇った。  薄く、頼りなく、風に触れれば散ってしまいそうなほどはかない。

だが——散らなかった。  立ち昇った光は、宙で一度たわみ、輪郭りんかくを結び直した。二文字ぶんの、小さな形。それが自分の脈を取り戻し、迷いのない速さで、地面すれすれを北へ滑っていく。歩いている。帰る場所を知っている者の歩き方で。

散逸さんいつしない……」

久遠くおん義眼ぎがんで光の軌跡を追った。

「ここは名前以前の場所だ。呼ばれる前の名前が、呼ばれないまま存在できる。散らすためのことわりそのものが、ここには敷かれていない。……保護が要らないんじゃない。奪う仕組みがないんだ」

生きている。

「……見た?」

こよいがささやいた。

久遠くおんは頷いた。  あさひも、窓の外を見ていた。

おたまが、窓枠に前脚をかけて、溶けて立ち昇る名前を目で追っていた。蒸気になった光が空へ散る、その一筋一筋を、猫は満足そうに見送っている。

八重やえ定理ていりが、証明された瞬間だった。  名前は凍っても死なない。溶ければ、また歩き出す。会ったことのない師の最後の定理が、名前以前の場所を走る列車の窓の外で、静かに真実になった。

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