七重の壁の向こうで待っていた案内の男に連れられ、山道に入って三刻目——雪が降り始めた。
最初は気づかなかった。空から落ちてくるものが、砂の名残なのか灰なのか、判別がつかなかった。久遠が義眼を上に向け、蒼い光で空を走査して初めて、それが雪だと分かった。
「初雪だ」
「雪……」
こよいは手のひらを空に向けた。白い粒が掌に落ちる。冷たい。だが溶けない。
溶けないのだ。
掌の体温に触れても、雪片はそのまま小さな結晶として残っている。六角形の、硝子のように透明な粒。こよいは目を凝らした。結晶の中に、何かが動いている。微かな光の明滅。脈を打つように、ゆっくりと。結晶の六つの角が、それぞれ異なるタイミングで光り、全体が呼吸するように明暗を繰り返していた。
「久遠くん、これ……」
「触るな。いや——もう触っているか」
久遠が歩み寄り、義眼の焦点をこよいの掌に合わせた。蒼光が結晶を透過し、内部の構造を映し出す。結晶の中に、格子のような微細な構造がある。格子の交点ごとに光が宿り、脈動している。久遠の目が細くなった。
「名前の断片だ」
「え」
「ただし、観測者が凍らせたものとは違う。これは自然に凍ったものだ。空気中に漂っていた祈りの残滓が、気温の低下で結晶化した。悪意はない。ただの冬だ」
こよいは掌の結晶をもう一度見た。脈打つ光。これが祈りの残骸だと言われると、胸の奥が痛んだ。誰かがどこかで唱えた祈り。届かなかった言葉。冬の空気に捕まって、結晶になって、山に降る。声を上げることも、形を取ることもできず、ただ光るだけの祈り。
山道の両脇に、雪が積もり始めていた。だが地面に触れた結晶も溶けていない。土の上に、小さな光の粒が敷き詰められていくように見えた。足元が仄かに明るい。歩くたびに結晶を踏み、踏まれた結晶が一瞬だけ強く光ってから暗くなる。
「おたまの山だよ」
前を歩いていた案内の男が振り返った。男の輪郭は薄く、強い光を背にすると向こう側が透けて見えた。
「この山は温かい。おたまって子が通ったとき、温もりを置いていったから」
「おたまって——」
こよいは、足元を見た。三毛の猫が、雪の積もり始めた山道を、いつもの足取りで歩いている。 案内の男の視線が、こよいの視線を追って、猫に届いた。 男が、立ち止まった。 薄い輪郭の中で、目だけが見開かれていく。男は何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。ただ、道の脇へ半歩よけて、深く、深く、頭を下げた。通る者に道を譲る、それ以上の礼だった。 おたまは、当たり前の顔でその前を通り過ぎた。
「……山が覚えてる温度と、同じ温度だ」
男はそれだけ言って、また前を向いた。その背中が一瞬透明になり、向こうの木々が見えて、また戻った。
あさひが足を止めた。
顔を上に向けている。雪片が頬に落ちて、睫毛に引っかかって、溶けない。小さな結晶があさひの顔に散らばって、焚き火の残り火のように瞬いている。あさひの肌の上で、結晶が脈打っていた。顔の輪郭に沿って光が並び、あさひの横顔を淡く縁取っている。
こよいはその横顔を見て、足を止めた。あさひが空を見上げる姿を見たのは、旅を始めてから数えるほどしかない。あさひはいつも前か、足元か、背後を見ている。空を見るのは、戦う相手がないときだけだ。
「あさひ」
「うるせえ。見てるだけだ」
雪があさひの髪に積もる。茶色の髪の上に、溶けない結晶が星のように散る。あさひは目を閉じた。雪の落ちる音を聞いているのかもしれなかった。結晶が地面に触れるとき、かすかに、硝子の鈴が鳴るような音がする。耳を澄まさなければ聞こえない音。
久遠は道の脇に腰を下ろし、目録を開いた。結晶を一粒拾い、頁に挟んだ。義眼の光で記録する。大きさ、形状、内部の光の周期。頁に挟まれた結晶が、紙の繊維の間で脈動を続けている。
「観測者が凍らせた名前は均一だった。工業製品のように同じ形、同じ密度。だがこの雪は一粒ごとに違う。形も光り方も。自然凍結の証拠だ」
こよいは頷いた。掌の結晶に、もう一度意識を向けた。脈打つ光に指先を近づけると、微かな振動が指先に伝わった。巾着の中の神々が共鳴するように揺れた。
「祈りなんだね」
「厳密には祈りの痕跡だ。祈りそのものはもう失われている。だが形だけが残った。化石のようなものだ」
「化石でも、脈は打つの」
「……それについては記録にない。新しい発見だ」
久遠は目録に書き込んだ。その筆跡がいつもより少し丁寧なのを、こよいは見逃さなかった。
山道を登り続けた。雪は止まなかった。だが冷たさは増さない。案内の男が言った通り、この山には残された温もりがあった。おたまが通った道。その足跡は見えないが、地面が覚えている熱。
頂の近くで、風が止まった。
雪が真っ直ぐに降った。風に流されず、重力だけに従って、結晶が垂直に落ちてくる。その光景は、こよいの目には光の柱のように映った。空から地面へ、途切れることなく降り注ぐ光の糸。
「綺麗だ……」
「綺麗なのは認める。だが足元を見ろ。積もった結晶で道が見えにくくなっている」
久遠の声は平坦だったが、義眼は空を向いていた。記録のためだと言うだろう。だがその蒼い光が、降る結晶を一粒ずつ追いかけているのを、こよいは知っていた。
あさひは何も言わなかった。
顔を上に向けたまま、黙って歩いていた。結晶が頬に積もっては風で落ち、また積もる。その繰り返しを、あさひは払いもせず受けていた。
おたまは、光の柱のような雪の中に座って、じっと空を見上げていた。 降ってくる結晶は、猫の毛には一粒も積もらない。猫の周りにだけ、少し広い空白があって、そこを避けるように雪が落ちる。まるで、山のほうが猫に遠慮しているようだった。
「おたま、昔もこういうの、見たのかな」
こよいが呟いた。誰にも聞こえないくらい小さな声のつもりだった。
「今も見てるだろ」
あさひが答えた。前を向いたまま。
「だからこの山が温かいんだ。見た奴の温度が残るんだろ、ここは」
雪は降り続けた。祈りの結晶が、おたまの山に静かに積もっていく。悪意のない冬が、名前のない温もりの上に、音もなく降り積もっていた。
山を下り始めたとき、案内の男が消えた。 振り返ったら、もういなかった。足跡もない。結晶の積もった斜面に、三人分の靴跡だけが並んでいた。名前が半分失われた者は、存在の定着が弱い。ここにいる理由が、なくなっただけかもしれなかった。久遠の蒼光が、男の立っていた場所を、二度だけなぞった。 雪の光を背に、三人と一匹は、山を下り始めた。
