第277話 七重の壁
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第277話 七重の壁

第9章 地図の折返し

線路は、壁の前で終わっていた。

車止めも標識もない。ただ、これ以上は敷けなかった、という終わり方で、二本の鉄が土の中に沈んでいる。霧列車きりれっしゃは扉を開け、三人と一匹を降ろすと、来た方向へ静かに退がっていった。

目の前に、壁があった。

最初は、天気の変わり目に見えた。霧の濃さが段になっている、それだけに。だが近づくほどに、段の一枚一枚が意思を持って立っていることが分かった。風が壁の手前で折り返している。鳥の声が、壁の向こうからだけ聞こえない。  石の壁ではない。空気の壁だった。  義眼ぎがん蒼光そうこうを当てると、光の帯が七つ、縦に並んで見えた。薄いまくが七枚、互いに触れ合わずに重なって、山の裾野すそのを横一線に塞いでいる。膜の一枚一枚が、それぞれ違う色の光をゆっくりと明滅させていた。

七重ななえの壁だ」

久遠くおんが言った。声がかすれていた。

「白紙になる前の写しに、名前だけがあった。最初の神の領域を守る、最後の防壁。一枚ごとに、別々のことわりで編まれている」

あさひが一枚目に手を伸ばした。指先が膜に触れる寸前、空気が硬くなった。押している感触はないのに、それ以上は進めない。

「……で、どう破る」

「破らない。答える」

久遠くおんは一枚目の膜に義眼ぎがんを向けた。膜の光が、問いのように明滅している。

「この旅で拾ってきたものを、順に差し出す。壁は鍵を試すんじゃない。歩いてきた道を試す」

一枚目は、音の壁だった。膜をくぐった途端、声を吸われ、足音が消えた。ゼロ地点と同じ静けさ。だが三人には、もう覚えがある。あさひが足踏みの振動で拍子を刻み、三人は黙ったまま歩調を揃えて進んだ。振動は消されなかった。音を諦めて、なお伝わるものだけが通った。膜を抜けると、耳の奥に音が戻り、こよいは自分の呼吸の音に少しだけ安堵した。

二枚目は、意味の壁。読む意志を眠らせる、あの完全な静止。おたまが先に、理由もなく通り抜けた。あさひが理由もなく続いた。理由なく動けるものを、壁は止められなかった。

三枚目は、記録の壁。触れた記憶が薄れていく。久遠くおん目録もくろくを開かず、声に出して言った。「記す者、歩む者、聴く者。三つ揃えば道になる」——こよいが聞いた。聞かれた言葉は、消えなかった。

四枚目は、名の壁。名乗らなければ通さず、名乗れば奪う。膜に触れた瞬間、こよいののどの奥で、自分の名前が勝手にせり上がった。言え、と壁が誘っている。座標の嵐で覚えた名乗りの力を、ここでは逆手に取られる。こよいは唇をみ、名を声にせず、胸の中でだけ強く握った。握った名前の重さが、足の裏から地面に伝わる。それで、足りた。  おたまの鈴が、チリ、と一度だけ鳴った。壁は、名のない音をとがめるすべを持たなかった。

五枚目と六枚目は——開いていた。  正確には、三人が近づく前に、開いた。先頭を歩くおたまが膜に鼻先を向けると、光の帯が左右へほどけ、猫一匹分の幅が、そのまま四人分の幅に広がった。  誰も、何も言わなかった。久遠くおん義眼ぎがんだけが、猫と膜を交互に見た。この壁は、招く相手を知っている。

七枚目の前で、全員の足が止まった。

最後の膜は、答えを求めなかった。ただ、そこにあった。厚く、静かで、これまでのどのことわりとも違う——体温に似た光をたたえて。

巾着きんちゃくが、鳴った。  音ではない。四柱よはしらの神々が、布の内側からいっせいに前へ押したのだ。ひもが張り、布が膨らみ、こよいの手を引くように、膜のほうへ。

「……帰りたいの?」

こよいがくと、膜の光が、ふ、と柔らかくなった。  そして、開いた。  鍵でも、答えでもなかった。帰る者を、壁は通す。それだけのことだった。

七枚目の膜の厚みを抜ける、その数歩の間——こよいは、見た。  膜の内側に、名前が泳いでいた。凍っていない。封じられてもいない。温かいまま、自由に、光の魚のように行き交っている。凍結とうけつも、忘却ぼうきゃくも、封印ふういんも知らない名前たち。名前が、ただ名前のままで生きている。  一つが、こよいの頬のすぐ横を通り過ぎた。風呂上がりの子どもの髪のような、湿った温かさが肌に残った。呼ばれるのを待ってもいない。呼ばれなくても、満ちている。南で見てきたどの名前とも、違う顔をしていた。  こよいの目から、涙が一粒落ちた。悲しくなかった。ここまで歩いてきた理由が、初めて、目の前を泳いでいた。

「……凍ってない」

久遠くおんの声が震えていた。

「凍結されていない名前が、在る。ことわりの外で、保護もなく、それでも散らずに。……八重やえの定理どころじゃない。ここでは、凍る必要そのものが、最初からなかったんだ」

壁を抜けた瞬間、目録もくろくが燃えるように光った。  金色の筋が、ページというページを走り、一つの方角へ収束していく。北。山の向こう。久遠くおん目録もくろくを両手で支え、長いこと動かなかった。

「……分かった。原本の在処ありかだ」

経蔵きょうぞうにあったんじゃないの」

「あれは記録の原本だ。これは、もっと前のものだ。目録もくろく経蔵きょうぞうの意識の断片。だが経蔵きょうぞう自身も——何かから分かれてきた断片だとしたら。その大元、意識の原型が、山の向こうにいる。最初の神と、同じ場所に」

久遠くおんは、目録もくろくを胸に抱え直した。孫が、祖父の家の方角を指している。そういうことなのかもしれなかった。金色の筋は、聖域せいいきの光で目覚めてから、ずっと同じ方角を指し続けてきた。帰る場所の方角を。筋が戻ってから、ずっと。

霧の奥に、山があった。  白い雪をまとい始めた稜線りょうせんが、七重の壁の内側の澄んだ空気の中に、初めてはっきりと見えた。  その裾野に、影の薄い男が一人、立っていた。星野ほしので見た住人たちと同じ、輪郭りんかくの薄い男。壁の内側で暮らす者らしかった。男は三人を待っていたように頭を下げた。

「山を越えるなら、案内が要る」

おたまが、男の足元をすり抜けて、先に山道へ入った。  男の薄い目が、猫の背中を追って、細くなった。何かを思い出しかけた者の目だった。

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