線路は、壁の前で終わっていた。
車止めも標識もない。ただ、これ以上は敷けなかった、という終わり方で、二本の鉄が土の中に沈んでいる。霧列車は扉を開け、三人と一匹を降ろすと、来た方向へ静かに退がっていった。
目の前に、壁があった。
最初は、天気の変わり目に見えた。霧の濃さが段になっている、それだけに。だが近づくほどに、段の一枚一枚が意思を持って立っていることが分かった。風が壁の手前で折り返している。鳥の声が、壁の向こうからだけ聞こえない。 石の壁ではない。空気の壁だった。 義眼の蒼光を当てると、光の帯が七つ、縦に並んで見えた。薄い膜が七枚、互いに触れ合わずに重なって、山の裾野を横一線に塞いでいる。膜の一枚一枚が、それぞれ違う色の光をゆっくりと明滅させていた。
「七重の壁だ」
久遠が言った。声が掠れていた。
「白紙になる前の写しに、名前だけがあった。最初の神の領域を守る、最後の防壁。一枚ごとに、別々の理で編まれている」
あさひが一枚目に手を伸ばした。指先が膜に触れる寸前、空気が硬くなった。押している感触はないのに、それ以上は進めない。
「……で、どう破る」
「破らない。答える」
久遠は一枚目の膜に義眼を向けた。膜の光が、問いのように明滅している。
「この旅で拾ってきたものを、順に差し出す。壁は鍵を試すんじゃない。歩いてきた道を試す」
一枚目は、音の壁だった。膜をくぐった途端、声を吸われ、足音が消えた。ゼロ地点と同じ静けさ。だが三人には、もう覚えがある。あさひが足踏みの振動で拍子を刻み、三人は黙ったまま歩調を揃えて進んだ。振動は消されなかった。音を諦めて、なお伝わるものだけが通った。膜を抜けると、耳の奥に音が戻り、こよいは自分の呼吸の音に少しだけ安堵した。
二枚目は、意味の壁。読む意志を眠らせる、あの完全な静止。おたまが先に、理由もなく通り抜けた。あさひが理由もなく続いた。理由なく動けるものを、壁は止められなかった。
三枚目は、記録の壁。触れた記憶が薄れていく。久遠は目録を開かず、声に出して言った。「記す者、歩む者、聴く者。三つ揃えば道になる」——こよいが聞いた。聞かれた言葉は、消えなかった。
四枚目は、名の壁。名乗らなければ通さず、名乗れば奪う。膜に触れた瞬間、こよいの喉の奥で、自分の名前が勝手にせり上がった。言え、と壁が誘っている。座標の嵐で覚えた名乗りの力を、ここでは逆手に取られる。こよいは唇を噛み、名を声にせず、胸の中でだけ強く握った。握った名前の重さが、足の裏から地面に伝わる。それで、足りた。 おたまの鈴が、チリ、と一度だけ鳴った。壁は、名のない音を咎める術を持たなかった。
五枚目と六枚目は——開いていた。 正確には、三人が近づく前に、開いた。先頭を歩くおたまが膜に鼻先を向けると、光の帯が左右へほどけ、猫一匹分の幅が、そのまま四人分の幅に広がった。 誰も、何も言わなかった。久遠の義眼だけが、猫と膜を交互に見た。この壁は、招く相手を知っている。
七枚目の前で、全員の足が止まった。
最後の膜は、答えを求めなかった。ただ、そこにあった。厚く、静かで、これまでのどの理とも違う——体温に似た光を湛えて。
巾着が、鳴った。 音ではない。四柱の神々が、布の内側からいっせいに前へ押したのだ。紐が張り、布が膨らみ、こよいの手を引くように、膜のほうへ。
「……帰りたいの?」
こよいが訊くと、膜の光が、ふ、と柔らかくなった。 そして、開いた。 鍵でも、答えでもなかった。帰る者を、壁は通す。それだけのことだった。
七枚目の膜の厚みを抜ける、その数歩の間——こよいは、見た。 膜の内側に、名前が泳いでいた。凍っていない。封じられてもいない。温かいまま、自由に、光の魚のように行き交っている。凍結も、忘却も、封印も知らない名前たち。名前が、ただ名前のままで生きている。 一つが、こよいの頬のすぐ横を通り過ぎた。風呂上がりの子どもの髪のような、湿った温かさが肌に残った。呼ばれるのを待ってもいない。呼ばれなくても、満ちている。南で見てきたどの名前とも、違う顔をしていた。 こよいの目から、涙が一粒落ちた。悲しくなかった。ここまで歩いてきた理由が、初めて、目の前を泳いでいた。
「……凍ってない」
久遠の声が震えていた。
「凍結されていない名前が、在る。理の外で、保護もなく、それでも散らずに。……八重の定理どころじゃない。ここでは、凍る必要そのものが、最初からなかったんだ」
壁を抜けた瞬間、目録が燃えるように光った。 金色の筋が、頁という頁を走り、一つの方角へ収束していく。北。山の向こう。久遠は目録を両手で支え、長いこと動かなかった。
「……分かった。原本の在処だ」
「経蔵にあったんじゃないの」
「あれは記録の原本だ。これは、もっと前のものだ。目録は経蔵の意識の断片。だが経蔵自身も——何かから分かれてきた断片だとしたら。その大元、意識の原型が、山の向こうにいる。最初の神と、同じ場所に」
久遠は、目録を胸に抱え直した。孫が、祖父の家の方角を指している。そういうことなのかもしれなかった。金色の筋は、聖域の光で目覚めてから、ずっと同じ方角を指し続けてきた。帰る場所の方角を。筋が戻ってから、ずっと。
霧の奥に、山があった。 白い雪を纏い始めた稜線が、七重の壁の内側の澄んだ空気の中に、初めてはっきりと見えた。 その裾野に、影の薄い男が一人、立っていた。星野で見た住人たちと同じ、輪郭の薄い男。壁の内側で暮らす者らしかった。男は三人を待っていたように頭を下げた。
「山を越えるなら、案内が要る」
おたまが、男の足元をすり抜けて、先に山道へ入った。 男の薄い目が、猫の背中を追って、細くなった。何かを思い出しかけた者の目だった。
